「不動堂村」は京都市下京区、京都駅のすぐ西側、駅の北を東西に走る塩小路通を西へ進み、堀川通と交差する「堀川塩小路」付近にあった村。
古代の表記でいえば「平安京左京八条二坊十五町」にあたり、中世には八条院町と呼ばれ、鋳物生産が多数行われた工業を中心とする町でしたが、戦国時代には農村化し、江戸時代までに葛野郡不動堂村という村が成立したといわれていますが、豊臣秀吉の時代に都市防衛のため京都を囲い込むようにして作られたいわゆる「御土居」の内側に位置していたため、洛中の扱いを受けた場所です。
明治維新後に1879年(明治12年)に区制により下京区が成立するとその一部に編入され、更に1889年(明治22年)4月1日の京都市制に伴って京都市下京区となり、「不動堂村」の名は、堀川塩小路の交差点の東、塩小路通を挟んで南北にある「北不動堂町」と「南不動堂町」の町名に残されることとなります。
また南不動堂町の京都駅の北側からJRの高架下をくぐって南側へと抜ける細い路地に鎮座する道祖神社の隣には、平安初期の823年の東寺(教王護国寺)建立の際に鬼門に当たるこの地に、空海が不動尊を祀ったことに始まり、江戸後期の1782年に西山浄土宗に改宗して現在に至る「不動堂明王院」と呼ばれるお堂があり、不動堂村の名を偲ばせる存在です。
そして同地は京都市の元学区としてはは「安寧学区」にあたりますが、同校は1869年(明治2年)に下京第21番組小学校として設立し、移転を経て1872年(明治5年)に下京第29区小学校、1886年(明治19年)の小学校令で小学が尋常と高等に分けられた際に安寧尋常小学校(のち安寧小学校)と改められ、以降は地域の絆を育む存在として長い間親しまれてきました。
1996年(平成8年)に少子化に伴って大内小学校と合併して京都市立梅小路小学校が新たに誕生しましたが、1959年(昭和34年)に堀川通の拡充のために堀川塩小路交差点の北西の地に移された元小学校の校地は地域の自治会が管理し、施設が開放されていて、少年野球やグラウンドゴルフなどに使用されているといいます。
この不動堂村の周辺は1877年(明治10年)2月6日にすぐ東側に「七条停車場」、後の「京都駅」が設置されたこともあり、以降は京都の玄関口として近代化が著しく進んでオフィスビルはホテルなども建てられ、農村だった頃の面影は既にありませんが、幕末の頃に新選組がこの地域に壬生、西本願寺に次ぐ最後の屯所となる「不動堂村屯所」を営んだ場所として、近年注目を集めています。
新選組は幕末に江戸幕府に京都守護職を命じられた会津藩主・松平容保の配下として京都の治安維持活動や尊攘派志士の取り締まりにあたった組織で、1867年(慶応3年)に幕臣に取り立てられて以降も勤皇派と激闘を繰り広げ、戊辰戦争の初戦となった鳥羽・伏見の戦いでも旧幕府軍として従軍し、幕府軍の敗戦とともに隊員はまもなく四散。
その後も新政府軍に降伏することなく甲州勝沼にて板垣退助率いる迅衝隊に撃破され敗走し解隊、局長の近藤は捕えられて斬罪に処せられ、また副長の土方歳三も箱館五稜郭の戦いにて戦死し、戊辰戦争の終結とともに姿を消しました。
新選組は1863年(文久3年)に「壬生浪士組」として京都・壬生で発足し、八木邸と前川邸をその屯所として日々の治安活動や隊士の訓練などを行っていました。
当初の隊員数は24名でしたが、その後内部抗争などを経て「新選組」に改められ、1864年(元治元年)に池田屋で謀議中だった長州藩の尊王攘夷派の志士たちを襲撃し御所焼き討ちの計画を未然に防いだいわゆる「池田屋騒動」で一躍名を馳せて以降は、幕府からの支援も厚くなったといい、隊士の数も急増して最盛時には200名を超えていたといいます。
そこで壬生の屯所では狭くなったこともあり、1865年(慶応元年)3月10日、壬生の八木邸と前川邸に置かれていた屯所を西本願寺へと移す運びとなり、北東にあった北集会所と太鼓楼をその屯所と定め、約2年余りにわたって使用され、太鼓楼は見張り台としてその太鼓を隊士らの集合の合図などに利用していたといわれています。
西本願寺は浄土真宗本願寺派の本山で、戦国時代には織田信長と有名な「石山合戦」にて長期にわたって抗争状態が続きましたが、その間に長州を治めていた戦国大名の毛利家は本願寺に兵糧を運び込んで助けていたという歴史的経緯があり、こうした縁から幕末の尊王攘夷運動の最中にあっても長州藩や長州系の志士たちを支援していたといい、池田屋事件に続いて起きた「禁門の変」に際しても新撰組や薩摩、会津藩と戦って敗れた長州藩士を境内に匿ったともいわれています。
