清水の舞台で有名な世界遺産、修学旅行でも一番人気
世界遺産で京都観光の定番人気スポット。
平安遷都前の開山で観音信仰の霊場として古くから有名。
音羽山中腹に建つ堂塔伽藍の大半は江戸3代将軍徳川家光の再建。
有名な本堂の清水の舞台は崖下18mから市内が一望でき絶景。
仁王門や三重塔などの重文、寺名の由来である音羽の滝と見所多数
清水寺のみどころ (Point in Check)
京都市東山区清水にある千手観音を本尊とする寺院で、金閣寺(鹿苑寺)や嵐山などともに京都随一の観光スポットとして外国人や修学旅行生にも高い人気を集めています。
元々は南都六宗の一つである法相(ほっそう)宗に属していましたが、戦後独立して現在は北法相宗大本山となっています。
奈良後期に延鎮が音羽の滝で練行中の行叡居士より授かった霊木を刻んだ千手観音を祀ったのがはじまりで、平安遷都後間もない798年(延暦17年)に征夷大将軍として活躍した坂上田村麻呂が仏殿を建立したと伝わっています。
その後も鎮護国家の道場として朝廷や幕府の厚く庇護され、度重なる火災や戦乱に遭いながらもその度に再建。
現在の建物の多くは1631~33年(寛永8~10年)に江戸幕府3代将軍・徳川家光により再建されたもので、国宝の本堂をはじめ多くの建築物が重要文化財に指定されています。
また本尊・十一面観音像は西国三十三所観音霊場の第16番札所に数えられ、平安期より日本有数の観音霊場として庶民にも親しまれてきました。
そして清水寺をもっとも有名にしているのが「清水の舞台から飛び降りる」の語源にもなっている本堂の「清水の舞台」。
高さ18mの断崖の上にせり出すように立ち、釘を使わず縦横に組まれた柱が見事なこの舞台からは京都市内が一望でき、絶景スポットとして知られています。
この他にも「清水寺」の寺名の起源でもあり、現在も様々なご利益を授かろうとする参拝客に人気の「音羽の滝」や舞台より谷を隔てた所にある安産祈願の「子安の塔」など見どころは満載。
また桜・紅葉の名所としても知られ、見頃の時期にはライトアップも開催されて多くの参拝客で賑わいます。
1994年(平成6年)12月「古都京都の文化財」としてユネスコの「世界遺産条約」に基づく世界文化遺産に登録。
毎年12月中旬頃に発表される今年の一字は各メディアにも取り上げられ、年末の風物詩にもなっています。
平安京遷都以前からの歴史
清水寺は、広隆寺や鞍馬寺とともに794年の平安京遷都以前からの歴史をもつ、京都では数少ない寺院の1つです。
清水寺縁起
「清水寺縁起」によると、奈良後期の778年(宝亀9年)、奈良・大和国の子島寺(こじまでら)の僧・賢心(けんしん)(のちの延鎮上人(えんちんしょうにん))が音羽の滝一帯を中心として練行中の行叡居士より授かった霊木を奉刻し千手観音を祀ったのがはじまり。その後平安遷都してまもなくの798年(延暦17年)に坂上田村麻呂が仏殿を建立したと伝わっています。
「木津川の北流に清泉を求めて行け」という霊夢をうけ音羽山麓にたどり着いた賢心は、滝のほとりで草庵をむすび、永年練行をしている齢200歳になるという行叡居士と出会います。
行叡居士は賢心に霊木を授けると、千手観音像を奉刻し観音霊地を護持するよう遺命を託して瞬く間に姿を消してしまったのでした。行叡居士は観音の化身に違いないと悟った賢心は、その言葉どおり千手観音を刻んで草庵と観音霊地の山を守り続けたのでした。
のちの征夷大将軍・坂上田村麻呂による伽藍の建立
その2年後の780年(宝亀11年)のとある夏の暑い日、平安初期に武人として活躍した坂上田村麻呂(758-811)は妻・三善高子の安産のためには腹に子を持った鹿の肝が薬として良いと聞き、鹿狩りをするために音羽山に上がります。
そして清らかな水の流れに惹かれて進むうち、賢心(のちの清水寺開山・延鎮)に遭遇、ここで観音霊地での殺生を戒められられるとともに観世音菩薩の教えを諭されたのです。
教えに深く感銘を受けた田村麻呂は妻とともに深く仏法に帰依、自らの邸宅を仏殿として寄進するとともに十一面千手観世音菩薩を本尊として安置したのでした。
のちに田村麻呂は桓武天皇に軍事的才能を認められて蝦夷征伐の軍に参加。征夷大将軍に任じられるとその期待に応え、東北全土を平定する活躍を見せます。
そして無事に都に戻ると798年(延暦17年)に延鎮(もとの賢心)と協力して本堂を大規模に改築。観音像の脇侍として地蔵菩薩と毘沙門天の像を造り一緒に祀ったといいます。
これらの由緒から、行叡を元祖、延鎮を開山、坂上田村麻呂を本願と位置づけているといいます。
平安期より観音信仰によって庶民にも親しまれてきた日本有数の観音霊場
平安中期以降は霊験あらたかな観音霊場として、貴族や武士といった限られた階級のみならず庶民にも開かれたお寺として広く信仰を集めました。
清少納言の「枕草子」では「さわがしきもの」の例として清水観音の縁日が挙げられ、また紫式部の「源氏物語」の「夕顔」の巻や「今昔物語集」にも清水観音への言及があるなど、古典文学をはじめ能狂言や歌舞伎、落語などにも数多く登場しています。
現在も本尊・十一面観音像は西国三十三所観音霊場の第16番札所となっており、滋賀県大津の石山寺や、奈良県桜井の長谷寺などと並び、日本でも有数の観音霊場として知られています。
「清水の舞台から飛び降りる」の語源にもなっている国宝・本堂
805年(延暦24年)には太政官符により坂上田村麻呂が寺地を賜り、810年(弘仁元年)には嵯峨天皇の勅許を得て公認の寺院となり、「北観音寺」の寺号を賜ったとされ、明治維新まで鎮護国家の道場として朝廷や幕府により厚く保護がされてきました。
ただし平安時代以来長らく興福寺の支配下にあったことから、興福寺と延暦寺のいわゆる「南都北嶺」の争いにもたびたび巻き込まれ、しばしば伽藍が焼失。
その後も応仁の乱など、記録に残るだけで9回の焼失を経験していますが、その都度再建されてきたのも、清水寺が信仰の篤い庶民より愛されてきた証といえるでしょう。
現在の建物の多くは1631~33年(寛永8~10年)に江戸幕府3代将軍・徳川家光の寄進により再建されたものが中心ですが、国宝の本堂をはじめ重文指定の子安塔、仁王門、馬駐、鐘楼、西門、三重塔、経堂、田村堂、轟門、朝倉堂、釈迦堂、阿弥陀堂、奥の院など、境内には多くの貴重な建築物が残されています。
中でも一番の見所は「清水の舞台から飛び降りる」の語源にもなっている国宝・本堂の「清水の舞台」。高さ18mの断崖の上にせり出した舞台造りで、釘を使わず縦横に組まれた柱が見事。
京都市内が一望できる絶景スポットでもあり、京都随一の観光スポットとして外国人や修学旅行生にも大変な人気を集めています。
世界遺産にも登録、現在も京都市内でも有数の観光地として有名
現代においても清水寺は金閣寺(鹿苑寺)や嵐山などと並ぶ京都市内でも有数の観光地として有名で、季節を問わず多くの参詣者が訪れています。また桜・紅葉の名所としても知られおり、四季折々の美しさで参拝者を出迎えます。
1994年(平成6年)12月には「古都京都の文化財」としてユネスコの「世界遺産条約」に基づく世界文化遺産にも登録され、外国人観光客にも高い人気を誇っています。
舞台下には「清水寺」の寺名の起源となっている音羽の滝
清水寺は始め「北観音寺」と呼ばれていましたが、境内に湧き出る清水が観音信仰の黄金延命水として神聖化され、一般にも清めの水として知られるようになり、後に「清水寺」と改められました。
そしてこの湧水は創建より一度も涸れたことがなく、現在でも「音羽の滝」の名水と呼ばれ、人気のパワースポットとして観光客に親しまれています。
滝の後ろには不動明王・行叡居士などを祀る滝祠があり、まずこの滝祠にお参りし、所願成就を祈願してから静かに霊水を頂きます。
この際に手と口をすすいだりする必要はなく、飲むのが正しい作法。そして霊水は欲張って二口、三口と飲むとご利益が半減、3分の1とどんどんと減ってしまうため、一口だけにしておくのがベストといいます。
また4mの高さから3本の筧に分かれて落ちてくる清水は左から「学問成就の水」「恋愛成就の水」「延命長寿の水」とよく分けて語られるそうですが、清水寺によれば滝の水はどれも同じとのことです。
安産祈願の子安の塔
本堂の南、舞台より錦雲渓の渓谷を隔てた丘の上に建つのが「子安の塔」で、高さは約15m。
天平年間に聖武天皇と光明皇后(701-60)が、子の誕生を願い祈願所としてに建立したとも伝わる清水寺の創建よりも古い歴史を持つ建物で、国の重要文化財にも指定されています。
内部に祀られている子安観音(千手観音)は6cmほどの小観音を胎内に宿していることから、名前の通り安産に御利益がある観音様として信仰を集めています。
清水寺の施設案内
伽藍配置
標高242mの音羽山(清水山)の中腹に広がる13万平方メートルの境内に、国宝、重要文化財を含む15の伽藍が建ち並んでいます。
正面入口となる仁王門広場からは仁王門の右手に西門と三重塔が見え、定番の撮影スポットとしても有名。
そして仁王門をくぐって石段を上がっていくと、鐘楼、経堂、開山堂(田村堂)、朝倉堂などの伽藍が続き、参拝受付を経て轟門をくぐると本堂、そして有名な清水の舞台に至ります。
本堂の先、境内の東側には北から釈迦堂、阿弥陀堂、奥の院が崖に面して建ち、奥の院から本堂の眺めがもっともよく知られた人気の撮影スポットで、一年を通じて多くの参拝客で溢れ返っています。
本堂東側の石段を下りた先には寺名の由来でもある名水「音羽の滝」がありますが、かなり急な石段のため、通常は奥の院から南へと続く参道を進み、本堂から谷を隔てた所にある「子安塔」と呼ばれる三重塔や塔頭寺院の泰産寺を経由して音羽の滝へと向かいます。
南庭と北庭
本堂を中心とした伽藍の南北それぞれに庭があり、ともに紅葉の名所になっています。
本堂の南側の南庭にある谷は「錦雲渓」と呼ばれ、秋には紅葉がきれいに色づき、舞台から、あるいは舞台下からと様々な角度で楽しめます。
一方本堂の北側には清水寺本坊の成就院があり、そのすぐそばの北庭にある紅葉谷は紅葉が楽しめる穴場スポットです。
また本堂のすぐ北隣にある地主神社は明治以降は神仏分離により独立したものの、元々は鎮守社として清水寺の一部だった神社です。
清水道・五条坂・清水新道(茶わん坂)の3つの参道
東大路通と松原通(かつての五条通)の交差する清水道交差点から清水寺仁王門まで約1.2km続く坂道は「清水道」と称され、清水道にバス停があることから、現在もっともよく利用されている参道となっています。特に五条坂との分岐から仁王門にかけての両側には土産物店などが軒を連ねており、一年を通じて観光客で賑わっています。
その南側、五条通と東大路通の交差する東山五条の交差点から北東に続く「五条坂」も参道の一つで、坂を上がっていくとやがて清水道へと合流します。その分岐のすぐ手前に清水坂観光駐車場があるため、東山五条から五条坂を上がっていく観光バスの姿を頻繁に見ることができます。
更に五条坂から清水道へと合流する手前に右へと向かう分岐があり、「清水新道(茶わん坂)」と呼ばれています。ここを右に進んでいっても仁王門の南にある出入口へと到着することができます。清水道に比べると通る人数は少なくなりますが、その分春の桜や秋の紅葉など特に混雑の激しい時期にはこちらを通った方がスムーズに境内へとアクセスすることが可能です。
また清水坂と五条坂が合流する分岐のそば、角に経書堂のある所で産寧坂(三年坂)も合流しており、八坂神社や高台寺から清水寺を目指す場合には二年坂から産寧坂を経由して清水道へ合流するルートが一般的。町屋が多く景観保全地区にも指定されている趣のある場所で、ルート上には土産物やなどの店も立ち並び、東山一番の観光スポットを形成しています。
またこれと似たルートで八坂の塔(法観寺)を経て産寧坂を上り、清水道へと合流するルートもありますが、これが中世までの一般的な参拝ルートで、それ以外のものは近世以降になって整備されたものです。
仁王門周辺
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仁王門前広場
清水坂(松原通)を東に進んだ突き当たり、仁王門の門前に広がる広場で、清水寺の正面入口にもあたる。
仁王門とその右奥に見える三重塔や西門などの朱色の伽藍の数々が印象的で、記念撮影のスポットとしても人気が高く、人の波が絶えない。
