光縁寺
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光縁寺のみどころ (Point in Check)
京都市下京区綾小路大宮西入四条大宮町、四条大宮交差点の南西側にある浄土宗の寺院で、知恩院の末寺。
正式名は「満月山 普照院 光縁寺(まんげつざんふしょういんこうえんじ)」といい、本尊は阿弥陀如来。
創建は江戸初期の1613年(慶長18年)頃で、江戸後期1788年(天明8年)の「天明の大火」により焼失した後、本堂が1819年(文政2年)に、山門が1846年(弘化3年)に再建されて現在に至っています。
そして本堂には本尊・阿弥陀如来像のほか、その右側に観音菩薩、左に勢至菩薩、更に右脇に唐代の中国浄土教の大成者で法然が浄土宗を興すきっかけとなった「観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ)」を著した善導大師(ぜんどう 613-81)および宗祖・法然上人の像を安置されています。
幕末には新撰組と関係の深かった壬生寺や前川邸、八木邸などからも近く、また門前近くに新撰組の馬小屋があったことから、毎日にように門前を隊士たちが往来していたといい、その中には新撰組副隊長の山南敬介(やまなみけいすけ 1833-65)もいて、山門の瓦の山南家と同じ家紋「丸に右離れ三つ葉立葵」が目に入ったことから寺と新撰組の付き合いがはじまったといいます。
山南敬介は陸奥国仙台藩の出身で、藩を脱藩して江戸に赴き、小野派一刀流や北辰一刀流を学びますが、近藤勇との他流試合で敗れるとその人柄に惚れ込み、弟子入りし以後は行動を共にすることとなります。
1863年(文久3年)に「浪士組」が結成されるとその一員として近藤らと上京し、後に「新選組」が結成されると総長として副長の土方歳三とともに活躍し、芹沢鴨の粛清にも参加していますが、1865年(元治2年)2月に「江戸へ行く」という置手紙を残して突如脱走。
脱走の理由については屯所を西本願寺に移転することに対し反対したためとか、副長の土方との対立など諸説あるもののその真相は不明ですが、大津宿にて沖田総司に見つけられて連れ戻され、脱走を許さない隊の鉄の掟に則って2月23日に切腹、享年33歳であたといいます。
そして当時の22世住職・良誉は年齢も山南と同じであったといい、やがて2人の間には親交が生まれ、山南の紹介で屯所で切腹した隊士達や山南自身のほか、その後の多くの隊士が良誉に弔われて埋葬されることになったといいます。
当時は御陵衛士として新撰組から袂を分かった後に「油小路事件」にて暗殺された伊東甲子太郎(いとうかしたろう 1835-67)や藤堂平助(とうどうへいすけ 1844-67)ら御陵衛士一派の墓もあったといいますが、明治新政府軍の手により東山の泉涌寺塔頭・戒光寺に改葬されています。
また新選組隊士たちの墓は元々は現在の京福電鉄(嵐電)の線路の位置にあったといい、大正時代に線路工事のために移動されているといいます。
光縁寺の施設案内
境内
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山門
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「新選組之墓 當山」の石標と寺紋「丸に右離れ三つ葉立葵」
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庫裏
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トイレ
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本堂
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鬼瓦
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新選組隊士の墓
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沖田総司の縁者の墓
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関連
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新徳禅寺
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周辺
光縁寺の主な年間行事・カレンダー
年中行事
- 3月第2日曜
山南忌
旧前川邸で切腹した新選組総長・山南敬助を偲ぶ法要
光縁寺と壬生寺会館でも行事あり
月並行事
花ごよみ
光縁寺のレポート・旅行記
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