新撰組ゆかりの地めぐり

新撰組ゆかりの地

スポット名 エリア ポイント
西本願寺 太鼓楼 西本願寺 太鼓楼 京都駅 池田屋騒動ののち隊士の増加と共に1865年4月に屯所は壬生の八木邸からここに移転
NO IMAGE 角屋 京都駅 新撰組の面々が遊んだお茶屋
島原は遊郭の一角であり島原太夫や芸妓さんなど多くいて賑わった
玄関口には刀痕も残る
1998年からは「角屋もてなしの文化美術館」を開設し角屋の建物自体と併せて所蔵美術品などを展示・公開
NO IMAGE 輪違屋 京都駅 太夫や芸妓をかかえていた由緒ある置屋で元禄年間(1688-1704)創業
現在の建物は1871(明治4)年再建だが建築的に質が高く、また古い置屋の遺構として貴重で京都市指定有形文化財に指定
現在島原唯一の置屋・お茶屋
島原大門 島原大門 京都駅 角屋、輪違屋と並び、当時の花街の姿を今に伝える
遊郭への出入りは遊女の逃亡を防ぐため島原大門だけに限定されていた
不動堂村屯所跡 不動堂村屯所跡 京都駅 壬生八木邸、西本願寺の太鼓楼を経て1867年6月から約半年、伏見に転出するまで置かれた新選組の最後の屯所
堀川塩小路のリーガロイヤルホテル京都前に「誠」の文字と近藤勇の和歌が刻まれた石碑が建立された
NO IMAGE 本光寺
(伊東甲子太郎外数名殉難之跡)
京都駅 新選組の参謀として活躍していた伊東甲子太郎は尊皇の考えから近藤らと対立し「高台寺党(御陵衛士)」を結成するが新選組により暗殺
さらに七条油小路辻にて高台寺党と凄惨な激闘の上事実上解散に追い込んだ(油小路事件)
その事件近くの本光寺に伊東らの殉難の碑が建つ 名前の通り油屋も多く残る地域
NO IMAGE 新撰組記念館 京都駅 新撰組ファンの館長が運営する個人博物館
築100年の自宅を改造した館内に近藤勇、土方歳三など主な隊士を紹介するパネルや新撰組に関する貴重な書籍・資料を展示
ただし個人博物館のため不定休
NO IMAGE 勤王志士・古高俊太郎邸跡 三条寺町・四条河原町 攘夷派の志士で表向き諸藩御用達・枡屋を継ぎ枡屋喜右衛門を名乗っていたがその裏で長州藩のために情報収集活動と武器調達をしていた
しかし新選組に捕縛され前川邸に連行され拷問を受け、長州による京都の焼き討ちと天皇の簒奪計画を自白、池田屋騒動が起きるきっかけとなる
池田屋はなの舞(池田屋跡) 池田屋騒動之址
(池田屋はなの舞)
三条寺町・四条河原町 京都市内の治安維持に努めていた新撰組の名を一躍世間に知らしめた池田屋事件の記念碑
1864年三条小橋の池田屋にて謀議を行っていた倒幕派浪士たちを倒し倒幕運動を未然に防いだ
跡地は現在居酒屋
NO IMAGE 蛤御門(京都御所) 京都御所 1864年長州藩は兵を率いて京都に向かい、御所を守る会津、桑名、薩摩藩兵と蛤御門付近で戦いに
両軍が大砲で応戦する激戦となる(蛤御門の変(禁門の変))
NO IMAGE 京都守護職屋敷跡 京都御所 京都守護の会津藩主・松平容保の京都守護職屋敷が1865年に黒谷の金戒光明寺から移動
京都府庁内に石碑
壬生寺 壬生寺 二条城 隣接する八木邸、前川邸に屯所を構えた新選組の兵法訓練所として使用され武芸や大砲の訓練が行われたという
芹沢鴨らの墓や局長近藤勇の胸像・遺髪塚などがあり、今でも多くのファンが供養に訪れる新選組ファンの聖地
八木家(新撰組壬生屯所旧跡) 八木家
(新撰組壬生屯所旧跡)
二条城 郷士八木家の邸宅で新撰組の屯所として1863年に新選組初代局長の芹沢鴨が暗殺されるなど数々の事件の舞台となる
当時の長屋門・主屋が現存し京都市指定文化財、主屋には芹沢鴨暗殺時についた刀傷も残る
隣に八木家が経営する茶房「鶴屋鶴寿庵」がありお茶や屯所餅などが楽しめる
旧前川邸 旧前川邸 二条城 八木家とともに新撰組の屯所となる
現在は田野製袋所が所有だが庭が公開されているほか、母屋の一部がお土産屋となり土日祝に新選組グッズやオリジナルグッズの販売を行っている
NO IMAGE 新徳寺 二条城 壬生寺の東 清河八郎に率いられ上洛した「浪士隊」の本営となった場所