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案内図
清水坂(松原通)を東に進んだ突き当たり、仁王門の門前の広場の向かって左側(北側)に設置された案内掲示板。清水門前会の寄贈とある。
「ようこそ 清水寺」というタイトルとともに清水寺境内図と門前町図が記されている。
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子安の塔は本堂の南、錦雲渓を隔てた丘の上に建つ三重塔で、内部に祀られている子安観音(千手観音)は名前の通り安産に御利益があるとして信仰を集めている。
光明皇后(701-60)によって天平年間に建立されたとも伝わり、清水寺よりも古い歴史を持つが、元々は仁王門の右手前に建っていたという。
清水寺警備室の右側にひっそりと建つ石標は塔が1911年(明治44年)に現在の場所に移築される以前の所在地を示している。
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清水寺警備室
清水坂(松原通)を東に進んだ突き当たり、仁王門の門前の広場の向かって右側(南側)にある清水寺の警備室。
入口の右側には「子安塔趾」の石標が立っている。
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仁王門(赤門)(におうもん(あかもん))
清水坂(松原通)を上った突き当たり、境内の西端にある清水寺の正門。入母屋造、檜皮葺、鮮やかな丹塗りの堂々たる楼門で別名「赤門」とも呼ばれ、背後にある西門や三重塔と併せて絶好の撮影スポットとして観光客にも人気。
応仁の乱(1467-77年)により焼失の後、15世紀末に再建された室町建築の様式をよく表した建造物で、高さは約14m、左右の幅が約10m、奥行き約5m。門の両脇には鎌倉時代作で像高365cmと京都で最大級といわれる仁王像が門を守護するように安置されている。
また正面軒下の「清水寺」の扁額は平安時代の名書家・藤原行成の筆と伝わる。
国の重要文化財にも指定されており、2003年(平成15年)に解体修理された。
ちなみに門の右側の端、柱の前面と背面それぞれにある擦り減った木口は「カンカン貫」と呼ばれ、一人が耳をつけて反対側をもう一人が叩くと「カンカン」と澄んだ音が聞こえてくることから、清水寺の七不思議の一つに数えられている。
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阿阿の狛犬
仁王門の手前にあって門を守護している狛犬の像。
狛犬は口を開けた「阿形(あぎょう)」と閉じた「吽形(うんぎょう)」で一対をなすのが一般的だが、よく見ると左右とも口を開いた阿形の形をしているのが珍しく、清水寺の七不思議の一つにも数えられている。
これは明治時代に寄進された際に東大寺南大門にある狛犬をモデルに造られたことによるもので、お釈迦様の教えを大声で世間に知らしめているともいわれている。
またお寺に狛犬というのも珍しいが、これは境内鎮守社の地主神社のためのものなのだとか。
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明治初期の基準点標石
仁王門の左手前にある、1875年(明治8年)、内務省地理寮(後に地理局)によりイギリスの測量技術を導入して、京都市街地図を作成するために設置された基準点。
西側面「測點」、南側面「地理寮」、東側面「明治八年」、北側面「明治十五年八月建地理局」
地下に埋設されている基準点標石の上端に刻まれている対角線の中心が基準となっている。
基準点一式の形状は2つの石組からなり、現存する唯一のものであることから、近代測量および地図作成技術を知る上で貴重な歴史資料。
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馬駐(うまとどめ)
仁王門の正面向かって左手にある建物で、名前の通り参詣人の馬を繋いでおくための施設。かつては貴族や武士といった身分の人たちといえども下馬しここに馬を繋いで歩いて諸堂を参拝しなければならなかった。
現在の建物は室町時代、応仁の乱の後に再建されたもので、貴重な遺構として重要文化財にも指定。2010年(平成22年)に解体・全面修復された。
正面約10.5m、側面5mの規模で、同時に5頭の馬を繋ぐことができるものは全国的に見ても希少だという。
また中を仕切る柱に付けられた馬の手綱を繋ぎ止める鉄製の金具のうち2箇所(右から3本目の柱の右面上方と4本目の右面下方)だけが他と異なり垂直に垂れ下がっていて、清水寺の七不思議の一つに数えられる。
明確な理由は判っておらず、大工の遊び心だったともいわれている。
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善光寺堂(地蔵院)(ぜんこうじどう(じぞういん))
仁王門の左手(北側)にある堂で、16世紀中頃に描かれた清水寺古図「清水寺参詣まんだら」の同じ場所に建つ六地蔵の石仏を安置した小堂・地蔵院が前身。
その後明治中期の境内整理により長野県善光寺の本尊を勧請し奥の院の南庭にて建てられた善光寺如来堂を合併。以来「善光寺堂」と称するようになり、現在の堂は1984年(昭和59年)に改築されたもの。
如意輪観音坐像を中央に、右に善光寺阿弥陀仏三尊像、左に地蔵菩薩立像を安置。如意輪観音は観音信仰の隆盛により祀られるようになったもので鎌倉時代の作。11番の奥の院、12番の本堂、13番の朝倉堂、14番の子安の塔とともに洛陽観音第10番札所に数えられる。
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首振地蔵(くびふりじぞう)
善光寺堂の堂右手前にある小さな祠に安置されているお地蔵さん。
首が360度回るようになっており、静かに合掌して願い事のある方向にお地蔵様の首を廻して拝むと願いが叶えられると伝わる。
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寳性院(宝性院)(ほうしょういん)
清水寺の塔頭寺院の一つで、仁王門のすぐ北側を走る成就院参道の途中にある。
清水寺を維持・運営する「三職六坊」の組織のうち三職(執行・目代・本願)の執行職を務めた寺院(目代が慈心院、本願は成就院)。
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寳性院の庭
清水寺の塔頭・寳性院の東側にある小さな庭には陶製の猫やネズミ、ヒヨコなどの像が多く置かれていて、見る者の心を癒してくれる。
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1984年(昭和59年)に清水寺開創1200年の記念事業の際、観音信仰の道場・国際親善・文化交流の殿堂として建立された鉄筋コンクリートの建築物。4階建で3棟造、面積は延べ3370平方メートル。
中央の多宝閣は4階まで吹き抜けになっており、高さ20mの壁面の四方には東に薬師如来、南に釈迦如来、西に阿弥陀如来、北に多宝如来の彫像が永代供養仏として計4000体以上も祀られている。
また最上階には仏舎利、床面にはお釈迦様の美しい指紋「瑞祥十一相」を黒大理石に刻んだ4mにも及ぶ巨大な仏足石も。
多宝閣の他に寺宝を収蔵する東翼棟の宝蔵殿や西翼棟の円通殿、清水寺寺務所などで構成されている。
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寺務所
大講堂内にある清水寺の寺務所。
北法相宗宗務所も兼ねている。
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宝蔵殿(ほうぞうでん)
大講堂の東翼棟で、重要文化財の仏像、絵馬や寺宝などを収蔵する。通常非公開。
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円通殿(えんつうでん)
大講堂の西翼棟で、ごじょんぞんの十一面千手観音菩薩を収蔵。
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西門(さいもん)
境内の西側、三重塔のすぐ東に仁王門と並ぶようにして西を向いて急な石段の上に建つ拝殿風の華美な門。以前は勅使門としても使われたという。
創建の時期は不明だが、鎌倉時代の文面にその名が見られることから、平安末期には建築されていたものと推測される。
現在の門は江戸初期1631年(寛永8年)の再建で国の重要文化財にも指定。1993年(平成5年)に復元された桃山様式の華麗な丹塗りと極彩色の文様が特徴的。
三間一戸、正面8.7m、側面3.9mの八脚門で、単層・切妻造、檜皮葺の屋根に、入口正面に向拝(門から階段状に張り出した屋根)が付けられた姿はまるで拝殿のよう。左右の脇間には鎌倉様式の写実性豊かな持国天と増長天の立像が安置されている。
この門の三重塔側は一種の展望スペースとなっており、門の付近から見渡す京都市街や西山の眺望は大変美しく、特に西山に沈む夕日の眺めは西方極楽浄土を観想させるかのよう。
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念彼観音力碑(ねんぴかんのんりきひ)
境内の西側、西門へと続く石段の右手前にある石碑で、清水寺の中興開山・大西良慶和上の筆による。
観音経に繰り返し用いられている言葉で「念彼観音力」、すなわち観音菩薩の力を信じ一心に念ずれば…という意味。
観音菩薩は世の苦しみの声を聴いて(人々の音声を観じて)、その苦悩から救済する菩薩であり、その力を一心に念じれば観音様は直ぐに駆けつけてお救い下さるということ。
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石燈籠
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岸駒灯籠(がんくとうろう)
境内の西側、西門へと続く石段の前の広場の西門から見て右側(南側)に建つ石燈籠で、江戸中~後期の画家・岸駒(がんく 1749-1838)の虎の図が彫られている。
岸駒は加賀国・金沢に生まれ、京都に上って狩野派にはじまり南蘋(なんぴん)派や円山派などの諸派を画風を折衷して独自の画風を確立、京都画壇の中心となった人物。岸派の祖。
有栖川宮家の近習となり、その庇護の下で天明の大火で焼失した御所の障壁画を、また加賀藩主の招きに応じて金沢城二の丸御殿の障壁画も描いている。
また鳥獣を描くことを好み、中でも虎をもっとも得意とし「虎に波図屏風」などの代表作がある。
その見事な出来栄えから虎の目はどこから見ても正面よりこちらを睨んでいるように見える「八方睨みの虎」、あるいは虎が毎夜のごとく灯籠から抜け出しては音羽の滝の水を飲んだという「水飲みの虎」などの伝承も誕生し、清水寺の七不思議の一つ数えられている。
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鹿間塚(しかまづか)
鐘楼のすぐ西側の樹木が生い茂った付近、清水寺を創建した平安初期の武人・坂上田村麻呂(758-811)にまつわる史跡。
田村麻呂は桓武天皇に軍事的才能を認められて蝦夷征伐の軍に参加。征夷大将軍に任じられ東北全土を平定した人物だが、清水寺を創建したことでも知られている。
780年(宝亀11年)に坂上田村麻呂は妻の三善高子の安産のため、夏の暑い日に鹿狩りをするために音羽山に上がる。
安産には腹に子を持った鹿の肝が薬として良いと聞いたためであったが、清らかな水の流れに惹かれて進むうちに賢心(のちの清水寺開山・延鎮)と出会い、観音霊地での殺生を戒められられるとともに観世音菩薩の教えを諭される。
その教えに深く感銘を受けた田村麻呂は妻とともに深く仏法に帰依し、自らの邸宅を仏殿として寄進し十一面千手観世音菩薩を本尊として安置した、これが清水寺のはじまりとされている。
この塚は堂舎を建てるとき土地を開くのを手伝った鹿が産み落とした子を葬っている、あるいは神の使いである鹿が延鎮のために伽藍建立に際して一夜で平地にしたといい、その鹿を葬ったともいわれている。
