「御香水」で知られる伏見の産土神、安産守護の祈願所
伏見の産土神で神功皇后を祀る安産守護の祈願所。862年病に効く香水が涌き出たことから清和天皇より御香宮の名を賜る。御香水は名水百選にも選定。
秀吉が伏見城築城の際鬼門除けに勧請。大手門を移築した表門、家康造営の極彩色の本殿は桃山文化を代表し重文。10月の神幸祭(伏見祭)は洛南随一の規模
御香宮神社のみどころ (Point in Check)
酒どころとして有名な京都市伏見区に鎮座する神社で、通称は「御香宮」「御幸宮」。
伏見地区の産土神(総氏神)で、地元の人たちから「ごこんさん」の愛称で親しまれています。
また臨月の身で朝鮮へ出兵し帰国後無事に応神天皇を出産した神話に基づき神功皇后を主祭神としており、「安産の守護神」として厚く信仰されています。
創建年は不詳で当初は「御諸神社(みもろじんじゃ)」と称していましたが、平安初期の862年(貞観4年)に境内から良い香りのする水が湧出しその水を飲むと病気が治ったという奇譚により、清和天皇から「御香宮」の名を賜りました。
そして湧き出た水は「石井の御香水」として伏見の七名水の一つに数えられ、1985年(昭和60年)には環境省の「名水百選」にも選定されているほか、伏見の名水を巡る「伏見名水スタンプラリー」のうちの1か所にも選ばれています。
また御香水は桃山の伏流水(伏し水)で「伏見」の地名の由来にもなっており、病気平癒の霊水として、あるいは茶道・書道、生活用水などとして地元民より親しまれています。
豊臣秀吉の伏見城築城の際には鬼門除けの神として勧請し「伏見城の守護神」とされ、境内には伏見城跡残石が残されているほか、現在の表門は水戸光圀の父・徳川頼房の寄進で伏見城大手門を移築したもので国の重要文化財に指定されています。
また徳川家康が造営した絢爛豪華な極彩色の本殿は、桃山文化を代表する建築物としてこちらも国の重要文化財に指定されています。
幕末の「鳥羽伏見の戦い」では官軍(薩摩軍)の屯所となり、幸いにして戦火を免れたものの、老舗料亭「魚三楼」の格子に残る弾痕など、周辺には激戦を物語る史跡があちこちに残されています。
酒蔵が立ち並ぶ伏見という土地柄、酒造関係者との縁も深く、酒造りのための神事が行われているほか、境内には奉納された様々な銘柄の酒樽がずらりと並べられ壮観な雰囲気。
他にも社務所内の書院にある小堀遠州が伏見奉行所内に作ったとされる庭園を移設した「遠州ゆかりの石庭」、後水尾上皇命名の「ところがらの藤」、秀吉が伏見城築城の際集めたという五色の散り椿「おそらく椿」なども見どころです。
10月上旬に9日間行われる「御香宮神幸祭」は別名「伏見祭」とも呼ばる伏見九郷の総鎮守の祭礼で、洛南随一の大祭として知られています。
名水の地として知られる「伏見地区の産土神」
「伏見の御香水」の由緒と「御香宮」
御香宮神社の創建年については不詳であり、当初は「御諸神社(みもろじんじゃ)」と称したといいます。
平安初期の862年(貞観4年)に社殿を修造した記録があり、伝承によるとこの年の9月9日、境内から「香」の良い水が涌き出し、その水を飲むと病が治ったという奇譚により、清和天皇から「御香宮」の名を賜ったといいます。
そして湧き出た水は「石井の御香水」として伏見の七名水の一つに数えられ、1985年(昭和60年)には環境省の「名水百選」にも選定。現在もボトルを持参して取水する地元民も多いといいます。
神功皇后の霊廟である筑紫国・香椎宮より香椎明神を勧請したとの説
1684年(貞享元年)に、江戸前期の歌人で国文学史研究にも詳しい北村季吟(きたむら きぎん 1625-1705)が著した神社などの由来や来歴を記した「菟芸泥赴(つぎねふ)」には862年(貞観4年)に「筑前国糟谷郡の香椎御宮から神功皇后を勧請し皇后御廟香椎宮を略し、御香の宮と申す」とあり、筑紫国の香椎宮(かしいぐう)より祭神を分霊し勧請したとの説もあるといいます。
そして御諸神社の「御」と香椎宮の「香」をとって「御香宮」と呼ばれるようになったといい、全国にある「香」の名前のつく神社は、古来より筑紫の香椎宮との関連性が強いとされていますが、同じ神功皇后を祭神とする御香宮神社ははその最も顕著な例なのだとか。
ちなみに「香椎宮」は、福岡県福岡市東区香椎にある第14代・仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)とその妻である神功皇后夫妻を主祭神とする神社。
仲哀天皇が橿日宮(かしひのみや)を営んだ場所に200年(仲哀天皇9年)、神功皇后が仲哀天皇の霊を祀ったのがはじまりです。
仲哀天皇は大和朝廷に服属しない九州中南部の熊襲(くまそ)を討つため皇后とともに筑紫に行幸しますが、まず新羅を討つべしという皇后への神託に背いたため神の怒りに触れて陣没。
その後神功皇后が神意に従い懐妊したまま新羅を攻め服従させる「三韓征伐」となり、新羅から筑紫へ凱旋の際に15代・応神天皇を無事出産したことから、後世に安産の神として信仰されるようになります。