尊攘の大義が論じられ朝廷の警護番となることが表明されるが、賛同できない近藤勇、芹沢鴨らが離脱、のち新選組が誕生することに
光縁寺 光縁寺 二条城 知恩院の末寺 総勢28名ともいわれる新選組で切腹した隊士たちの菩提を弔う
西本願寺の屯所移転につき近藤・土方と対立し新選組を脱走するも沖田によって連れ戻され切腹となった山南敬助の墓のほか、河合耆三郎ら隊士16名の共同墓地などがある
NO IMAGE 六角獄舎跡
(首洗井)
二条城 武信稲荷神社そば 京都の牢獄で1754年に医学者・山脇東洋が京都所司代の許可を得て日本初の人体解剖を行った場所でもあるため「近代医学の礎の地」の石碑も立つ
幕末の安政の大獄以降は政治犯や尊皇攘夷派志士らが多く捕らえられて処刑されたという
1864年の禁門の変の際には事件に伴い発生した火災(どんどん焼け)が獄舎にも及ぶ恐れが生じたため、囚人の脱獄を恐れた幕府の役人が生野の変の首謀者・平野国臣や天誅組の変の水郡善之祐、池田屋事件の際に捕縛された古高俊太郎ら尊皇攘夷志士などが獄内で斬首されるという悲劇が起きる
幕末維新ミュージアム「霊山歴史館」 幕末維新ミュージアム「霊山歴史館」 祇園・東山 霊山護国神社に隣接 幕末・明治維新専門の歴史博物館
坂本龍馬や桂小五郎などの勤皇・倒幕の志士たちだけでなく新選組や京都守護職、京都見廻組など幕府側の各種資料・文献なども収集・公開展示を行っている
NO IMAGE 高台寺 月真院  祇園・東山 高台寺塔頭 新選組の参謀として活躍していた伊東甲子太郎が新選組と別れ同士14名と共に「高台寺党(御陵衛士)」を組織しここを屯所とした
金戒光明寺(黒谷) 金戒光明寺
(黒谷)
岡崎・吉田・鹿ケ谷 1862年、政情不安な京の治安維持のため、会津藩主・松平容保が京都守護職に就任し本陣をに置いた
翌年入洛した浪士組の中で近藤勇・芹沢鴨らが守護職に京都残留を嘆願し「京都守護職預かり」の身となり新選組が誕生 松平容保にも謁見
NO IMAGE 勧進橋
(銭取橋)
東福寺・稲荷 京都駅から竹田街道(24号線)を南に進み久世橋通で鴨川にかかる橋 伏見稲荷大社の改修費用に充てるため渡り賃を取るため「銭取橋」の別名
1864年6月池田屋事件をきっかけに長州勢が大挙して京へ これに対抗するため会津藩の命で幕府の部隊も九条河原に布陣し新撰組もこの橋の下に布陣 その後禁門の変が発生する
1866年には5番隊組長・武田観柳斎が薩摩藩と内通していたとして3番隊組長である斉藤一に粛清される事件も発生
藤森神社 藤森神社 伏見・桃山 神功皇后が新羅侵攻の際に軍旗を埋納したといわれる旗塚のいちいの木は参拝すると腰痛が治るという伝承があり近藤勇も祈願
NO IMAGE 近藤勇遭難の地 伏見・桃山 墨染近くの料亭・清和荘の前 近藤勇が二条城での軍議を終えた伏見奉行所までの帰り道に襲撃に遭った場所
直後に鳥羽伏見の戦いが起きるが、近藤は治療のため戦いに参加できなかった
御香宮神社 御香宮神社 伏見・桃山 戊辰戦争の際に薩長軍は神社東側の山上から大砲で伏見奉行所に陣取る幕府軍を砲撃したという
拝殿右の駐車場に石碑(明治維新 伏見の戦跡)あり
NO IMAGE 伏見奉行所跡 伏見・桃山 伏見の酒蔵を模し建てられた市立桃陵団地の一帯
鳥羽伏見の戦いの際に新撰組の属する幕府軍の本拠地となるも薩長軍の大砲攻撃により焼け落ちる
NO IMAGE 千両松古戦場 鳥羽・竹田・淀 淀城のすぐそば 秀吉が宇治川堤に植えたという松が名前の由来 戊辰戦争で激戦地となった場所で草創期からの幹部・井上源三郎も討死
その後新撰組は八幡から橋本と敗走を重ね大坂へ退却、しかし15代将軍徳川慶喜は既に江戸に逃げ帰っていたため富士山丸に乗船して江戸へ戻り、甲府城での敗戦を経て東京板橋での近藤勇の処刑、会津・箱館での転戦から五稜郭での土方歳三の死で終焉を迎える
府道124号の京都競馬場の高架橋の下付近に「史蹟戊辰役 東軍西軍激戦の址」の石碑あり

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