京都市中京区壬生梛ノ宮町、南西角に元祇園梛神社がある四条坊城の交差点より坊城通を南へ進み、壬生寺の手前北隣にある新選組ゆかりの邸宅。
幕末の新撰組旗揚げの地であると同時に近くにある旧前川邸とともに「新選組屯所跡」の一つであり、新選組の屯所として使われた建物が現存する幕末の貴重な遺構の一つです。
壬生の郷士である「八木家」は、鎌倉初期に但馬国、現在の兵庫県養父郡朝倉庄の八木安高が起こしたとされる家で、源頼朝の富士の裾野の巻狩りの時、関東一円を震撼させた白い猪を射止めた功績で、頼朝より今の家紋「三つ木瓜」を拝領したといわれている家柄です。
その後10数代の後、越前朝倉を経て室町時代の天正年間に京都に移り、洛西の壬生村の小高い場所にに居を構えました。
今日は一面住宅地となっている壬生の地ですが、当時は洛中に近接した閑静な農村だったといい、八木邸の中庭からは二条城や五山の送り火が望めたといいます。
水が豊かで農耕に適した土地では壬生菜や菜種、藍などが栽培され、京都でも有数の農業地帯として知られていました。
ちなみにこの地で採れた藍で染めた水色は壬生を象徴する色で、有名な「壬生狂言」に使用する手拭いの色として古くから使用されているほか、「新選組」が使っている羽織の段だら模様の水色もこの水色が使われたものだといいます。
江戸時代には10家ほどいたという郷士(壬生住人士)の長老も務め、他の郷士たちとともに村の経営や壬生狂言にも携わり、代々村の行司役も勤めたといい、また八木家は京都守護職や所司代とも深い関わりがあったといい、これがのちの新選組の発足にも関係したともいわれています。
そして幕末の11代目当主・八木源之丞(やぎげんのじょう 1814-1903)の時代には江戸浪士の宿所となり、話は有名な「新選組(しんせんぐみ)」の結成へとつながっていきます。
「新選組」は1862年(文久2年)に庄内藩出身の志士・清河八郎の提案により、上洛する14代将軍・徳川家茂の警護のために幕府が集めた「浪士隊」を前身とし、50名の募集に対し234名が集まったといい、その中には近藤勇や土方歳三らの名前もありました。
1863年(文久3年)2月23日、上洛した近藤勇らは将軍が滞在する二条城にほど近い壬生村の八木邸に宿泊。しかし浪士隊を提案した清河八郎は主だった者たちを新徳寺に集めると、本当の目的は将軍の警護ではなく尊皇攘夷にあったと熱弁し、建白書を朝廷に提出して尊皇攘夷の活動に利用しようとしたため、芹沢鴨や近藤勇らの反発を買い騒動となります。
騒動を聞きつけた幕府は直ちに浪士組に帰還命令を出し、清河八郎らが率いる浪士組は江戸へ戻されます(その後幕府によって粛清されることに)が、その一方で清河に反対した芹沢・近藤ら13名は京都守護職を務めていた会津藩の預かりとなってそのまま京都・八木邸に残ることとなり、「壬生浪士組」を名乗って主に市中警備や不埒を働く志士の取り締まりなどを担当しました。
そしてその働きぶりを評価され幕府から新たな隊名「新選組」の名を拝命。同年3月16日に八木邸の右門柱に「松平肥後守御領新選組宿」の表札をかかげ、ここが「新選組発祥の地」となりました。
同年8月には攘夷派の長州藩が京都から追放された「八月十八日の政変」の警備にも出動し活躍しています。
創設時のメンバーの人数については諸説あるものの、近藤勇をはじめ土方歳三、沖田総司、山南敬助、原田佐之助、藤堂平助、井上源三郎、永倉新八の試衛館一門の8名(試衛館派)、および芹澤鴨、新見錦、平山五郎、平間重助、野口健司の水戸浪士5名(水戸派)の13名といわれています。
