京都市左京区黒谷町、京都市街地を見下ろせる丘陵地に広大な寺域を有する浄土宗寺院で、別名として白河禅房、黒谷堂、新黒谷とも。
本尊は阿弥陀如来で、地元では「黒谷さん(くろだにさん)」の通称で親しまれています。
浄土宗の大本山(旧黒谷浄土宗総本山)で、知恩院と並ぶ格式を誇る「浄土宗七大本山」の一つであり、また知恩院、百万遍知恩寺、清浄華院(しょうじょうけいん)とともに「京都四箇(しか)本山」の一つにも数えられています。
開山は浄土宗の宗祖・法然(ほうねん)(源空)
15歳で比叡山に登った後、1175年(承安5年・安元元年)の春、43歳の時に念仏の教えを広めるため比叡山西塔の黒谷を下ることになります。
丘の上をを歩いている途中、大きな石があったことからそこに腰掛けると、紫雲が全山にみなぎり光明があたりを照らした(その石から紫の雲が立ち上り、大空を覆い、西の空には、金色の光が放たれた)ことから、この地に草庵を結ぶこととなりました。
これがこの寺のはじまりであり、法然がはじめて草庵を営んだ浄土宗最初の寺院となったことから「念仏発祥の地」ともされています。
この地は比叡山西塔の黒谷の所領で、法然が師・叡空(えいくう)から譲り受け「新黒谷」と呼ばれました。
そしてその後、弟子の信空(しんくう)とその弟子に引き継がれていき、第5世・恵顗(えぎ)の時に初めて仏堂や御影(みえい)堂などの堂宇が整えられ、法然による開創の際の瑞相(ずいそう)にちなみ「紫雲山光明寺」と号しました。
更に南北朝時代に第8世・運空が後光厳天皇(ごこうごんてんのう 在位1352-71)の戒師を勤め、天皇に戒を授けた際に「金戒」の二字を賜り、現在の「金戒光明寺」の寺号に。
また1428年(正長元年)には法然が最初に浄土宗を布教を行った地であることに因み、後小松天皇の宸筆の「浄土真宗最初門」の勅額を賜り、その勅額は現在も山門に掲げられています。
創建以来念仏道場として、室町期には公武の尊崇も受けていましたが、「応仁の乱」の後は衰退。
のち織田、豊臣の庇護を受け、江戸時代にはとりわけ浄土宗を手厚く保護した徳川幕府の援助を受け「浄土宗四箇本山」の一つとして栄えました。
江戸初期には知恩院とともに徳川幕府の京都における防衛拠点として城郭構造に改修され、幕末の1862年(文久2年)に会津藩主・松平容保(まつだいらかたもり)が京都守護職として着任した際には、会津藩士1000名がここに本陣を置いたことで知られています。
そして近藤勇、芹沢鴨らはこの地で松平容保への拝謁が叶い、後に新選組が誕生したことから「新選組発祥の地」ともされています。
明治維新後は衰退したものの、昭和になり着々と境内伽藍が整備され、第二次大戦後に「黒谷浄土宗」として一派独立しますが、現在は浄土宗に合流し「浄土宗七大本山」の一翼を担っています。
堂舎はいくたびかの火災で焼失しますがその都度再建され、現在は山門、御影堂(大殿)、阿弥陀堂、三重塔(文殊塔)など豪壮な構えの堂宇が建ち並んでいます。
そして18の塔頭寺院のほか、会津藩士の眠る墓所があることでも知られています。
このうち御影堂(大殿)は1944年(昭和19年)に京大教授・天沼俊一博士の設計により新たに建設されたもので、法然上人(源空)の75歳の御影(座像)を安置。
また山門は時代劇のロケなどに使われることもあるほか、阿弥陀堂は豊臣秀頼によって再建されています。
更に江戸幕府2代将軍・徳川秀忠の菩提のために建立された三重塔(重文)には運慶作の文殊菩薩と脇侍の尊像が安置されています。
寺宝としては、
法然上人(源空)の真筆で遺作の「一枚起請文(きしょうもん)」(鎌倉期書写)
「山越阿弥陀(やまごしあみだ)図」(鎌倉時代、重文)
「地獄極楽図屏風(ごくらくずびょうぶ)」(鎌倉時代、重文)などを有しています。
墓域には、
春日局(かすがのつぼね)や徳川秀忠の妻で2011年に放送された大河ドラマ「江-姫たちの戦国-」の主人公「江(崇源院)」の慰霊塔
山崎闇斎(あんさい)の墓、
また会津藩士の墓地や京都守護職の本陣が置かれた名残を示す会津藩主松平公本陣旧趾(きゅうし)などがあることで知られています。
紅葉の名所として有名で、毎年秋の見頃の時期に合わせて特別公開されます。
回遊式で紅葉が美しい方丈庭園「紫雲の庭」や市内が一望できる山門の特別公開、仏師・運慶作と伝わる文殊菩薩像のほか、伊藤若冲筆「群鶏図」屏風などの寺宝が展示されます。
また桜の隠れた名所でもあり、境内全体に咲きますが、とりわけ山門を飾る桜や極楽橋近くの桜が見事です。