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鐘楼(しょうろう)
現在の鐘楼は1607年(慶長12年)の再建で、重要文化財。1999年(平成12年)に復元されて、彩り鮮やかな桃山様式の彫刻が復活した。
牡丹彫刻の懸魚(けぎょ)、菊花彫刻の蟇股(かえるまた)、更に四隅の柱の先の獏と象の木鼻などが印象的。
また柱が6本になっており、「六本柱の鐘楼」として清水寺の七不思議の一つに数えられている。
通常は4本の柱で建築されるが、梵鐘が2.03tと大変な重さだったため、間に2本柱を増やし、更に「四方転び」と呼ばれる柱を少し内側に傾けて建てる技法が用いられている。
現在吊るされている梵鐘は5代目で、2007年(平成19年)に清水門前会結成20周年を記念し寄進された「平成新梵鐘」。
ちなみに第4代の梵鐘は1478年(文明10年)、応仁の乱から寺を復興した願阿上人(がんあしょうにん)が勧進寄進したもので重要文化財にも指定。
530年の長きに渡って活躍したが、金属疲労が進み現在は宝蔵殿に収納されている。
鐘楼の脇には新梵鐘の奉納を記念する「平成梵鐘寄進趣意」という記念碑が建てられている。
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中国障害者芸術団「千手観音」特別奉納記念の碑
西門と鐘楼の間を通る石段の途中にある石碑で、国際友隣協会により2010年(平成22年)に建てられた。
2009年(平成21年)8月27日、清水寺の本尊・十一面千手千眼観世音菩薩に、中国障害者芸術団が舞踊「千手観音」を特別奉納。
聴覚や視覚などの障害を乗り越えた流麗な踊りは日本人にも大きな感動を与え、日中文化交流の架け橋の役を立派に果たした。
そしてこの公演を記念するために、梅の木を植樹するとともに、日中友好の礎になることを祈念して石碑が建立された。
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爪ぼり観音(景清爪形観音)(かげきよつめがたかんのん)
随求堂の前庭、右手前に手水鉢と地蔵像と並ぶように一番右側に立っている、高さ約160cmの石燈籠の火袋(火を灯すための穴)の中に収められた線彫りの小さな観音像。
清水寺の観音を篤く信仰していたという平安末期の武将・平景清(たいらのかげきよ ?-1196)が、牢に入れられている間に爪で石の上に観音像を彫り奉納したものと伝わる。
景清は平家の侍大将として源氏と戦い、屋島の戦いでは勇名を馳せるも、平家滅亡後の1195年に源頼朝に降り、八田知家に預けられた後に断食して死んだ人物。
その悲劇的な最期は平家物語のほか、歌舞伎十八番の一つである「景清」、近松門左衛門作の浄瑠璃「出世景清」、笑福亭吾竹の古典落語「景清」など様々な演目の題材として取り上げられている。
火穴の奥に祀られていると伝わるが、石が黒っぽく、また火穴も小さいために暗くてなかなか見ることができない。
晴天時には稀に一部が見えるという説もあり、清水寺の七不思議の一つに数えられている。ちなみに清水寺にはもう一つ「仏足石(景清の足形)」という景清ゆかりの史跡もある。
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随求堂(慈心院)(ずいぐどう(じしんいん))
仁王門をくぐり鐘楼と西門の間の石段を上がり、参道を進んだ突き当たりにあるお堂で、真っ暗なお堂の下を通り抜ける「胎内めぐり」と瓦の背後の千鳥破風に施された大きな「龍の鏝絵(こてえ)」で有名。
清水寺の塔頭の一つである慈心院の本堂で、江戸中期の1718年(享保3年)の再建。2006年(平成18年)に解体修理され美しい姿に甦った。
堂の名前の由来にもなっている本尊(秘仏)の大随求菩薩(だいずいぐぼさつ)は衆生の願い求めに随(したが)って、叶えてくれるという大功徳を持つ。
他にも夫婦和合・安産・子宝の神様として有名な大聖歓喜天(だいしょうかんきてん)や婦人病に霊験あらたかな粟島明神(あわしまみょうじん)なども祀られている。
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胎内めぐり(たいないめぐり)
随求堂で体感できる堂内めぐりで、堂の下を本尊・大随求菩薩の胎内に見立てていることから「胎内めぐり」と呼ばれる。
堂の下の真っ暗な道を壁に巡らされた数珠を頼りに五感を研ぎ澄まして進んでいき、大随求菩薩を象徴する梵字「ハラ」が刻まれた随求石を廻して深く祈り、再び暗闇の中を進んで堂の上に戻ってくる。
2000年(平成12年)に開設されて以来、心の生まれ変わりやルネサンスを体感できる場所として参詣者の人気を集めているという。
時間は9:00~16:00(受付終了)で、拝観料は小学生以上100円。
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水子観音堂(みずこかんのんどう)
鐘楼の東側に建つ堂で、水子(みずこ)、すなわち幼児期に亡くなった赤子、あるいは流産または人工妊娠中絶などにより亡くなった胎児を供養するためのお堂。
水子を抱いた観音像が祀られている。
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中興堂(ちゅうこうどう)
境内の北側、成就院参道の途中にある、清水寺の中興開山・大西良慶(おおにしりょうけい 1875-1983)和上の御霊屋(おたまや)。
和上は奈良県に生まれ奈良・興福寺に入寺し興福寺231世住職・法相宗管長を経て、1914年(大正3年)に興福寺と兼職で清水寺に住持して以来、約70年にわたって清水寺住職を勤め、明治初期の上地令や廃仏毀釈により衰退していた寺の復興に尽力した。
1965年(昭和40年)に清水寺を本山とする北法相宗を設立し初代の管長にも就任。独特の説法は「良慶節」と呼ばれも親しまれた。
1983年(昭和58年)に107歳の長寿で大往生、その偉業を讃え1995年(平成7年)に和上の十三回忌を記念して建立発願、2年後の1997(平成9年)に落慶された。
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春日社(鎮守堂)(かすがしゃ(ちんじゅどう))
境内の北側、成就院参道の途中にある中興堂の隣りに建つ小さな社で、清水寺の元々の法流であった法相宗の鎮守である奈良・春日大明神を勧請して祀る。
室町後期に再建され、国の重要文化財にも指定。
小社ではあるものの切妻造に向拝(屋根の一部=庇が前方に突き出し拝礼の場所となっている部分)がつけられた典型的な春日造の社殿で、建物各所に見られる細かな彫刻が桃山時代の様式美を表す。
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光憂坂(こうゆうざか)
三重塔より北側にある春日社(鎮守堂)や中興堂に向かう途中にある坂。石段の途中に坂の名前を刻んだ石碑が建つ。
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三重塔(さんじゅうのとう)
平安初期の847年(承和14年)に清水寺の本尊・観世音菩薩の霊験により嵯峨天皇の皇子が生誕したのを機に葛井親王(かどいしんのう)が勅命を奉じて創建。
現在の塔は江戸初期の1633年(寛永9年)の再建で重要文化財。1987年(昭和62年)には古様式に則って解体修理され、各層総丹塗りかつ極彩色文様に復元された。
三間四方、高さ29.7mと日本最大級の規模をを持ち、一重には内陣中央に大日如来坐像、四面の壁に真言八祖像を配し、天井や柱には密教仏画や飛天、龍などが極彩色で描かれている。
また塔の四隅に通常厄除けのために設置される鬼瓦が、各階層の東南角のみ龍になっており、「龍の鬼瓦」として清水寺の七不思議に数えられている。
これは元来京都の西北は火伏せの神が鎮座する愛宕山(愛宕神社)によって守護されており、反対側の東南には守り神がいないため、火除けの意味を込めて水の神である龍神を置いたのだといわれている。
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経堂(きょうどう)
西門、三重塔と合わせて続く美しい丹塗りの建物の一つ。経堂とは経蔵と呼ばれる場合もあるが、寺院において経典を納めておく建物のことをこう呼ぶ。
現在の建物は1633年(寛永10年)の再建で、国の重要文化財。2000年(平成12年)に解体修理された。
清水寺においては平安中期に一切経を所蔵し、全国から学問僧が集まる「講堂」として栄えたが、それ以降記録からは消え、一切経も伝来していないといい、現在は文殊菩薩と普賢菩薩を脇侍とする釈迦三尊像を祀るお堂となっている。
また鏡天井には江戸期の絵師・岡村信基(おかむらのぶもと)の筆による墨絵の円龍が描かれているが、その円龍は音羽の滝の水を飲むために夜な夜な抜け出すという言い伝えがあり、「経堂の鏡天井」として清水寺の七不思議の一つに数えられている。
さらに毎年2月15日の涅槃会の法要の際には、堂内に江戸前~中期の絵師・山口雪渓の筆による、縦3.91m、横3.03mの「大涅槃図」が掛けられ、拝観できるほか、各種イベントにて特別展示が行われることも。
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開山堂(田村堂)(かいさんどう(たむらどう))
清水寺創建の大本願・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)夫妻の像を堂内中央に、併せて開基の行叡(ぎょうえい)居士坐像および開山の延鎮(えんちん)上人坐像を祀る。
現在の建物は江戸初期の1633年(寛永10年)の再建で、国の重要文化財に指定。2006年(平成18年)に修復されている。
三間四方、入母屋造、檜皮葺にお堂で、繧繝(うんげん)彩色という手法が施され、丹塗りの柱と屋根をつなぐ組み物は、五色の極彩色に彩られている。
別名「田村堂」とも呼ばれていて、田村麻呂を主人公に清水寺創建の縁起と蝦夷征伐を描いた謡曲「田村」に謡われている「田村堂」はこのお堂のこと。
通常非公開だが、行叡居士坐像・延鎮上人坐像は特別公開の際に拝観できる。
本堂~奥の院
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拝観券受付
本堂などの有料拝観エリアへ入るための拝観券を販売している。
京都でも一二を争う人気観光スポットだけのことはあり、受付の窓口の数は最大7か所も設けられているのが凄い。
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藤棚
拝観券受付の手前、経堂の向かいにある藤棚で、ベンチが設けられ休憩できるようになっている。
錦雲渓(新高雄)の紅葉の景色が見下ろせる他、境内の案内図も設置されている。
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案内図
藤棚の下に設置されている案内図で、清水寺境内略図と全国清水寺ネットワーク会議による全国清水寺の所在地の記された案内板が掲げられている。
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世界遺産の碑
拝観受付を過ぎて轟橋と轟門へ向かう手前右側に建つ。
清水寺はユネスコ(国際連合教育科学文化機関)で採択された世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約に基づき、「古都京都の文化財」の一つとして1994年(平成6年)12月に世界遺産リストに登録されている。
そのことを示す碑で、配置図には国宝・重要文化財および名勝に指定されている建造物の位置、また登録理由についても創建の歴史なども交えて分かりやすく説明されている。
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梟の手水鉢(ふくろうのちょうずばち)
轟門の門前、轟橋の左側にある、四隅の角を梟(フクロウ)が彫刻された台座が支える石造の手水鉢。取水口の龍の方が目立ち名前にある梟は台座の下にあるため、そのことを知らないと気付くことはほとんどない。
