京都市左京区一乗寺門口町(もんぐちちょう)、比叡山の麓の一乗寺に位置。
江戸初期に徳川幕府に仕えた元旗本で、文人としても知られる石川丈山(いしかわじょうざん)が造営、隠棲した山荘跡(旧宅)
丈山は元々は徳川家康に仕えた武士でしたが、「大坂夏の陣」で手柄を立てたものの、先陣争いを禁じた家康の命令に背いたとして功を認められず、その後に仕えた浅野家の転封にともなって広島に住んだ後、京都に戻ってこの地に草庵を結びました。
そして1672年(寛文12年)5月、90歳で没するまでの晩年の約30年間をこの地で隠居生活を過ごしたといいます。
1640年(寛永17年)に着工建築がはじまり、翌1641年(寛永18年)、丈山59歳の時に完成しました。
それ以後も丈山を慕って訪れる人も多く、1748年(寛延元年)に建物・庭園を改修。
1966年(昭和41年)には「詩仙堂丈山寺」と改め、現在は曹洞宗に属する禅宗寺院となっています。
さらに1967年(昭和42年)にも大改修が加えられました。
「詩仙堂」名前は館の中央にある四畳半の部屋で、三十六歌仙に倣った中国の36人の詩人「中国三十六詩仙」の肖像画にそれぞれ詩を書き四方の長押(なげし)上に掲げる「詩仙の間」にちなみこう呼ばれるようになったといいます。
ちなみに詩仙は日本の三十六歌仙にならって林羅山(はやしらざん)の意見を求めながら、漢・晋(しん)・唐・宋の各時代から選ばれ、肖像は江戸時代の狩野派を代表する天才絵師・狩野探幽(かのうたんゆう)・尚信(なおのぶ)が描き、丈山が自筆で題詩首句を書き加えたといわれています。
石川丈山は漢詩と書の大家であったほか、小堀遠州と並ぶ江戸初期の庭作りの名手として有名で、桂離宮、枳穀邸(渉成園)の作庭に関わったことで知られています。
また詩仙堂は別名「凹凸?(おうとつか)」とも呼ばれていますが、これはでこぼこの土地に建てられた住居の意味で、建物や丈山自身による設計の見事な唐風庭園は、そのような山の斜面と谷間を巧みに利用して造られました。
丈山は「詩仙の間」を含め建物や庭の10個の要素を「凹凸?十境」と見立てたといい、境内東南の山際に滝を作り、境内を貫流するように渓流が設けられ、書院前に敷き詰められた白砂と連山を思わせる丸く刈られたサツキの刈込(かりこみ)を経て、上部には野趣溢れる雑木林が広がっています。
そしてこれに丈山愛好の織部灯籠(おりべとうろう)や、丈山の考案とされる「僧都(そうず=ししおどし)」の閑雅な響きが趣を添えています。
春のサツキ、秋の紅葉など四季折々の草花を楽しむことができ、とりわけ5月下旬に赤紫色の花を咲かせる皐月(サツキ)は有名。
3層の小楼「嘯月楼(しょうげつろう)」のある建物の1階から眺めるサツキは特に素晴らしいことで知られています。
秋の紅葉も有名で、書院正面の座敷から眺める秋の紅葉は絵画のような格別の美しさ。
正面の白砂とサツキの刈込、奥にある紅葉とのコントラストが絶妙です。
1928年(昭和3年)には国の史跡にも指定されました。