また二人の子・応神天皇こと誉田別命(ホムタワケノミコト)は後に源氏の氏神・戦神として武士より広く信仰された八幡大明神であることから、香椎宮は八幡様の親神様ともいわれています。
豊臣秀吉築城の「伏見城の守護神」
その後応仁の乱で荒廃しますが、戦国時代には1590年(天正18年)に天下統一を果たした豊臣秀吉が朝鮮出兵を前に願文、太刀(備前長光)(重要文化財)を奉納し戦勝を祈願。これは祭神・神功皇后が「三韓征伐」を成功させた故事にあやかったものともいわれています。
更に伏見城築城の際にはその守護神(鬼門除けの神)として勧請され、社領300石を与えられています。
この際に社地は現在よりも東、国道24号線を越えた高台の大亀谷(現在の深草大亀谷古御香町)付近に移転されますが、秀吉の没後に天下を取った徳川家康は城下町の人心安定のため、1603年(慶長8年)に再び元の位置に戻し、本殿の造営へとつながっていきます。
ちなみに元に戻された後、秀吉時代の社地の移転先は古御香宮(ふるごこう)と呼ばれ、現在は「御香宮御旅所」になっています。
また御香宮には伏見城の遺構とされている大手門が「表門」として移築されています。1622年(元和8年)に初代水戸藩主・徳川頼房(水戸黄門の父)が拝領し寄進したもので、国の重要文化財にも指定されており、正面を飾る中国二十四考を彫った蟇股が実に印象的です。
他にも昭和になって出土したもののうち、約300個の伏見城跡の残石が境内に保管されていることでも知られています。
徳川家康による造営、桃山文化を象徴する絢爛豪華な「本殿」
江戸幕府を開いた徳川家康は城下町の人心安定のため、大亀谷に移されていた社地を1603年(慶長8年)に再び元の位置に戻して後、1605年(慶長10年)に現在の「本殿」を寄進しています。
五間社流造に豪華絢爛な極彩色の彫刻を特徴とし、桃山文化を代表する建築物として国の重要文化財にも指定されています。
また伏見城の大手門を表門として寄進した徳川頼房は、他に1625年(寛永2年)に軒唐破風(のきからはふ)が極彩色な彫刻によって埋められた「割拝殿」も寄進しており、こちらは京都府指定文化財に指定されています。
「伏見鳥羽の戦」の官軍(薩摩藩)の屯所
幕末の1868年(慶応4年・明治元年)正月に勃発した「伏見鳥羽の戦」においては、境内南側にあった伏見奉行所が会津藩や新選組などの幕府軍の拠り所となったことから、御香宮神社は薩摩藩を主とする新政府軍の屯所となりますが、幸いにして戦火は免れました。
その戦いにおける激戦の痕跡は境内のやや西にある京阪・伏見桃山駅近くの老舗料亭「魚三楼」の格子に弾痕として残っています。
神功皇后を主祭神とする「安産守護・子育て」の社
主祭神の神功皇后(じんぐうこうごう)は「日本書紀」において身重のまま朝鮮半島に出兵し、新羅の国を攻め新羅・百済の国を治めることに成功したいわゆる「三韓征伐」で知られています。
そしてその帰路にのちの応神天皇を無事出産した伝承を持つことから、「日本第一安産守護之大神」として全国の子育て・安産祈願をご利益とする多くの神社に祀られています。
(御香宮神社では他に夫の第14代・仲哀天皇、子の第15代・応神天皇ほか6柱の計9柱の神が祀られている)
このご神徳を示すように、御香宮神社の境内の本殿右手前には「安産の社」と刻まれた石碑とその横に「慈(いつくしみ)」というタイトルの母子像が建っています。
名水として名高い伏見の「御香水」
平安初期の862年(貞観4年)9月9日、境内から「香」の良い水が涌き出し、その水を飲むと病が治ったとの奇譚により、清和天皇から「御香宮」の名を賜った御香宮神社は、その後名水の地として知られるようになります。
「御香水(ごこうすい)」は「石井(いわい)の水」と呼ばれる井戸を水源に伏見の七名水の一つに数えられていましたが、明治以降涸れていたのを1982年(昭和57年)に再び地下150mまで掘り直して復元され、その後1985年(昭和60年)1月には環境省(当時は環境庁)の「名水百選」にも選定されています。
桃山の伏流水(伏し水)で「伏見」の地名の由来にもなっており、尾張・紀伊・水戸の徳川御三家の藩祖である義直(家康の九男・尾張藩初代藩主)・頼宣(家康の十男・紀伊和歌山藩初代藩主)・頼房(家康の十一男・水戸藩初代藩主)がこの水を産湯に使ったと伝えられています。
病気平癒の霊水として薬と一緒に飲んだり、茶道や書道に使用したりと用途は様々。
まろやかな軟水でコーヒーやお茶などにも合い、あるいは炊飯やお菓子の仕込み用の水として、生活用水としても親しまれ、現在もボトルを持参して取水する地元民も多いといいます。
「御香水」の取水口は本殿の左手前にあり、また境内の絵馬堂には御香水の霊験説話を画題にした「社頭猿曳ノ図」が懸っています。
他にも社務所ではおみくじを水に浸すと運勢の文字が浮き出てくる「水かけ占い」の授与も行われています。
洛南随一の大祭として知られる「御香宮神幸祭(伏見祭)」
「御香宮神幸祭(伏見祭)」とは?