龍の口から出る水は「梟の水」と呼ばれ古くから名水として知られているのみならず、この水で口をすすぐと頭痛や歯痛が治るとの言い伝えがあり、清水寺の七不思議の一つにも数えられている。
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轟橋(とどろきばし)
轟門の入口に架かる石造の小さな橋。
水が流れていないのに橋が架けられていることから、清水寺の七不思議の一つにも数えられているが、寺の説明によるとすぐ左にある梟の手水鉢の手水を流す溝を跨ぐためと、御本尊が祀られている神聖な本堂を世俗から区切ることで、橋を渡る際に心身を清めて引き締める役割を持っているのだという。
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轟門(とどろきもん)
本堂の西側、仁王門をくぐり拝観受付と本堂の間にある中門で、参拝者は通常はこの門を通って本堂へと向かうこととなり、有料拝観エリアの入口にもなっている。
名前の由来はお釈迦様の教えを四方万里に轟かせるという所からその名がついたという。
現在の門は1631~33年(寛永8-10年)頃に再建されたもので、国の重要文化財に指定。三間一戸の八脚門で、切妻造、本瓦葺で、妻や天井の構造は東大寺の転害門を模し縮小した造りとなっている。
正面に月舟禅師の筆による「普門閣」の扁額を掲げ、正面の左右両脇に持国天と広目天、背面に阿・吽形(あ・うんぎょう)の狛犬を安置。また門前には轟橋とその左側に梟の手水鉢がある。
この点この門には通常あるはずの扉がなく、清水寺の七不思議の一つにも数えられている。現在平成の大修復の最中でその姿を見ることはできない。
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回廊(かいろう)
轟門と本堂をつなぐ屋根付きの廊下で、回廊という名前だが一直線なのが特徴的。
2010年(平成22年)からは毎年開催されている「京都清水寺で南部風鈴を愛でる会」では、短冊に願いが書かれた岩手県特産の南部風鈴が回廊に吊り下げられて涼やかな音色を響かせる。
坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際に戦ったアテルイとモレの碑が清水寺に建てられたことなどが縁となりはじめられた行事で、現在は東日本大震災からの復興や平和を祈る行事として定着している。
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朝倉堂(あさくらどう)
轟門と本堂の間を結ぶ回廊の途中北側に入口のある堂で堂内は通常非公開。戦国時代の1510年(永正7年)、応仁の乱の戦火で全焼した清水寺が復興された際に越前の守護大名・朝倉貞景の寄進により本堂に模して「法華三昧堂」として創建されたのがその名の由来。
創建当初は朱塗りが色鮮やかな舞台造だったといわれるが、現在の建物は江戸初期の1633年(寛永10年)の再建で、全面塗りのない白木造り、木口のみ胡粉を塗った重厚な雰囲気の建物となっている。国の重要文化財にも指定され、2013年(平成25年)には解体全面修復されている。
堂内中央の宝形作り唐様厨子(重文)の内部には本堂と同様に清水寺型の十一面千手観音(秘仏)を含めた三尊像(脇侍は地蔵菩薩・毘沙門天)が祀られており、併せて観音像が祀られ洛陽三十三所観音霊場の第十三番札所にもなっている。
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仏足石(景清の足形)
朝倉堂の東側、本堂の間にある。釈迦の両足形と十一種の妙相文様を彫刻したものと伝わり、この石を撫でてからその手で自分の足腰をさすると良くなるという、清水寺のパワースポットの一つ。
別名を「景清の足形」とも呼ばれているが、平景清(たいらのかげきよ ?-1196)は平安末期の武将で平家の侍大将として源氏と戦い、屋島の戦いでは勇名を馳せるも、平家滅亡後の1195年に源頼朝に降り、八田知家に預けられた後に断食して死んだ人物。
その悲劇的な最期は平家物語のほか、歌舞伎十八番の一つである「景清」、近松門左衛門作の浄瑠璃「出世景清」、笑福亭吾竹の古典落語「景清」など様々な演目の題材として取り上げられている。ちなみに清水寺にはもう一つ「爪ぼり観音(景清爪形観音)」という景清ゆかりの史跡もある。
怪力で知られ源平合戦で勇猛をはせた景清にあやかり何百年もの間、この足形は撫で続けられてきたこともあり、石に彫刻されていた釈迦の十一種の妙相文様はほとんど消えてしまっている。
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弁慶の爪痕(べんけいのつめあと)
仏足石の向かい側、本堂の外側の裳層(もこし)窓下の長押(柱から柱へ渡す形で壁に取り付ける横木)に木目に沿ってずっと続く深い筋状の傷のこと。
これは願掛けのためにお百度やお千度詣りをした人々が、夜になると真っ暗で何も見えないことから、目印として本堂に付けたものと言われており、民衆の信心深さが窺い知れる遺構。
堂の周りをぐるぐる回るその様子から、思考や議論が同じことの繰り返しで少しも先へ進まないことを意味する「堂々めぐり」という言葉があるが、これは清水寺の本堂でのお百度参りが起源になっているという。
また源義経に仕えた武蔵坊弁慶が人指し指で掘ったとの伝説もあり、「弁慶の爪痕」として清水寺の七不思議の一つに数えらえている。
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塩断ち阿弥陀
本堂の左翼廊、あまり目立たない左手の廂間(ひあわい)に鎮座している。
名前のとおり「塩断ち」して祈願する阿弥陀。神仏への祈願のためにある一定期間塩け(味噌や醤油なども)のある物を食べないこと。
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出世大黒天像(しゅっせだいこくてんぞう)
本堂外陣の西側(西翼廊)に笑坐する大黒天像で、ニコニコした顔で参拝者を迎え立身出世にご利益があるという。
中世以降に固まった大黒さんのスタイルそのままに大きな黒頭巾と、左肩に宝物袋、右手に打出の小槌を持ち、米俵を踏む姿で、黒光りする肌に、頭巾や服装が朱色、宝物袋と小槌と靴、それに米俵が金色に装飾されているのが特徴。
室町時代の作で傷が目立ったため2008(平成20年)に修復が施された。傷ができたのはご利益を求めて像めがけて賽銭を投げる人が多かったためで、現在は像を保護するため透明なケースの中に収まっている。
すぐ右隣にある授与所では出世大黒天を象ったお守りやキーホルダーなどの授与も行われている。
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鉄錫杖・高下駄(てつしゃくじょう・たかげた)
本堂の左側の西翼廊にあり、大錫杖は重さ90kg以上で小錫杖は14kg、そして高下駄は1足12kgあるという。
明治中期に奈良県・吉野で修行した修験者から奉納されたものだが、あまりの重さに源義経に仕えた武蔵坊弁慶が使っていたとの伝説も生まれ「弁慶の錫杖と高下駄」とも呼ばれる。
錫杖とは仏教の修行僧が常備すべき18の法具「比丘十八物(びくじゅうはちもつ)」の一つで、杖の先についた輪に遊環(ゆかん)が6または12個通してあり、錫々(しゃくしゃく)と音が出る仕組みになっているのが特徴。
この音には煩悩を除去し智慧を得る効果があるといい、また山野を遊行する際に獣や毒蛇から身を守ったり、托鉢の際に門前にて来訪を知らせることもできる。
清水寺にある錫杖を片手で持ち上げることができるとご利益があるといい、参詣の記念に力試しに挑戦するのも一興。
一方鉄下駄の方は女性が触ると一生履物に不自由せずお金持ちになれる、あるいは男性が触ると下駄が鉄の鎖でつながれていることから奥さんに縛り付けられて浮気ができなくなるという話もまことしやかに囁かれているが、真相は定かではない。
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古柱
本堂左側の西翼廊、出世大黒天の背後に展示されており、左から奥之院の舞台古柱、仁王門の右柱、本堂の舞台古柱との表示がある。
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授与所
本堂左側の西翼廊、出世大黒天のすぐ右側にある授与所。出世大黒天のカード守やミニ大黒、大黒天シール、大黒マスコット守、桜鈴などが授与されている。
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本堂(ほんどう)
平安遷都と同時期の8世紀末に征夷大将軍・坂上田村麻呂夫妻の寄進により創建。
現在の建物は1633年(寛永10年)に江戸幕府3代将軍・徳川家光の寄進により再建されたもので、国宝に指定されている。
正面11間(36m強)、側面9間(約30m)、棟高18mの大堂で、優美な曲線を見せる寄棟(よせむね)造・檜皮葺の屋根や軒廻りの蔀戸(しとみど)などが平安王朝の宮殿や貴族の寝殿造の邸宅の面影を今に伝えている。
堂内は巨大な丸柱の列により外陣(礼堂)と内陣、内々陣の三つに分けられ、参拝者は通常は外陣(礼堂)とその外側にめぐらされた廊下を進んで拝観することとなる。
最奥の内々陣の大須弥壇の上に祀られている本尊・十一面千手観音像は左右の腕を頭上に高く挙げて化仏(けぶつ)を戴くという「清水型観音」といわれる清水寺独特の姿をしており、脇侍の勝軍地蔵菩薩(しょうぐんじぞうぼさ)・毘沙門天(びしゃもんてん)とともに秘仏。
国宝の厨子内に安置されて33年毎に開扉されることになっており(三十三身して衆生を救うという「観音経」の教えにちなんでいるという)、近年では2000(平成12年)に通常どおり御開帳がされたが、2008~2009年(平成20-21年)にも特別に御開帳がなされている。
秘仏である御本尊の代わりに厨子の前には御本尊の姿を写した御前立仏(おまえだちぼとけ)を安置、それを守護するように左右に二十八部衆、そして風神・雷神の像が並べられている。
この内々陣は通常非公開だが、毎年8月14~16日の千日詣りおよび特別な法要の際には特別公開され、これらの像の数々を間近に拝観することができる。
また本堂は西国三十三所観音霊場の第十六番札所、また洛陽三十三所観音霊場の第十二番札所にもなっている。
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礼堂(外陣)(らいどう(げじん))
外陣(礼堂)と内陣、内々陣の三つに分けられた本堂の一番外側にあたり、通常一般の参拝者はこの外陣(礼堂)で礼拝。
内々陣の御本尊・清水寺型十一面千手観音像は秘仏のため、礼堂である外陣の内側正面の欄間に懸けられた御本尊の姿を写した「御正体(みしょうたい)」の懸仏を拝観することにより御本尊を透観することとなる。
各欄間には「朝比奈鬼首引図」など20面近い江戸時代の大絵馬が奉納され、中央の間の金箔の大丸柱や蔀戸(しとみど)と呼ばれる格子状の天井、御本尊と脇侍の三尊の梵字を彫刻する彩色蟇股などに江戸初期の桃山建築の華麗さが見ることができる。
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御正体(みしょうたい)
外陣(礼堂)の内側正面の欄間に懸けられている円鏡形の懸仏。
御本尊の清水寺型十一面千手観音像およびその脇侍である勝軍地蔵菩薩(しょうぐんじぞうぼさ)および毘沙門天(びしゃもんてん)を写したもので、直径2m、重さ400kg、檜板に銅版を張り、半肉彫りの観音像が取り付けてある。
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清水の舞台(本堂舞台)
「清水の舞台」として有名で、京都随一の人気観光スポットである清水寺の一番の見所でもある場所。
平安時代より構築されてきた本堂の附属建築物で、現在のものは江戸初期の1633年(寛永10年)に徳川3代将軍・徳川家光の寄進により再建。その当時のままで欄干親柱の金銅製宝珠には「寛永拾歳」と銘刻されているという。
