旧前川邸

旧前川邸

 

 

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旧前川邸とは?(基本データ)

名前
旧前川邸(きゅうまえかわてい)
エリア
二条城
ジャンル

邸宅・屋敷・別荘 新撰組

建立・設立
1863(文久3年)から2年間、向かいの八木家とともに新撰組の屯所となる
アクセス
  • 京福電鉄(嵐電)嵐山本線「四条大宮」駅下車 西へ徒歩約8分
  • 阪急京都線「大宮」駅下車 西へ徒歩約8分
  • JR嵯峨野線(山陰本線)「丹波口」駅下車 北へ徒歩約10分
  • 京都市営バス「壬生寺道」(3・8・11・13・特13・臨13・26・28・29・67・69・71・91・203号系統)下車 南へ徒歩約1分
  • 京都バス「壬生寺道」(71・72・73・74・75系統)下車 南へ徒歩約1分
駐車場
なし
拝観料
個人の住居になっているため内部は通常非公開
土日祝のみ、玄関(隊士の行き来した当時の勝手口)において旧前川邸オリジナルグッズ他、新選組に関するグッズを販売
お休み
月~金
拝観時間
10:00~17:00
住所
〒604-8811
京都府京都市中京区壬生賀陽御所町49
電話
075-752-0227
FAX
-
公式サイト
新選組屯所 旧前川邸
新選組屯所旧前川邸 Twitter
新選組屯所旧前川邸 Facebook

旧前川邸の地図

旧前川邸のみどころ (Point in Check)

京都市中京区壬生賀陽御所町、南西角に元祇園梛神社がある四条坊城の交差点より坊城通を南へ進んだ綾小路通との交差点の角にある新選組ゆかりの邸宅。
幕末の新撰組旗揚げの地である八木家とともに「新選組屯所跡」の一つであり、新選組の屯所として使われた建物が現存する幕末の貴重な遺構の一つです。

「新選組」は1862年(文久2年)に庄内藩出身の志士・清河八郎の提案により、上洛する14代将軍・徳川家茂の警護のために幕府が集めた「浪士隊」を前身とし、50名の募集に対し234名が集まったといい、その中には近藤勇や土方歳三らの名前もありました。

1863年(文久3年)2月23日、上洛した近藤勇らは将軍が滞在する二条城にほど近い壬生村の八木邸に宿泊。しかし浪士隊を提案した清河八郎は主だった者たちを新徳寺に集めると、本当の目的は将軍の警護ではなく尊皇攘夷にあったと熱弁し、建白書を朝廷に提出して尊皇攘夷の活動に利用しようとしたため、芹沢鴨や近藤勇らの反発を買い騒動となります。

騒動を聞きつけた幕府は直ちに浪士組に帰還命令を出し、清河八郎らが率いる浪士組は江戸へ戻されます(その後幕府によって粛清されることに)が、その一方で清河に反対した芹沢・近藤ら13名は京都守護職を務めていた会津藩の預かりとなってそのまま京都・八木邸に残ることとなり、「壬生浪士組」を名乗って主に市中警備や不埒を働く志士の取り締まりなどを担当しました。

そしてその働きぶりを評価され幕府から新たな隊名「新選組」の名を拝命。同年3月16日に八木邸の右門柱に「松平肥後守御領新選組宿」の表札をかかげ、ここが「新選組発祥の地」となりました。
同年8月には攘夷派の長州藩が京都から追放された「八月十八日の政変」の警備にも出動し活躍しています。

創設時のメンバーの人数については諸説あるものの、近藤勇をはじめ土方歳三、沖田総司、山南敬助、原田佐之助、藤堂平助、井上源三郎、永倉新八の試衛館一門の8名(試衛館派)、および芹澤鴨、新見錦、平山五郎、平間重助、野口健司の水戸浪士5名(水戸派)の13名といわれています。