この中で初代筆頭局長を務めたのは近藤ではなく水戸派の芹澤鴨でした。芹澤は神道無念流剣術の免許皆伝を持つ剣の達人であり、学もあったといいますが、一方で酒が入ると横暴になり数々の乱暴狼藉を働いたため、それを耳にした会津藩は近藤に芹澤を始末するように命じたともいわれています。
そして同年9月16日(18日とも)の夜、土砂降りの雨の中、八木邸から南にある日本最古の公許遊廓・島原の揚屋「角屋」から酔いつぶれて帰ってきた芹沢鴨とその腹心だった平山五郎が、八木邸の奥の間にて待ち伏せしていた何者かによって惨殺されるという、新選組三大内部抗争の一つである芹澤の暗殺事件が発生します。
この点、八木邸には現在も芹沢鴨が暗殺された際に付いたとされる刀傷が残り、また逃げようとした芹沢鴨がつまずいて転び、文字通り命を落とす原因となった文机も当時のものが現存しているといいます。
この事件の詳細については明らかになっていませんが、実行犯の中には同じ新撰組の仲間もいたと思われ、その結果水戸派は一掃され、近藤勇を中心とした試衛館派が実権を握ることとなります。
その結果、新選組の隊規は厳しくなる一方で隊員の数も急増し、近くの前川家や八木家南隣にあったという南部家が宿舎としてあてられることとなりました。
その後1864年(元治元年)6月5日の「池田屋事件」では、尊王攘夷の過激派の浪士たちが京の都に火をつけ、その混乱に乗じて天皇を長州に拉致するという計画を事前に察知し、近藤らが木屋町三条の池田屋を襲撃して7人を斬殺した上で23人を捕縛する活躍を見せ、新選組は一躍天下にその名を知られるようになります。
更に同年に起こった長州藩勢力が京都守護職・松平容保らの排除を目指して京都市中で起こした「禁門の変」の鎮圧においても活躍し、朝廷や幕府、そして会津藩から感状と200両余りの恩賞を下賜されるなど絶頂期を迎えます。
そして新選組は200名を超す集団へと増大したことで、隊士を収容するために壬生の屯所を引き上げ、西本願寺の太鼓番屋(現在の太鼓楼)へと屯所を移転することとなります。
もっともその後も壬生の地は洋式調練の場所にされるなど「鳥羽伏見の戦い」で敗れ江戸に下るまで深い繋がりは残されていたといいます。
その後の新選組は、総長・山南敬助の切腹や御陵衛士・高台寺党を結成して脱退した伊東甲子太郎らの一派を粛清した「油小路事件」などの内部抗争や粛清を繰り返しながらも、京都で活動する不逞の浪士の取り締まりや倒幕志士の捜索と捕縛、反乱の鎮圧などにあたり、1867年(慶応3年)6月10日に新選組は幕府直参となり、近藤は将軍御目見に取り立てられます。
しかし倒幕という時代の流れには逆らうことはできず、翌年に明治新政府軍と旧幕府軍が戦った「戊辰戦争(1868-69)」が始まると、初戦の「鳥羽・伏見の戦い」から最後の「箱館戦争(五稜郭の戦い)」まで旧幕府軍に従い各地を転戦するなかで、近藤や土方ら主要メンバーも相次いでこの世を去り、戦争の終結とともに解散となりました。
八木家の建物は「長屋門」が1804年(文化元年)、主屋が1809年(文化六年)に建造されたいずれも歴史的な建築物であり、1983年(昭和58年)6月1日に「新選組 壬生屯所旧跡」として「京都市指定有形文化財」に指定。
2018年現在も八木源之丞の子孫が継承しており、当代は15代目といいいます。
建物内は源之丞の子孫が住んでいるためかつては非公開でしたが、現在は公開され見学ができるようになっています。
現在の八木家は和菓子屋「鶴壽庵(かくじゅあん)」を営んでおり、八木家の見学申込者には名産の壬生菜をきざみ入れたお餅であんこを包んだ素朴な味の「屯所餅(とんしょもち)」が振舞われます。