本堂より錦雲渓と呼ばれる南の谷へ向かって間口約18m、奥行約10mに長さ5.5m、幅30~60cm、厚さ10cmの檜板を410枚以上敷き詰めた「檜舞台」が張り出し、床下を巨大な欅(ケヤキ)の柱に貫(ぬき)を縦横に通して楔(くさび)で留めた頑強な造りで支える、釘を1本も使わないで組み上げた「舞台造り(懸造り)」という建築方式が採用されているのが大きな特徴。
最南端の部分は急崖に12~13m強の高さで建っており、これは4階建てのビルに相当。必死の覚悟で物事を実行するという意味の「清水の舞台から飛び降りる」つもりでという諺(ことわざ)はあまりにも有名。
舞台から錦雲渓を隔てた先に見える子安の塔や阿弥陀ヶ峰、京都市街や西山の景色は見事で、撮影スポットとして人気が高く、桜や紅葉の時期には息を飲むような美しさが広がる。
ただし本来は本堂に祀られている本尊の千手観音に向かい舞楽を奉納するための文字どおりの舞台であり、現在も重要な法要の際には舞台奉納が行われる。奉納される演目は雅楽や能、狂言や歌舞伎などの古典から、現代音楽まで様々。
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納経所
本堂の正面右手(東翼廊)側にある授与所と納経所。所願成就や心身健康、家内安全、心願成就、交通安全、学業成就、商売繁盛、安産安穏などの祈祷受付もここで行っている。
おみくじや頭痛守、交通安全守、招福守、地蔵守、厄除守、安産守、幸守、勝守、学業成就守、金運守、開運出世守、縁結守、御守護、学童守、健康御守、長寿守、足腰守や富来守、絵馬、桜鈴、木御札、腹帯などの授与を受けることができる。
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東翼廊
「翼廊」は本堂の東西両側に造られており、元々は舞台で舞楽を奉納する際にその楽人たちが詰める学舎として使われる場所。
東翼廊は有料拝観エリアの出口になっており、ここから本堂を出てしまうと本堂の方には戻れないので注意。
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清水寺の境内北側にある神社で、大国主命を主祭神とすることから縁結びのご利益で知られ、若い女性やカップルなどに人気が高い。
創建は古く日本建国以前の神代の創建とされており、本殿前の守護石「恋占いの石」は縄文時代のものと鑑定されている。明治初期の神仏分離令までは清水寺の鎮守社として「地主権現」と呼ばれていた。
実際のところ地主神社の本殿と拝殿は清水寺の本堂と中心線をほぼ共通にして南面しており、清水寺の本堂に参拝すると地主神社にも参拝していることになるため、清水寺の本堂が地主神社の下拝殿のような役割を務めているともいえる。
現在の社殿は江戸幕府第3代将軍・徳川家光が1633年(寛永10年)に再建したもので、極彩色の本殿・拝殿・総門はいずれも国の重要文化財に指定。また歴史的経緯から清水寺の一部という形で世界遺産にも登録されている。
拝殿の鏡天井に描かれた丸竜は狩野元信の筆によるもので、音羽の滝の水を飲むために夜ごと天井を抜け出したという伝説を持ち「水呑み竜」、またいずれの方向から眺めても自分の方を睨んでいるように見えることから「八方睨みの竜」とも呼ばれている。
他にも撫でる箇所によって良縁・受験必勝・安産・商売繁盛・勝運・交通安全など様々なご利益がある「撫で大国」や、嵯峨天皇がその美しさに三度車を返したという「御車返しの桜」でも知られている。
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絵馬掛
東翼廊から本堂を出てすぐ右手にある。
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案内図
東翼廊から本堂を出てすぐ、音羽の滝へ降りる急な石段の手前にある案内図。
清水寺の境内略図が記されている。
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納経堂(納経所)
本堂を出て奥の院へ向かう途中、音羽の滝へと降りる急な石段の前にある。
左側が授与所となっており、右側が納経所。こちらには洛陽霊場、西国霊場、および法然上人霊場の納経所との表札が掲げられている。
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休憩所
納経堂(納経所)の右側にある東屋。
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石段
崖の上にある上段の本堂や奥の院と下段にある音羽の滝を結ぶ急な石段。
かなり傾斜はきついが、子安の塔の方へと迂回しなければならない子安道(さくら道)よりはかなりの近道になる。
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西向地蔵堂(にしむきじぞうどう)
釈迦堂の北隣にある堂。
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釈迦堂(しゃかどう)
境内本堂の東側、阿弥陀堂の北隣にある堂で、名前の通り中央の黒い漆塗りの須弥壇の上に釈迦三尊が祀られている。
現在の建物は1631年(寛永8年)に再建されたもので、国の重要文化財にも指定。1972年(昭和47年)に豪雨による土砂崩れで倒壊したが、その3年後の1975年(昭和50年)に再建時の姿に復旧復元されている。
寄棟造、檜皮葺の屋根を持つ一見簡素な造りに見える堂だが、内部には朱い漆塗り円柱の来迎柱や、極彩色の長押や貫、遊飛する天女の天井画などの華麗な装飾が施されている。
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お砂踏み場の宝筺印塔(おすなふみばのほうきょういんとう)
釈迦堂と阿弥陀堂の間の前方に建つ塔。下の台が三重の石造円盤、上部が金剛製の宝筺印塔という変わった形をしている。
かつて遠方への巡礼が難しかった時代に全国の霊場巡りをしたいという民衆の切実な願いに応えて造られたものだという。
塔の周りには全国の寺や霊山の砂が集めて納めてあり、塔を一廻りすれば一度に全国の霊場に参拝したご利益があるといういわゆる「お砂踏み場」になっている。
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参道
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百体地蔵堂(ひゃくたいじぞうどう)
境内本堂の東側、釈迦堂と阿弥陀堂の間の奥まった所に建つ堂。
子供を亡くした親たちが、我が子に似た地蔵を探し当てて信仰を篤くするといわれています。
奥まった場所にあることもあり堂の周辺は普段は静かだが、京都の夏の風物詩でもある地蔵盆会の際には賑わいを見せる。
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阿弥陀堂(あみだどう)
境内本堂の東側、奥の院の北隣にある堂で、昔は滝山寺(りょうせんじ・たきやまでら)と称していたという。名前の通り本尊・阿弥陀如来坐像を祀る。
現在の建物は江戸初期の1631~33年(寛永8-10年)頃の再建で、国の重要文化財にも指定。1996年(平成8年)に色鮮やかに彩色復元された。
三間四方入母屋造、桟瓦葺の屋根に丹塗りの柱、天井中央には極楽浄土に住むとされる上半身が美女、下半身は鳥の姿をした迦陵頻伽(かりょうびんが)が極彩色で描かれている。
また恵心僧都作の本尊・阿弥陀如来坐像は丈六で漆箔仕上げの荘厳な姿に、如来形の千仏を配し阿弥陀浄土の世界を表現した光背(こうはい)を持ち、その姿は阿弥陀如来がいるという極楽浄土の宝殿を彷彿とさせる。
1188年(文治4年)に浄土宗の開祖・法然上人が日本で最初に常行念仏道場とした場所であり、堂の左須弥壇に法然上人の木像が安置されているほか、内陣正面には後柏原天皇の直筆の「日本最初常行念仏道場」の勅額も架けられている。
現在も「法然上人二十五霊場」の第十三番札所として多くの参詣を集めるほか、「洛陽六阿弥陀」の如来念仏道場としてその縁日や彼岸には多数の参拝者が訪れる。
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濡れ手観音(ぬれてかんのん)
奥の院の裏側(東側)にある石の玉垣に囲まれた小池の中に立つ小さな石仏で、過酷な水垢離の行を水をかける本人に代わって行ってくれる有難い観音像。
北隣にある音羽の滝の水源の真上に湧く金色水(こんじきすい)の注がれる蓮華水盤から柄杓で水を汲み、像の肩からかけて自身の心身の清めと所願成就を祈願することで煩悩を洗い流してくれる。
現在奥の院が修復中のため北総門の手前右側に移されている。
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奥の院(おくのいん)
境内本堂の東側に建つ堂で、清水寺のはじまりとなった「音羽の滝」の真上に建ち、開山・延鎮(えんちん)上人および元祖・行叡居士(ぎょうえいこじ)が練行に励んだ旧草庵跡と伝わる由緒正しい場所に建てられている。
現在の建物は本堂などと同じ1633年(寛永10年)の再建で、国の重要文化財にも指定。
五間四方、美しい反曲線を描く寄棟造・檜皮葺の屋根に、僅かながらではあるものの組物や蟇股、長押など随所に桃山様式の極彩色文様の跡が残されている。
また本堂と同じ「舞台造り(懸造り)」が採用されており、ここから望む本堂の舞台や京都タワーを含めた京都市街の眺めは、絶好の写真撮影スポットとして参拝者に絶大な人気を集めている。
別名「奥の千手堂」とも呼ばれるどおり、御本尊には非常に珍しいという三面千手観音坐像(秘仏)を祀り、脇侍に地蔵菩薩と毘沙門天、更に眷属として二十八部衆および風神・雷神像を祀る。更に古くは真言宗兼学を伝統していたこともあり、真言宗の祖・弘法大師像も祀られているという。
第10番の善光寺堂、12番の本堂、13番の朝倉堂、14番の泰産寺(子安の塔)とともに洛陽三十三所観音霊場の第十一番札所。
現在は平成の大修復の最中でその姿を見ることはできないが、仮設の舞台から本堂の舞台を眺めることはできるようになっている。
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ふれ愛観音(ふれあいかんのん)
奥の院の礼堂の上り縁に安置された、仏に直接触れてお参りすることができる観音像。
金泥塗りの金属製で像高は61cm。目の不自由な人々にも手で触れることで観音様を拝んで欲しいという想いから、清水寺信徒の総代だった仏師・西村公朝(1915-2003)の手により彫刻・寄進されたもの。
西村公朝は大阪高槻の生まれで、東京美術学校(現東京芸術大学)を卒業。仏師・仏像修理技師として京都・三十三間堂の十一面千手観音千体像の修理ににも携わったほか、京都奥嵯峨の愛宕念仏寺の住職となり同寺の復興に尽力し千二百羅漢を発願したことでも知られる。また2000年からはじまった「清水寺青龍会」の監修も務めている。
奥の院が平成の大修復中のため、現在は本堂の外陣(礼堂)に移されている。
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夜叉神堂(やしゃじんどう)
奥の院の右奥(南廊下)に隣接する小さな祠で、夜叉神(やしゃじん)を祀る。
清水寺には四神相応のうちの東の「青龍」の地にあたることから、古くより観音の化身である龍が音羽の滝に夜ごと飛来して水を飲むという言い伝えがあり、その一方で夜叉神はその青龍の地を守り、人々の悪縁を断ち、良縁を結び直す神「縁切夜叉」として信仰されてきたという。
この言い伝えと夜叉神への信仰と畏怖をもとに2000年(平成12年)、清水寺門前会によりはじめられたのが「清水寺青龍会」で、毎年3月と9月に開催されている。
子安の塔~音羽の滝
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子安道(さくら道)
奥の院から子安の塔や音羽の滝へと向かう参道。「奥ノ院道」と刻まれた石標もあるが、境内の案内図では「子安道(さくら道)」となっている。