この中で初代筆頭局長を務めたのは近藤ではなく水戸派の芹澤鴨でした。芹澤は神道無念流剣術の免許皆伝を持つ剣の達人であり、学もあったといいますが、一方で酒が入ると横暴になり数々の乱暴狼藉を働いたため、それを耳にした会津藩は近藤に芹澤を始末するように命じたともいわれています。

そして同年9月16日(18日とも)の夜、土砂降りの雨の中、八木邸から南にある日本最古の公許遊廓・島原の揚屋「角屋」から酔いつぶれて帰ってきた芹沢鴨とその腹心だった平山五郎が、八木邸の奥の間にて待ち伏せしていた何者かによって惨殺されるという、新選組三大内部抗争の一つである芹澤の暗殺事件が発生します。

この点、八木邸には現在も芹沢鴨が暗殺された際に付いたとされる刀傷が残り、また逃げようとした芹沢鴨がつまずいて転び、文字通り命を落とす原因となった文机も当時のものが現存しているといいます。

この事件の詳細については明らかになっていませんが、実行犯の中には同じ新撰組の仲間もいたと思われ、その結果水戸派は一掃され、近藤勇を中心とした試衛館派が実権を握ることとなります。
その結果、新選組の隊規は厳しくなる一方で隊員の数も急増し、近くの前川家や八木家南隣にあったという南部家が宿舎としてあてられることとなりました。

その後1864年(元治元年)6月5日の「池田屋事件」では、尊王攘夷の過激派の浪士たちが京の都に火をつけ、その混乱に乗じて天皇を長州に拉致するという計画を事前に察知し、近藤らが木屋町三条の池田屋を襲撃して7人を斬殺した上で23人を捕縛する活躍を見せ、新選組は一躍天下にその名を知られるようになります。

更に同年に起こった長州藩勢力が京都守護職・松平容保らの排除を目指して京都市中で起こした「禁門の変」の鎮圧においても活躍し、朝廷や幕府、そして会津藩から感状と200両余りの恩賞を下賜されるなど絶頂期を迎えます。

そして新選組は200名を超す集団へと増大したことで、隊士を収容するために壬生の屯所を引き上げ、西本願寺の太鼓番屋(現在の太鼓楼)へと屯所を移転することとなります。
もっともその後も壬生の地は洋式調練の場所にされるなど「鳥羽伏見の戦い」で敗れ江戸に下るまで深い繋がりは残されていたといいます。

その後の新選組は、総長・山南敬助の切腹や御陵衛士・高台寺党を結成して脱退した伊東甲子太郎らの一派を粛清した「油小路事件」などの内部抗争や粛清を繰り返しながらも、京都で活動する不逞の浪士の取り締まりや倒幕志士の捜索と捕縛、反乱の鎮圧などにあたり、1867年(慶応3年)6月10日に新選組は幕府直参となり、近藤は将軍御目見に取り立てられます。

しかし倒幕という時代の流れには逆らうことはできず、翌年に明治新政府軍と旧幕府軍が戦った「戊辰戦争(1868-69)」が始まると、初戦の「鳥羽・伏見の戦い」から最後の「箱館戦争(五稜郭の戦い)」まで旧幕府軍に従い各地を転戦するなかで、近藤や土方ら主要メンバーも相次いでこの世を去り、戦争の終結とともに解散となりました。

旧前川邸の提供する「由緒并親戚書」によると、「前川家」は越前の戦国大名・朝倉義景(1533-73)を中祖に持ち、戦国時代の1573年(天正元年)に織田信長によって攻められ落城の際に近江国に逃れて後に姓を前川と改め、その後1754年(宝暦4年)に京に移り住み、掛屋や糸割符仲間等の商いで成功を収めたといいます。

江戸後期の天保年間(1831-45)には当時の当主・前川荘左衛門義陳の子が壬生の八木重次郎家を相続し、次代より姓を八木から前川と改めて壬生の前川家が誕生しました。

そして幕末の1863年(文久3年)3月、壬生前川邸の向かいにある八木邸を最初の屯所としていた新選組は、隊士の数の増加に伴い手狭となったことから、「前川邸」や八木邸北隣の「南部邸」にも出入りするようになり、1865年(元治2年)3月10日に西本願寺へと移転されるまで2年間、新撰組の屯所として使用されました。

