「西国三十三所巡礼」とは
宗派を超えた「観音の道」
「西国三十三所巡礼(さいごくさんじゅうさんしょじゅんれい)」とは、近畿・東海2府5県、観音菩薩を本尊とする33カ所の観音霊場を巡拝する札所めぐり(関西6府県と岐阜県)。
はじまったのは奈良時代で巡礼めぐり最古といわれ、現在も多くの参拝者が訪れている。
「三十三」の数字は観音経で説かれている観世音菩薩(観音菩薩)が衆生を救う際に33の姿に変化するという信仰に由来。ちなみに観音菩薩には聖観音、十一面観音、千手観音などがあるが、西国三十三所で最も多いのは千手観音像。
三十三カ所を巡ることにより「満願」となり、現世の罪業が消えて極楽往生できるとされている。
伝承(始祖・徳道上人 中興・花山法皇)
718年(養老2年)、大和国・長谷寺を開基した徳道上人が亡くなった際にあの世で閻魔大王と会い、生前の罪業により地獄へ送られる人があまりにも多いので、日本にある三十三箇所の観音霊場を巡れば減罪をしてくれる功徳があるため、巡礼によって人々を救うようにとの託宣を受けて現世に戻され、それに従い33の霊場を設けた。
当初はあまり普及しなかったが、その約270年後、花山法皇が紀州国の那智山を参拝していた際に熊野権現が姿を現し、三十三箇所霊場を再興するようにとの託宣を受ける。
そして法皇自らが仏眼上人を案内人に巡礼したところ、以後人々に普及し広く親しまれるようになったという。
この点仏眼が笈摺・納め札などの巡礼方式を定め、花山院が各寺院の御詠歌を作ったといい、この時現在の三十三所巡礼の形が整えられた。
観音信仰の高まりによる三十三所巡りのはじまり
長谷寺は平安初期頃から霊験あらたかな観音霊場寺院として朝廷より、また摂関期には観音信仰の高まりにより藤原道長からも崇敬されていたという。
歴史資料に三十三所巡礼が表れるのは、1090年(寛治4年)頃の近江国園城寺(三井寺)の僧・行尊による「観音霊場三十三所巡礼記」が最初で、この時の巡礼は、第一番は長谷寺であり、第三十三番は三室戸寺だった。
栂尾山の高山寺に伝わる1211年(承元5年)の「観音丗三所日記」に収められたある覚書が行尊伝と同じ順番での巡礼を伝えている。
熊野那智山による喧伝
当初摂関期の観音信仰をもとにしていた三十三所だが、次いで記録の残る12世紀後半の覚忠の巡礼では、院政期に熊野詣が盛行した影響もあってか熊野那智山を一番札所とするようになり、以後は三十三度行者の活動なども通じ熊野那智山により広められていくことになっていく。
庶民化と「西国写し霊場」、そして「日本百観音」
当初は庶民が11ヶ国にもまたがる33の霊場を巡礼することは極めて難しく、主に僧侶の修行の一つとして行われたと考えられるが、霊場への信仰が浸透するにつれ民衆にも広がり、室町時代には巡路が確立、庶民による参詣が行われるようになったと考えられる。
また西国霊場巡礼が盛んになると関東地方など各地に西国霊場を勧請して新たな観音巡礼が作られるようになり(西国写し霊場)、その最古のものは源頼朝創建と伝わる「坂東三十三箇所」で鎌倉時代の1234年(天福2年)以前にはあったという史料が残る。室町時代になると秩父に「秩父三十四箇所」も創建され、西国・坂東・秩父を合わせてその数が100になることから「日本百観音」といわれ、百観音巡礼をする修験者も増加した。
江戸時代には団体で巡る巡礼講も盛んになるなど観音巡礼の人気はさらに高まり、四国遍路とともに多くの人々から信仰を集めた。
現代─交通機関や車の利用
明治までは巡礼道を歩くのが当然であったが、第一番から第三十三番までの巡礼道は約1000kmあるうえに京都以外は札所間の距離が長いことことから、現在では自家用車や公共交通機関を利用する人がほとんどだという。
1935年3月から1か月間「西国三十三ヶ所札所連合会」が阪急電鉄とタイアップして開催した「観音霊場西国三十三ヶ所阪急沿線出開扉」には33日間で40万人以上が訪れたといい、現在も鉄道会社やバス会社によって多くの巡礼ツアーが組まれている