参道の途中右側(西側)に展望が開ける場所があり、奥の院同様に本堂舞台を眺めることができる。
また左側(東側)の斜面には奉納された観音千本桜が約1000本植樹されている。
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区画図
2000年(平成12年)に行われた御本尊御開帳の奉納記念植樹「観音桜」の区画図。
奥の院から南へ少し進んだ先に掲示されているほか、子安の塔の入口の手前にも区画図の掲示がある。
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観音千本桜
奥の院から子安の塔や音羽の滝へと向かう子安道(さくら道)の東側の傾斜を中心に植えられている約1000本の山桜。
2000年(平成12年)の33年ぶりの御本尊御開帳を記念して植樹された。
1934年(昭和9年)の室戸台風による大規模な土砂崩れの経験から、ソメイヨシノよりしっかりと根を張り土砂が崩れるのを防ぐのに適した山桜が選ばれたのだといい、また失われた京都の里山の風景をよみがえらせたいという想いも込められているのだという。
それぞれの桜には番号と奉納者の名前、そしてコメントのついた表札が付けられている。
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展望
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奥ノ院道の道標
子安の塔の入口の石段の向かい、福禄寿石仏のそばにある道標で、「是より北 清水寺奥ノ院道」と刻まれている。
ただし現在の案内図などでは「子安道(さくら道)」という表記になっている。
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石標
子安の塔の入口の石段の手前左にある石標で、「洛陽十四番 子安観世音菩薩」と刻まれている。
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福禄寿石仏(ふくろくじゅせきぶつ)
子安の塔の入口の石段の向かいに祀られている石仏。
「清水寺縁起」によると、清水寺は奈良時代の778年(宝亀9年)に奈良・大和国の子島寺の僧・賢心(のちの延鎮上人)が音羽の滝一帯を中心として練行中の行叡居士より授かった霊木を奉刻し千手観音を祀ったのがはじまり。
そしてこの石仏はその頃練行中の行叡居士の姿だと伝わるもので、当時の仏教行者は道教の熟達であった事が十分に想像される数少ない資料の一つ。
ただし後世においては宝冠に似た頭布に広袖の衣、長髪の顎ひげを垂らし、右手に錫杖、左手の経巻などの形から、七福神の「福禄寿」として信仰を集め祀られてきたという。
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子安の塔(子安塔)(こやすのとう)
本堂の南、錦雲渓を隔てた丘の上に建つ高さ約15mの三重塔で、国の重要文化財にも指定。
詳しい創建時期は不明だが、天平年間に聖武天皇と光明皇后(701-60)が子の誕生を願い祈願所としてに建立されたとも伝わり、清水寺よりも古い歴史を持っている。
元々は仁王門の右手前に建っていたが、明治末期の1911年(明治44年)に現在の場所に移築された。
内部に祀られている子安観音(千手観音)は6cmほどの小観音を胎内に宿しており、名前の通り安産に御利益があるとして信仰を集めている。
現在の塔は従来は本堂などと同じ江戸初期の1633年(寛永10年)の再建とされてきたが、2008年(平成20年)より進められている平成の大修復(子安の塔は2013年に完了)の際に小さな木組みの部材に記された記述から現在の建物は1500年(明応9年)頃に建立されたものと判明。また明治時代に一色に塗られていた外観も修復にあたり建立当時の華やかな彩色に復元された。
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泰産寺(たいさんじ)
清水寺の塔頭寺院の一つで、本堂の南、錦雲渓を隔てた丘の上に建つ子安の塔の麓にあり塔を守護している。
「泰産」は「安産」と同じ意味があり、有名な産寧坂はこの泰産寺に参拝するための道ということでその名が付いたとも言われている。
第10番の善光寺堂、第11番の奥の院、12番の本堂、13番の朝倉堂とともに洛陽三十三所観音霊場の14番札所だが、朱印(納経)は清水寺本堂東の納経所で行うよう掲示されている。
またこの塔の前からは清水寺の全景が見渡せる眺望が広がっており、西門から本堂まで伽藍がずらりと並ぶ姿は壮観。
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通用門
子安の塔および泰産寺のそばにある南門(なんもん)。
この門をくぐり清閑寺道を通って南にある清閑寺へ行き来ができる。
「夜の特別拝観期間中は午後五時に施錠します。」との表記がある。
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清閑寺道
子安の塔から通用門(南門)を通り南側にある清閑寺へと続く道。
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音羽稲荷
子安の塔から音羽の滝へと向かう道の途中、左手に見える建物の手前側にある小さな祠で、音羽稲荷大明神を祀る。
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高照弁財天
子安の塔から音羽の滝へと向かう道の途中、左手に見える建物の奥側にある小さな祠。
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灯篭群
子安の塔から音羽の滝へと向かう道の途中、左手に見える。
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江戸中期を代表する文化人にして琳派を大成した画家・尾形光琳の弟である陶芸家・尾形乾山(おがたけんさん 1663-1743)の記念碑。
乾山は京焼を大成したことで知られる野々村仁清に学んで鳴滝窯を開き、兄・光琳の絵付による合作を出し色絵京焼の発展に大きく貢献した人物。「乾山」の号は窯が京都の乾(北西)の方向にあたることから。
記念碑は臨済宗建仁寺派管長・竹田默雷禅師の筆により、1920年(大正9年)、当時の清水寺貫主・大西良慶和上の後援で洛陶会が建立したもの。
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野々村仁清の作陶を記念をする石碑。
野々村仁清(ののむらにんせい 生没年不詳)は江戸前期に活躍した陶工で京焼の大成者とされる人物で、名は清右衛門、通称清兵衛。
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丹波国北桑田郡野々村(現在の京都府南丹市美山町)に生まれ、瀬戸焼で有名な尾張国(愛知県)の瀬戸で修行の後、京の粟田口にて制作を開始。
正保年間(1644-48)頃に仁和寺の門前にて御室窯を開き,茶匠・金森宗和(1584-1656)の指導を得たことで轆轤(ろくろ)成形と蒔絵(まきえ)の趣を応用した優雅な色絵付に卓越した才能を発揮するように。
後に仁和寺門跡から「仁」の字を与えられ「仁清」と号した。
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音羽路(音羽道)
本堂の南に広がる錦雲渓の中にある道で、左右にうねるように上り下りが続く九十九折れの急坂。
急勾配が続くため人は少ないが、音羽の滝が落ちる場所を間近で見ることができるほか、紅葉と新緑の時期には見事な景色が広がる。
音羽の滝のすぐそばと、延命院のそばに坂の入口があり、それぞれに「音羽路」と刻まれた石標がある。こちらは音羽の滝側の石標。
「この先の音羽道は急勾配ですので、ご自身の体力、脚力をご考慮の上足元凹凸に十分ご注意下さい。尚、車椅子、高齢者の方々の為の設備は設けておりません。」との注意が書かれた看板も設置されている。
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清水寺境内の音羽の滝のすぐ横にある茶屋。百年以上の歴史と持っているといい、桂米朝の上方落語のネタ「はてなの茶碗」の舞台と言われている茶店。
お奨めは京都の軟水で作られた豆腐を昆布と鰹のだしで頂く「湯豆腐」と名物の「おはぎ付抹茶」だが、夏は昔懐かしい「塩ラムネ」味のかき氷、冬は温かい「きつねうどん」や「おでん」も捨てがたい。
営業時間は9:30~17:00
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滝の家の床席
音羽の滝のすぐ横にある茶屋「滝の家」の屋外の床席。靴を脱いで上がれる小上がりの畳席に茶店などでよく見られる赤色の緋毛氈(ひもうせん)が敷かれ風情を醸し出している。
参道の谷側にあるため暖かくなると爽やかな風が吹き、爽やかな水の音を聞きながらゆっくりくつろぐことができるため特に人気。
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音羽の滝(おとわのたき)
境内本堂の東にある奥の院の崖下を流れ、清水寺の開創の起源であり寺名の由来にもなっている滝。この水を求めて連日のように行列ができるほどの人気のパワースポットとして知られている。
「清水寺縁起」によると、清水寺は奈良時代の778年(宝亀9年)に奈良・大和国の子島寺の僧・賢心(のちの延鎮上人)が夢告によってたどり着いた音羽の滝にて練行中の行叡居士と対面。居士より授かった霊木を奉刻し千手観音を祀ったのがはじまり。
創建より一度も涸れたことがなく、背後の音羽山を水源にこんこんと湧き出る清水は「黄金水」あるいは「延命水」と呼ばれ、古来より清めの水として尊ばれてきた。
4mの高さから3本の筧に分かれて落ちてくる清水は左から「学問成就の水」「恋愛成就の水」「延命長寿の水」と分けて語られることもあるが、清水寺によれば滝の水はどれも同じだという。
滝の後ろには不動明王・行叡居士などを祀る滝祠があり、まずこの滝祠にお参りし所願成就を祈願してから静かに霊水を頂く。この際手と口をすすいだりする必要はなく、飲むのが正しい。
ただし霊水は欲張って二口、三口と飲むとご利益が半減、3分の1とどんどんと減ってしまうため、一口だけにしておくのがベストという。
ちなみに柄を長くした柄杓(ひしゃく)は参詣者が一口飲む毎に紫外線できる殺菌装置に入れられて殺菌消毒されているので安心だが、後の人のために3度丁寧に洗い流して返すのがマナー。
また元々は滝行の場であったこともあり、元祖・行叡居士および開山・延鎮上人の伝統を守り今に伝えるため、現在も早朝や夜間などに水垢離(みずごり)が行われているとい、滝の足元に並ぶ3つの角石と丸石はその際の足場。
そして毎月28日はお不動さんの縁日であることから、朝6時より蝋燭をお供えする燈明と、7時より僧侶による読経が行われている。
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滝の堂(拝堂)
音羽の滝の向かいにある建物で、西国三十三箇所観音霊場の十六番札所としての清水寺の御詠歌で拝観券にも印刷されている「松風や 音羽の滝の 清水を むすぶ心は すゞしかるらん」の歌の額が飾られている。
授与所も設けられており、「御祈祷水 音羽霊水」という瓶詰めされた音羽の滝の水を求めることができる。
ちなみに音羽の滝の水は京都盆地の地下水が地圧によって音羽山の断層の岩盤から湧き出したもので、不純物の混入が少なく硬度の低い軟水で、ミネラルを豊富に含んだ天然水。
そのためこの水を使用して淹れたお茶やコーヒーは純水により本来の旨味が引き出され、格別に美味しいと評判なのだとか。
また滝の水を飲むための専用のお椀も販売されており、滝の水を柄杓で飲むのに抵抗がある人や参拝の記念、お土産に買い求める人もいる。
南苑
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舞台下の道