「前川邸」は総坪数が443坪、土蔵を抜いた建坪で273坪の平屋建で、部屋は12間、畳数にして146畳もああり、近藤勇や土方歳三といった新選組の幹部たちは八木邸ではなく主にこちらを拠点としていたともいわれています。

この点、もう一つの八木家の人々は新選組の隊士たちと同居する形でしたが、前川家は屯所となっていた間は油小路六角にあった前川本家への避難生活を余儀なくされたといいます。

そして新選組の屯所となった2年もの間、前川邸では隊士にまつわる様々な出来事が起こりました。

1863年(文久3年)9月18日(16日とも)、芹澤鴨が暗殺された事件の際には土方らは芹澤一派が島原から戻り、部屋の明かりが消えるのを見届けてから八木邸に討ち入ったといい、事件後の芹沢鴨の葬儀は前川邸で行われたと伝わっています。

更にその年の暮れには、水戸派の生き残りであった野口健司が前川邸の綾小路通に面した一室で切腹し、翌1864年(元治元年)6月5日に発生し新選組の名を一躍有名にした「池田屋事件」の端緒となった古高俊太郎への拷問は、前川邸の東の土蔵で行われたといいます。

この他にも1865年(元治2年)2月23日には、古参の隊士であった総長・山南敬助が脱走の罪で捕らえられ、恋人・明里と格子戸越しに最期の別れを交わした後、坊城通に面した一室で切腹したことでも知られており、近年旧前川邸では3月第2日曜に山南敬助を偲ぶ「山南忌」の法要も執り行われています。

そして「前川邸」については新選組が屯所として使用していた当時の当主・前川荘司が1875年(明治8年)8月18日に病気で亡くなった後、嫡子・直之助が幼かったことから、本家より荘司の甥・泰三郎が入り跡を継ぎますが、その後 、様々な経緯を経て中井商店、後の日本紙パルプ商事株式会社を経営する中井家所有の別宅となっていました。

1945年(昭和20年)、上京区・京都府庁の傍らにて製袋業を営んでいた田野家は、太平洋戦争時の建物疎開に伴い移転先を探していたところ、斡旋を受けてこの別宅を住居および工場として借用、その後購入し「田野製袋所」として現在に至っています。

山南啓介や野口健司が切腹した部屋のほか、古高俊太郎が拷問に掛けられた土蔵や当時の落書きが残る雨戸なども残されているなど、建物は保存され現在も往事の姿をほぼとどめているといい、ただ所有者が屯所があった時の前川家ではなくなっているめ「旧前川邸」と呼ばれています。

「旧前川邸」は譲り受けた田野家が住居として使用していたため、公開はしていませんでしたが、2003年(平成15年)度より母屋、土蔵内部などを撮影した絵葉書セットを製作し、屯所当時は勝手口であった玄関の土間部分をショップとして販売を開始。
現在も建物内部は非公開のままですが、店がオープンする土日祝には門内に入る事ができ、パネルの展示を見学できるほか、ショップにて新選組関連のグッズを購入したりもできるようになっています。

旧前川邸の施設案内

 

邸内

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    外観

     

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    長屋門

     

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    中庭

    玄関前広場

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    母屋(旧前川邸)

     

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    玄関

     

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    「誠」の旗

     

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    ショップ

     

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    旧前川邸見取図

     

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    西の蔵

    1837年(天保8年)の創建
    味噌蔵として使用されていたという

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    東の蔵

    1839年(天保10年)の創建
    貴重品保管庫として使用されていたという

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    田野製袋所

     

関連

周辺

旧前川邸の主な年間行事・カレンダー

年中行事

3月第2日曜

山南忌

旧前川邸で切腹した新選組総長・山南敬助を偲ぶ法要
光縁寺と壬生寺会館でも行事あり

花ごよみ

 

椿(ツバキ)

中庭

 

紅葉(こうよう)

 

旧前川邸の口コミ

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