京都市下京区新花屋町通堀川西入る門前町、花屋町通と堀川通が交わる交差点の角、本願寺境内の北東隅に建つ重層の楼閣建築。
この点「太鼓楼(鼓楼)」はまだ時計が普及していなかった時代に備え付けの太鼓を使って人々に時刻を報せるるために建造され、同じ役割を担った鐘楼と並んで古来から寺院や廟院の重要な要素となる建物でした。
西本願寺の境内においては江戸初期には境内の南東隅に太鼓を吊るした建物があったといわれ、その後、大火による焼失などを経て、現在の太鼓楼は宝暦年間(1751-64年)に建築されたとも、寛政元年(1789)に建築されたものともいわれているものです。
木造の楼閣で、高さ約15m、内部は三層になっており、広さ約30平方mの最上階内部には、大小2つの太鼓が現存しており、大きい太鼓は直径1.5mあるといいます。
また古い太鼓の方は山科本願寺において使用されていたことが知られており、、胴部がツツジの木で作られたものとして著名で、奈良の西大寺の遺品と伝えられていて、もう一方は建築時に新たに備えられたものだといいます。
この西本願寺の太鼓楼は2014年(平成26年)に国の重要文化財に指定されていますが、老朽化が激しく普段は一般公開されていませんが、特別公開されたことはこれまでに何度かあるようです。
そして太鼓楼は幕末には新選組が屯所として使用していた建物であることから「新選組ゆかりの地」の遺構の一つにも数えられています。
この点、新選組は幕末に江戸幕府に京都守護職を命じられた会津藩主・松平容保の配下として京都の治安維持活動や尊攘派志士の取り締まりにあたった組織で、1867年(慶応3年)に幕臣に取り立てられて以降も勤皇派と激闘を繰り広げ、戊辰戦争の初戦となった鳥羽・伏見の戦いでも旧幕府軍として従軍し、幕府軍の敗戦とともに隊員はまもなく四散。
その後も新政府軍に降伏することなく甲州勝沼にて板垣退助率いる迅衝隊に撃破され敗走し解隊、局長の近藤は捕えられて斬罪に処せられ、また副長の土方歳三も箱館五稜郭の戦いにて戦死し、戊辰戦争の終結とともに姿を消しました。
新選組は1863年(文久3年)に「壬生浪士組」として京都で発足し、当初の隊員数は24名でしたが、その後内部抗争などを経て「新選組」に改められ、1864年(元治元年)に池田屋で謀議中だった長州藩の尊王攘夷派の志士たちを襲撃し御所焼き討ちの計画を未然に防いだいわゆる「池田屋騒動」で一躍名を馳せて以降は、幕府からの支援も厚くなったといい、隊士の数も急増して最盛時には200名を超えていたといいます。
そこで壬生の屯所では狭くなったこともあり、1865年(慶応元年)3月10日、壬生の八木邸と前川邸に置かれていた屯所を西本願寺へと移す運びとなり、北東にあった北集会所と太鼓楼をその屯所と定め、約2年余りにわたって使用され、太鼓楼は見張り台としてその太鼓を隊士らの集合の合図などに利用していたといわれています。
西本願寺は浄土真宗本願寺派の本山で、戦国時代には織田信長と有名な「石山合戦」にて長期にわたって抗争状態が続きましたが、その間に長州を治めていた戦国大名の毛利家は本願寺に兵糧を運び込んで助けていたという歴史的経緯があり、こうした縁から幕末の尊王攘夷運動の最中にあっても長州藩や長州系の志士たちを支援していたといい、池田屋事件に続いて起きた「禁門の変」に際しても新撰組や薩摩、会津藩と戦って敗れた長州藩士を境内に匿ったともいわれています。
このため新選組の西本願寺の境内への屯所の移転は、屯所の手狭さの解消のため広い北集会所に目を付けたというのはもちろん、長州寄りだった西本願寺の動きを牽制し長州系志士たちのつながりを絶とうという一石二鳥の効果を狙ったものだともいわれています。
そのような経緯もあってか、新選組は僧侶や信徒たちの迷惑も顧みず、境内で武芸の稽古はもちろん、本山が行事で鳴らす鐘の音に合わせて大砲を轟かせたり、実弾射撃をおこなったり、あるいは捕縛した勤皇派志士たちを本山境内で拷問したりなどの乱暴狼藉を繰り返して参拝の門信徒や僧侶らを震撼させ、また境内にて食料として豚の飼育も行っていたとも、滋養のため猪鍋(ししなべ)を食したとも伝わっており、仏教で忌まれている肉食も大っぴらに行われたといい、傍若無人なふるまいを続ける新選組は、本願寺にとってはむしろ迷惑な存在であり、決して歓迎されるものではありませんでした。
新選組はこの後、2年3か月あまりの後の1867年(慶応3年)6月に西本願寺からほど近い不動堂村へと屯所を移転していますが、これは一刻も早く立ち退かせようとと、本願寺側が新選組のための新たな屯所を建設する費用を負担してまで退去を要請したものだったといわれています。
もっとも明治維新を迎えるまでに新選組メンバーの大部分が命を落とす中、鳥羽伏見の戦いに始まる戊辰戦争を生き抜いた結成時からの隊士の一人・島田魁(しまださきがけ 1828-1900)は、明治維新後の1886年(明治19年)に西本願寺の守衛となり、亡き隊士たちの菩提を弔うためか、終生念仏を唱えながら太鼓番を務めたという話が伝わっています。
ちなみに西本願寺にある新選組の遺構のうち「北集会所」は新撰組の退去後にそのままにしておきたくなかったためか本山で解体され、禁門の変で焼失した学林の講堂への転用も考えたものの、学林が新築を望んだことから部材がそのまま保管された後、当時本堂を焼失していた兵庫県姫路市の本徳寺(亀山御坊)の要望で1873年(明治6年)に移築されており、現在も本堂として現存しています。
このため現在の西本願寺の境内において新選組の足跡を見ることができるものは太鼓楼だけとなっています。