清水の舞台の下を東西に続く参道で、舞台造り(懸造り)によって組み立てられている舞台を下から見上げることができる。
舞台下には小さな石仏や地蔵が点在しているほか、春には射干(シャガ)の群生、秋には彼岸花(ヒガンバナ)などがひっそりと咲く光景が楽しめる。
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錦雲渓(新高雄)(きんうんけい(しんたかお))
有名な清水の舞台の前方に広がる1000本の紅葉の景色(ちなみに背後は紅葉谷と呼ばれる)で、明治30年前後に生まれた名称。
明治維新に伴い天皇が東京に移って以後活力を失っていた京都を観光で復活させようと、境内にモミジを計画的に植えたのがはじまりで、意外なことに清水寺が紅葉の名所として認知されるようになったのは明治以降のことだという。
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阿弖流為・母礼の碑(アテルイ・モレの碑)
「阿弖流爲(アテルイ)」と「母礼(モレ)」はともに8世紀末頃に日高見国胆沢(いさわ)(岩手県水沢市地方)を本拠とした東北の蝦夷(えみし)の首長で、坂上田村麻呂の蝦夷征伐に対して十数年に渡り勇敢に戦いを挑んだ。
奮闘空しく遂に軍門に下り京に連行されるが、田村麻呂は両雄の武勇や人物を惜しみ朝廷に対し助命嘆願するも、願いは叶わず802年に河内国で処刑されてしまったという。
1994年(平成6年)、2人の英雄を顕彰するため平安建都1200年を記念して建立された。石碑の左側にはその経緯を説明する顕彰碑も建てられている。
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音羽地蔵尊
阿弖流為・母礼の碑を正面に見て左手前にある地蔵像。
「音羽地蔵尊」の名前とともに「道中安全」の文字が刻まれている。
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舌切茶屋(したきりちゃや)
錦雲渓の中、舞台下の参道の途中にある、「安政の大獄」で犠牲となった幕末の尊王攘夷運動家・近藤正慎(こんどうしょうしん 1816-58)の子孫が境内に出店する茶屋。
近藤正慎は清水寺の塔頭・成就院の執事だった人物で、「安政の大獄」で入水し落命した清水寺の勤王僧・月照とは友人関係にあり、月照が西郷隆盛とともに薩摩に逃れた際に捕えられ、京都・六角牢獄で二人の行方を問われ拷問を受けるが、白状することなく自ら舌を噛み切り、牢獄の壁に頭を打ちつけて壮絶な最期を遂げた忠義の人。
残された妻と子供たちは後に境内に茶店を出すことを許されるが、正慎の最期に由来するかのようにいつしか「舌切茶屋」の名前が定着したという。
境内北側にある「月照・信海歌碑・西郷隆盛詩碑」の右側には正慎の忠義を称える「近藤正慎顕彰碑」も建てられている。
ちなみに子孫としては孫に陶芸家の人間国宝・近藤悠三(1902-1985)、曾孫に大河ドラマにも数多く出演している俳優の近藤正臣(1942-)がいる。
甘酒、茶団子、ぜんざい、お抹茶、ところてん、あめ湯などが提供されている。
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拝観出口
ちょうど忠僕茶屋の前あたり。音羽の滝から舞台下の参道を西へ進むと十一重石塔の立つ広場に出るが、この広場と参道の境には「ここからは入れません 参拝入口へおまわりください」との注意看板が掲示されていて、引き返すことはできないようになっている。
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忠僕茶屋(ちゅうぼくちゃや)
舞台下の参道を西へ進み十一重石塔の立つ広場にある、幕末の「安政の大獄」で入水し落命した清水寺の勤王僧・月照に仕え忠義を尽くした大槻重助(おおつきじゅうすけ 1838-93)が開き、現在もその子孫が運営を続ける茶店。
大槻重助は幼い頃より清水寺の月照に仕え、「安政の大獄」で命を狙われた月照や西郷隆盛が九州へ落ち延びようとした際にはこれに従っている。
月照が落命するとその遺品を持ち帰り京都に戻るも、捕えられて約半年の間六角獄舎に入れられ過酷な取り調べと拷問を受けるが、決して口を割ることはなかった。
釈放された重助はその後清水寺に茶店を開きながら、生涯にわたり月照の墓を守り続け供養を絶やさなかったという。
明治維新の後に西郷隆盛の弟・西郷従道から月照に対する忠義を称えられ「忠僕茶屋」の屋号を与えられ現在に至る。
境内の北側、「月照・信海歌碑・西郷隆盛詩碑」の左手前には重助の忠義を称える「忠僕重助碑」も建てられている。
茶団子やわらび餅、甘酒、お抹茶、ところてん、ぜんざいやきつねうどん・そばなどが提供されている。
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延命阪
舞台下の参道を西へ進み十一重石塔の立つ広場の北側にある石段で、途中で二手に分かれて左へ進むと仁王門広場、右へ進むと轟門や本堂の方へと連絡しているが、右側の石段は封鎖されていて通行することはできない。
名前は広場の南側にある塔頭寺院・延命院に由来しているものと思われる。
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放生池
舞台下の参道を西へ進み十一重石塔の立つ広場の西側にある池。順路に従い本堂から奥の院、音羽の滝と拝観していった場合はこの池が最後のスポットで、池の前の参道を更に進むと仁王門広場へと戻ることになる。
春の桜と紅葉の時期に夜間ライトアップされた際には、池に反射して映った桜や紅葉の姿が何とも美しく、穴場の撮影スポットになる。
またこの付近から見上げる三重塔の姿は桜や紅葉、更に夜間ライトアップ時には清水寺から夜空に向かって放たれる青い一筋の光、観音さまの慈悲の心を表しているという「観音慈悲光」も加わって実に見事な景色が作り上げられる。
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十一重石層塔(じゅういちじゅうせきそうとう)
境内の南側、音羽の滝より舞台下の参道を西へ進み、舌切茶屋・忠僕茶屋の2つの茶店を通り過ぎた先にある広場の中央に建っている石塔。
江戸初期に諸堂の再建を祈念して建てられたものといい、当初は本堂の東にあったが、1918年(大正7年)に現在地に移された。
一層目に石仏が彫られており、残りの層は屋根になっているのが特徴。
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報恩顕彰碑(ほうおんけんしょうひ)
境内南側の十一重石層塔のある広場の塔のすぐそばに建つ顕彰碑。
「南無観世音菩薩」と上部に大きく刻まれ、「曹洞宗太祖瑩山禅師と清水の観音さまとの深いえにしを報恩顕彰する碑」というタイトルで碑を建立した理由が書かれている。
瑩山禅師とは瑩山紹瑾(けいざん じょうきん 1268-1325)のことで、鎌倉時代の曹洞宗の僧侶で、曹洞宗瑩山派(總持寺派)の派祖。
曹洞宗には2つの大本山(根本道場)があり、曹洞宗の開祖にして福井県の永平寺を開いた道元が「高祖」と呼ばれているのに対し、神奈川県横浜市(創建当時は石川県能登にあった)にある總持寺を開いた瑩山紹瑾は「太祖」と呼ばれれいる。
清水寺は北法相宗で曹洞宗ではないが、瑩山禅師とその生母、そして祖母の三代と清水の観音との深い仏縁を顕彰し、その恩徳を讃えようと篤信者の手で建立されたもの。
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筆塚(ふでづか)
境内南側の十一重石層塔のある広場の塔のそばに建つ塚。
「大久保先生 筆塚」と刻まれている。
筆塚とは長年使い続けた筆の供養のため、筆を地中に埋めて築いた塚のことで、京都では北野天満宮(祭神の菅原道真は書の達人としても有名)や伏見稲荷(御幸奉拝所にある横山大観の筆塚)、筆供養で有名な東福寺正覚庵などにも見られる。
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蜷川虎三句碑(にながわとらぞうくひ)
境内南側の十一重石層塔のある広場の塔のそばに建つ句碑で、1982年(昭和57年)2月に建立。「道はただ一つ その道をゆく 春」と刻まれている。
1950~78年と7期28年にわたって京都府知事を務めた蜷川虎三(にながわ とらぞう1897-1981)の詠んだ句で、その略歴を紹介する石碑も傍らに建てられている。
一貫して憲法を行政の本となす憲法を暮らしに生かす地方行政をしたことや当時の清水寺貫主・大西良慶と意気投合し慨然として天下を論じたことなどが記されている。
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延命院(えんめいいん)
境内の南側、南苑にある清水寺の塔頭寺院の一つで、清水寺を維持・運営してきた「三職六坊」の組織の中の六坊のうちの一寺院。
ちなみに「三職」は執行(宝性院)・目代(慈心院)・本願(成就院)でいずれも境内の北側に現存している(慈心院は随求堂として残っている)。
これに対し「六坊」はこれに次ぐ寺格を有するもので、義乗院、延命院、真乗院、智文院、光乗院、円養院の6院。すべて境内の南側にあったが、真乗院は織田信長により、残りの義乗院、智文院、光乗院、円養院も明治初期の廃仏毀釈の時期に廃絶してしまい、現在は延命院だけが残る。
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庭園
延命院の門前にある池泉式の庭園。
中央に浮島があり石燈籠と石碑が見える。周辺は紅葉が実に綺麗な場所。
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音羽路(音羽道)
本堂の南に広がる錦雲渓の中にある道で、左右にうねるように上り下りが続く九十九折れの急坂。
急勾配が続くため人は少ないが、音羽の滝が落ちる場所を間近で見ることができるほか、紅葉と新緑の時期には見事な景色が広がる。
音羽の滝のすぐそばと、延命院のそばに坂の入口があり、それぞれに「音羽路」と刻まれた石標がある。こちらは延命院側の石標。
「この先の音羽道は急勾配ですので、ご自身の体力、脚力をご考慮の上足元凹凸に十分ご注意下さい。尚、車椅子、高齢者の方々の為の設備は設けておりません。」との注意が書かれた看板も設置されている。
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清水新道(茶わん坂)を上り切った先、塔頭・延命院やきよみず快適といれのすぐそばにある茶店。
名前の由来は以前は6つの房からできていたため、お経の中の「六花」という言葉を頂き僧侶によって名付けられたのだという。
江戸時代より創業しており、メニューのほとんどが自家製で、うどんやそばのほか、茶菓子としてみたらし団子とわらび餅、梅ようかんなどを宇治茶とともに楽しめる。
営業は9:00から日没までで不定休
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泰産阪
清水新道(茶わん坂)から仁王門広場へと向かう石段の途中にこの名前が刻まれており、名前の由来は子安の塔を管理する泰産寺ではないかと思われる。
ちなみに子安の塔は1911年(明治44年)に現在の本堂の南、錦雲渓を挟んだ丘の上に移築されるまでは仁王門の右手前、まさにこの坂のある付近に建っていた。
北苑
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北総門(きたそうもん)
本堂周辺から境内の北側へと向かう際に通る門で、かつては成就院の正門として使われてたという。
江戸初期の1631~39年(寛永8-16年)頃に再建され、国の重要文化財にも指定。2010年(平成22年)に全面的な解体修復工事が行われた。
間口4.12mの薬医門で屋根は切妻造り、本瓦葺。鉄製の飾り金具や鉄帯を取り付けた大きな扉を持つ。
門をくぐってすぐ北側には月照・信海歌碑・西郷隆盛詩碑が建っている。
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手水
