茶の湯都七名水

「茶の湯都七名水」とは?

 

茶の湯都七名水一覧

名水名 スポット名 エリア ポイント
佐女牛井跡 左女牛井
(さめがい)
佐女牛井跡 京都駅 京の三名水」の一つで西本願寺のやや北、堀川通沿いにある
室町時代には村田珠光、武野紹鴎、千利休、そして織田信長の弟・織田有楽斎といった茶人たちにも愛されたほどの名水だったが、第2次大戦中の堀川通の拡幅工事にあたり撤去されてしまった
平安時代には源氏の六条堀川邸の邸内にあったといわれており、現在は「左女牛井跡」の石碑とともに「六条邸跡」の石碑もすぐそばに建っている
なお四条堀川の東に店を構える亀屋良長本店の「醒ヶ井(さめがい)」は1991年(平成3年)に再興されたもので、まったく別のもの
芹根水跡 芹根水
(せりねのみず)
芹根水跡 京都駅 平安期より堀川沿いに湧いていたという名水で、茶人や文人などにも親しまれ、1780年(安永9年)の「都名所図会」の巻二にも描かれるなど京都の名所の一つだった
堀川と同水位だったため川の水が入らないように書家・松下烏石(1699~1779)が寄進した井筒で囲まれていたと伝わるが、大正時代の堀川改修の際に川の水が流れ込み用をなさなくなったという
石標は年銘はないものの宝暦年間(1751~64)頃に建てられたものと考えられており、当初は名水の涌いていた現在の堀川通木津屋橋下る付近にあったが、1982年(昭和57年)の堀川の暗渠工事の際にやや南に下がった旧安寧小学校(現在の梅小路小学校)の西側の現在地に移されている
芹根水跡碑のすぐそばには鳥石の書と伝わる「文房四神之碑」も建つ
NO IMAGE 滋野井
(しげのい)
麩嘉 京都御所 御所の南西、江戸後期の文化・文政年間(1804-29)頃には創業していたという生麩の老舗「麩嘉(ふうか)」の駐車場横にある
名前の由来は元々平安初期には学者でもあった公家の滋野貞主(785-852)の邸宅「滋野井殿」があり、その邸内に涌いていたことから主の姓にちなんで名づけられたもので、現在の滋野学区の地名の元にもなっている
大正初期にはまだ湧いていたという水も次第に廃れ井戸は完全に埋められたが、1980年(昭和55年)に麩嘉が涸れかけていた古い井戸を掘り直した際に地下60mの地点で豊富な水脈を発見し名水が復活した
以前の井戸は現在のものより100mほど西にあったという
六孫王神社 六孫王誕生水
(満仲誕生水)
(ろくそんのうたんじょうすい)
六孫王神社 京都駅 境内北側の弁天社にある名水で、安産の水としてこの水を子供に飲ませると元気に育つと言い伝えられている
清和源氏の祖と仰がれる六孫王・源経基(みなもとのつねもと)を祀る神社で、その子で清和源氏の武士団を形成した源満仲(みなもとのみつなか)誕生の際、井戸の上に琵琶湖に浮かぶ竹生島より弁財天を勧請し、安産を祈願し産湯に使ったと伝わる
初代の井戸は新幹線の工事の際に高架橋の下になってしまったが、2代目の井戸が掘り直されており、水脈は同じだという
妙満寺 中川の井
(なかがわのい)
妙満寺 岩倉・宝ヶ池 1583年(天正11年)に豊臣秀吉が再建を命じた寺町二条にあった井戸
妙満寺はその後1968年(昭和43年)に岩倉幡枝に移転したため、井戸を示す石碑も同時に移されている
清水寺 音羽の滝
(延命水)
(おとわのたき)
清水寺 祇園・東山 清水寺の開創の起源であり寺名の由来にもなっている滝で、滝の後ろにある祠には不動明王および清水寺の元祖・行叡居士などを祀られている
古来より清めの水として尊ばれてきたが、現在も海外の観光客からも人気の高い同寺の中にあって、仁王門や清水の舞台とともに人気スポットの一つにもなっている
不純物の混入が少なく硬度の低い軟水で、ミネラルを豊富に含んでおり、お茶やコーヒーなどの水にも使用すると本来の旨味が引き出されるのだとか
市比賣神社(市比売神社) 天之真名井
(あめのまない)
市比賣神社
(市比売神社)
京都駅 [京都の七名水]の一つ
1591年(天正9年)に豊臣秀吉により現在地に移転されたが、元々は795年(延暦14年)に遷都間もない平安京の左右両市場の守護神として桓武天皇の勅命により創建された由緒を持ち、皇室においては古来より皇子・皇女誕生の際に神宝天目椀「天之八塩(あめのやしお)」で汲み出された神社の「若水(わかみず)」を産湯に加えたという伝承も残っている
現在も絵馬を掛け御神水を飲んで手を合わせると心よりの願い事が一つだけ叶うと伝えられる一願成就の井戸として信仰されているほか、茶会、花展・書展などにも用いられている。

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