10月上旬に9日間行われる「御香宮神幸祭」は別名「伏見祭」とも呼ばれる伏見九郷(石井・森・船津・即成就院・山・北尾・北内・久米・法案寺)の総鎮守の祭礼で、洛南随一の大祭として知られています。
初日より多くのイベントや奉納行事が行われ、境内にはたくさんの露店も立ち並び、大勢の参拝者で賑わいます。
初日の「オイデマツリ」と最終日前夜の「宵宮祭」にて行われる「花傘総参宮」は、各氏子町内から参加する大小の花傘がお迎え提灯として伏見随一の繁華街である大手筋商店街のアーケードを練り歩き神社に参拝する厄除けの行事で、室町時代の風流傘の伝統を今に伝え「花傘祭」と称されるゆえんとなっています。
祭の中心である神輿渡御が行われる最終日の「神幸祭」では3基の神輿のほか、獅子若、猿田講社、武者行列(奴振りを伴う)、稚児行列の行列が、早朝より時間差をもって氏子地域を終日巡行していきます。
千姫神輿
神幸祭の中心は何といっても神輿渡御で、現在は3基で巡行していますが、以前は1基の神輿だったといいます。
旧神輿は徳川家康の孫娘・千姫の初延祝いに奉納されたもので、通称「千姫神輿」。
日本一重い神輿として氏子の自慢の一つででしたが、神輿の重さの平均が1~1.5tのところ2.2tと余りにも重いため今は担ぐことができず、1962年(昭和37年)に鵜鳥型と神明型(雁又)、1987年(昭和62年)にもう1基が作られました。
普段は境内の見所に保管され非公開ですが、10月の神幸祭の期間のみ特別公開されます。
社務所奥の書院にある「遠州ゆかりの石庭」
社務所奥にある書院の石庭には、小堀遠州が伏見奉行所内に造ったとされる庭園を戦後に移設したという「遠州ゆかりの石庭」があります。
小堀遠州(こぼりえんしゅう 1579~1647)は江戸初期の大名で、茶人・作庭家としても知られた人物。
本名は政一といい、近江国の小堀村に生まれ、豊臣秀吉や徳川家康・秀忠らに仕えて遠江守に任ぜられ、のち伏見奉行を務めました。
作事奉行として建築・造園にも才を発揮し、二条城や仙洞御所なども手掛けています。
また古田織部に茶道を学び遠州流茶道の祖となったほか、松花堂昭乗に画を学び書画・古器の鑑定家としても知られています。
遠州は1623年(元和9年)に伏見奉行に着任すると庁舎の新築を命ぜられ、奉行所内に庭園を造ります。
1634年(寛永11年)7月、上洛し奉行所を訪れた3代将軍・徳川家光は立派な庭園に感心し、褒美として遠州に5千石を加増。一躍大名となり出世の糸口にもなったとされる庭園です。
御香宮神社の境内の南、京阪伏見桃山駅の東にあったという伏見奉行所の跡地は、明治以降、陸軍工兵隊、米軍キャンプ場と移り変わり、庭園が発見されたのは1957年(昭和32年)、市営住宅地(桃陵団地)建設の際のことで、その後造園家・中根金作の手によって、社務所の裏側に再現されました。
鶴亀式の枯山水の庭園で、書院手前にある手水鉢には「文明九年(1477年)」の銘があり、在銘のものとしては非常に珍しいらしいといいます。
また後水尾上皇が命名された「ところがらの藤」も移植されているほか、夏の新緑、秋の紅葉と四季折々の庭園の姿を楽しむことができます。