北総門の本堂側(南側)手前にある手水。「飲めません」の表示があり、また手水鉢の部分には「清水寺瀧」と刻まれている。
手水のすぐそばには山茶花の木があり、11月前後には美しい花をつける。
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弁天堂
北総門のすぐそば東側、開山堂(田村堂)の北側にある、池の中央の小さな島の上に建てられた朱塗りの小さな堂。
芸事や音楽、金運などにご利益のある弁財天が祀られている。
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常盤木橋(ときわぎはし)
弁天堂にかかる2つの橋のうち東側(弁天堂を正面に見て右側)にかかる橋。
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月照・信海歌碑・西郷隆盛詩碑(げっしょう・しんかいかひ・さいごうたかもりしひ)
北総門の北側正面に立ち並ぶ3つの石碑で、清水寺の塔頭・成就院の第24世住職・月照上人(1813-58)と、その実弟で25世住職・信海上人(1821-59)の歌碑、および明治維新の三英傑として有名な薩摩藩士・西郷隆盛の弔詞碑。
3つの石碑の手前右側には「勤王聖僧 月照信海両上人遺蹟」の石標も建つ。
月照・信海の両上人は幕末に活躍した勤王僧で、ともに大老・井伊直弼を中心とした江戸幕府が尊王攘夷派を弾圧した「安政の大獄」で非業の死を遂げている。
兄の月照は1858年(安政5年)に隆盛の手引きで幕府の手を逃れて鹿児島の薩摩藩へ避難しようとするも受け入れを拒否され、隆盛とともに薩摩の錦江湾に入水。隆盛のみが一命を取り留めた。
その翌年の1859年(安政6年)には弟の信海が尊皇攘夷祈祷の嫌疑で逮捕、江戸に護送されてほどなく獄死。両上人の歌碑は辞世のもので、隆盛の詩碑はのちに詠んだ弔意の漢詩を刻んだもの。
【月照辞世の句(石碑左)】
「大君の ためにはなにか 惜しからん 薩摩の迫門(瀬戸)に 身は沈むとも」
【信海辞世の句(石碑中央)】
「西の海 東(あずま)の空と 変はれども 心はおなじ 君が代のため」
【西郷隆盛公弔歌(石碑右)】
「相約投淵無後先
豈図波上再生緑
回首十有餘年夢
空隔幽明哭墓前」
(相約して淵に投ず 後先無し
あに図らんや波上再生の縁
首(こうべ)を回らせば十有余年の夢
空しく幽明(ゆうめい)を隔てて墓前に哭(こく)す)
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北総門の北側にある月照・信海歌碑・西郷隆盛詩碑の左手前に建つ石碑で、清水寺の勤王僧・月照に仕え忠義を尽くした大槻重助(おおつきじゅうすけ 1838-93)を顕彰するため旧薩摩藩の有志により建てられた。
大槻重助は丹波国何鹿郡綾部村字高津(現在の京都府綾部市高津町)に生まれ、幼い頃より清水寺の月照に仕え、「安政の大獄」で月照や西郷隆盛が九州へ落ち延びようとした際にはこれに従っている。
その後月照と隆盛は入水自殺を図り、隆盛は一命を取り留めるが月照は落命。重助は月照の遺品を持ち帰り京都に戻るも、捕えられて約半年の間六角獄舎に入れられた。
過酷な取り調べと拷問に耐え釈放された重助はその後清水寺に茶店を開き、1893年(明治26年)に56歳で亡くなるまで30年以上に渡って月照の墓を守り続け供養を絶やさなかったという。
ちなみに明治維新が達成された後になって西郷隆盛の弟・西郷従道から月照に対する忠義を称えられて与えられたのが「忠僕茶屋」の屋号であり、現在も境内に存続している。
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近藤正慎顕彰碑(こんどうしょうしんけんしょうひ)
北総門の北側にある月照・信海歌碑・西郷隆盛詩碑の右側にひっそりと建つ石碑で、幕末の尊王攘夷運動家・近藤正慎(こんどうしょうしん 1816-58)を顕彰する石碑。
正慎は成就院の執事で清水寺の勤王僧・月照とは兄弟僧であり友人であった。「安政の大獄」で月照と西郷隆盛が薩摩に逃れた際に捕えられ、京都・六角牢獄で二人の行方を問われ拷問を受けるが、決して白状せず、自ら舌を噛み切り、牢獄の壁に頭を打ちつけて自ら命を絶った。
残された妻と子供たちは後に境内に茶店を出すことを許され、正慎の壮絶な最期に由来するかのように「舌切茶屋」の名前がつけられている。
子孫としては孫に陶芸家の人間国宝・近藤悠三(1902-1985)、曾孫に大河ドラマにも数多く出演している俳優の近藤正臣(1942-)がいる。
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成就院参道
仁王門前広場から仁王門をくぐらずに左に続く道は清水寺の塔頭の一つである成就院へと続いている。
参道の途中には千体石仏群や新しく完成した清水寺本坊の大講堂などがある。
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千体石仏群(せんたいせきぶつぐん)
成就院参道の右手に立ち並ぶ苔むした姿が何とも味わいのある石仏群。地蔵菩薩、観音菩薩、阿弥陀如来、大日如来、釈迦如来など種類は様々だが、中央の千手観音像が中尊。
明治初期の廃仏毀釈の際、京都の各町内に祀られていた地蔵や石仏が破壊されるのを忍びないと考えた信仰心の強い民衆の手によって運び込まれたもので、今も有志の手で前垂れが新調され掛け替えられているという。
傾斜の上に見えるのは月照・信海歌碑・西郷隆盛詩碑。
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紅葉谷
本堂の北側(北苑)にある成就院参道を進み、北側にある大講堂の東裏、成就院との間にある斜面一帯を指す。
清水の舞台の南側に広がる南苑の錦雲渓(新高雄)に比べると知名度は下がるが、紅葉の名所として知られている。見頃は錦雲渓に比べるとやや遅め。
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成就院(じょうじゅいん)
境内の北側にある塔頭の一つで、本尊は十一面千手観音。
本坊塔頭として伽藍の整備や維持、財政や寺領の維持・管理を担当する本願職(寺務所)の役割を務めてきた寺院。
応仁の乱(1467-77)の兵火により焼失した清水寺を勧進活動により再興した願阿上人(がんあしょうにん)の住房を起源とし、現在の建物は1639年(寛永16年)に他の堂塔と同じく後水尾天皇の中宮・東福門院和子(とうふくもんいんかずこ)の寄進により江戸幕府3代将軍・徳川家光によって再建されたもの。
幕末には兄弟で勤王僧として活躍した月照(忍向)(げっしょう)・信海(しんかい)両上人のもとに左大臣・近衛忠熈(このえただひろ)や西郷隆盛らが集い密談を交わすなど、明治維新の歴史上の舞台にもなった。
また明治期から1983年(昭和58年)にかけ約70年、中興開山・大西良慶(おおにしりょうけい)和上がにわたって住持したことでも知られ、表札の墨書も和上の手によるものという。
別名「月の庭」と呼ばれる名園・成就院庭園や襖絵で有名で、毎年春と秋に特別公開される。
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成就院庭園(じょうじゅいんていえん)
境内北側にある清水寺の塔頭・成就院の中にある庭園で、江戸初期の代表的な借景式庭園として国の名勝にも指定されている。
室町時代に美術鑑定や茶の湯など多彩な分野で活躍した絵師・相阿弥(そうあみ)の手により造られ、その後江戸時代に庭造りの名手として名高い小堀遠州(こぼりえんしゅう)が補修したとも、俳諧の先駆者として知られる歌人・松永貞徳(まつながていとく)が補修したとも伝わる。
ちなみに貞徳は清水の他に寺町二条と北野(一説には祇園)において同時に3つの庭園を造ったといわれ、それぞれが「成就院」という名前の塔頭にあったことから成就院「雪月花の庭」と称されたといい、このうち成就院庭園は心字池に映る月影が見事なことから「月の庭」と呼ばれた(寺町二条の「雪の庭」は現在は岩倉の妙満寺に移転、北野の「花の庭」は現存せず)
借景式・池泉観賞式の庭園で五葉松や侘助椿、そして美しく刈り込まれた皐月(サツキ)などの木々の中に、他では見られない奇石や石灯籠などが配置され、美しい庭園美を構成している。
また豊臣秀吉寄進と伝わる誰が袖手水鉢(たがそでちょうずばち)や烏帽子石(えぼしいし)、蜻蛉灯籠(かげろうとうろう)、手毬灯籠(てまりとうろう)など、奇石や石灯籠にはそれぞれ名前が付けられており、案内所を手に一つずつ探しながら庭を眺める楽しみも。
毎年春と秋に、昼と夜に分けて公開されており、清水寺境内の賑やかさとは対照的な静かな清水寺を楽しめるが魅力。ライトアップされた夜の庭園もなかなかのもの。
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池
成就院の門前にある池。
秋になると池の周辺では紅葉のほか、山茶花(サザンカ)も見事な花を咲かせる。
清水坂
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清水坂(松原通)
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宝徳寺(寶徳寺)(ほうとくじ)
清水坂(松原通)の途中にある塔頭で、浄土宗西山深草派の寺院。山号は霊光山。
鎌倉時代に時宗の開祖・一遍上人が開いたとも、1598年(慶長3年)に成就院9世の玉円が建立、その後1663年(寛文3年)に徳空が中興し堂宇を建立したとも伝わる。
本尊の阿弥陀如来像は608年(推古天皇16年)に聖徳太子が42歳の厄除け守護のため自ら刻んだものと伝わる。
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大日堂(真福寺)(だいにちどう(しんぷくじ))
清水坂(松原通)の途中にある塔頭で、本尊に大日如来を祀ることから「大日堂」と呼ばれている。創建の時期は室町時代ともいわれているが詳細不明。その後江戸後期の天保年間(1830-43)に一円により再興された。
現在の本尊・大日如来坐像は2011年(平成23年)に発生した東日本大震災の際に生じた岩手県陸前高田市の名勝・高田松原の流出松を仏像として再生する「陸前高田復興プロジェクト」という取り組みにより生まれたもの。
京都府南丹市園部町にある京都伝統工芸大学校の仏像彫刻専攻の教授や学生たちの手により制作されたもので、鎮魂と復興の祈りを込めた復興イベント「1万人のひとノミひと削り」活動も展開され1万人以上の人々が参加、ブータン国王夫妻も加わったという。
震災から約1年後の2012年2月上旬に完成、清水寺の本堂に安置された後、2013年より大日堂の御本尊に。光背まで含めると高さ3メートルに及ぶ大作。
旧本尊の大日如来坐像は平安期、空海の作とも伝わり、国の重要文化財に指定。現在は清水寺・宝蔵殿に安置されている。
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経書堂(来迎院)(きょうかくどう(らいごういん))
産寧坂と清水坂と五条坂の交差する場所の北東角に建つ小さな堂で、創建年は不明だが、中世の謡曲「熊野(ゆや)」で「御法の花も開くなる 経書堂はこれかとよ」という台詞で登場しており、古くから清水寺の参道にあったものと思われる。
清水寺の境外塔頭で正式には来迎院(らいごういん)だが、僧が小石に法華経を一字書き、水を注いで死者の霊を弔ったとされていることから、この名前で呼ばれるようになったという。
聖徳太子の開基とも伝わり、本尊の聖徳太子像は太子16歳の時とされる自刻の像。
本堂の傍らには願い事を念じて石を持ち上げ、軽く感じれば願いが叶い、重ければ成就しないという「重軽石」も。
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産寧坂
周辺
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京都市清水坂観光駐車場
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