このため新選組の西本願寺の境内への屯所の移転は、屯所の手狭さの解消のため広い北集会所に目を付けたというのはもちろん、長州寄りだった西本願寺の動きを牽制し長州系志士たちのつながりを絶とうという一石二鳥の効果を狙ったものだともいわれています。
そのような経緯もあってか、新選組は僧侶や信徒たちの迷惑も顧みず、境内で武芸の稽古はもちろん、本山が行事で鳴らす鐘の音に合わせて大砲を轟かせたり、実弾射撃をおこなったり、あるいは捕縛した勤皇派志士たちを本山境内で拷問したりなどの乱暴狼藉を繰り返して参拝の門信徒や僧侶らを震撼させ、また境内にて食料として豚の飼育も行っていたとも、滋養のため猪鍋(ししなべ)を食したとも伝わっており、仏教で忌まれている肉食も大っぴらに行われたといい、傍若無人なふるまいを続ける新選組は、本願寺にとってはむしろ迷惑な存在であり、決して歓迎されるものではありませんでした。
そのため西本願寺は一刻も早く立ち退かせようと、移転に関する建築費・諸経費を負担してまで退去を要請したといい、副長・土方歳三の指示を受けた吉村貫一郎との交渉の末、1867年(慶応3年)6月15日に西本願寺からほど近い葛野郡不動堂村へと屯所を移転することとなります。近藤勇らがその力量を高く評価されて幕府直参(将軍徳川慶喜直属の軍隊)になった5日後、西本願寺へ屯所を移してから2年3か月あまりの後のことでした。
その屯所の広さは1万平方メートルで。表門、高塀、玄関、長屋、使者の間、近藤、土方ら幹部の居間、平隊士の部屋、客間、馬屋、物見中間と小者の部屋などがあり、大風呂は30人が一度に入れたといいます。
大名屋敷と比べても遜色ない構えだったと伝わりますが、不動堂村にいる間に、大政奉還があり、さらに元隊士である伊東甲子太郎ら御陵衛士が粛清された「油小路事件」を経て、1867年(慶応3年)12月9日には薩長を中心とした倒幕勢力が起こしたクーデターにより「王政復古の大号令」が発せられると、薩長を中心とした新政府軍と旧幕府軍の間は一触即発の空気に。
そんな中で新選組は、同年12月14日に警固のため京の都から伏見奉行所へ向かうこととなりますが、翌1868年(慶応4年)1月3日には会津戦争を経て箱館五稜郭まで続く「戊辰戦争」の発端となる「鳥羽・伏見の戦い」が勃発。
新選組は旧幕府軍の一員として伏見、八幡などで戦闘に参加しますが、副長の土方歳三が「もはや刀や槍の時代ではなくなった」とつぶやいたように新政府軍の最新の銃火器の前に惨敗を喫することとなり、それ以後は戊辰戦争の戦いに合わせるように関東へと下って転戦を繰り返し、京都でその姿を見ることはありませんでした。
そのため不動堂の屯所が使用されたのは約6か月の期間という実に短いもので、屯所の面影を残すものは何も残っていないばかりか、正確な場所も分かっておらず「幻の屯所」とも呼ばれている存在です。
現在不動堂村屯所跡と推測される地は数か所あり、1915年(大正4年)刊の「京都坊目誌」では「堀川の東、木津屋橋の南」、新選組局長・近藤勇のの甥で隊士だった宮川信吉の書簡では「七条通り下ル」、また幹部の一人・永倉新八の手記では「七条堀川下ル」とありますが、いずれも正確な場所までは記されておらず、東西は堀川通の東、南北は七条通を下がった木津屋橋通と塩小路通の間にある資生堂ビルの付近なども有力地の一つです。
この点、屯所跡を示すものとしては現在は堀川塩小路交差点の南西にある「リーガロイヤルホテル京都」と、塩小路通をやや東へ進んだ西洞院通の角にある「京湯元 ハトヤ瑞鳳閣」の2つのホテルの前に石碑が建てられているほか、前述の堀川塩小路より堀川通を挟んで一筋東側の路地沿いにある「不動堂明王院」には「新選組 まぼろしの屯所」の提灯が掲げられています。
このうち「リーガロイヤルホテル京都」入口前の石碑は、東山区にある霊山歴史館の学芸課長・木村幸比古の調査で、坂本龍馬に仕えていた菊屋峰吉という人物が、現在ホテルのある堀川通塩小路に屯所があったと語っていたことが分かったことから、同ホテルと地元の安寧自治連合会が石碑を建てることになったといい、屯所移転のちょうど136年後にあたる2003年(平成15年)6月15日に設置され、同日は関係者による除幕式も行われたといいます。石碑碑は縦90cm、横140cmで、「誠」の文字および新選組局長・近藤勇の和歌「事あらば われも都の村人となりてやすめん 皇御心」が刻まれているのが特徴です。