京都市下京区下数珠屋町通間之町東入東玉水町にある「お東さん」の愛称で親しまれている真宗大谷派の本山・東本願寺(真宗本廟)の飛地境内地(別邸)にある庭園。
東本願寺より烏丸通を挟んで東へ約150mの所に位置し、西は間之町通、東は河原町通、北は上珠数屋町通、南は下珠数屋町通に囲まれたほぼ200m四方の正方形の敷地で、面積は3.4haで約1万600坪。
そしてその名称は中国六朝時代の詩人・陶淵明(とうえんめい)が官を辞して故郷に帰り、故郷での田園生活をうたった「帰去来辞」の一節「園日渉而成趣」の詞にちなむもので、また周囲に生垣として枳殻(カラタチ)が植えられていたことから「枳殻邸(きこくてい)」の通称でも親しまれています。
元々はこの地は、平安初期に有名な「源氏物語」の主人公・光源氏のモデルともいわれている嵯峨天皇の第12皇子の左大臣・源融(みなもとのとおる 822-95)が奥州塩釜の風景を模して、難波から海水を運ばせて作庭した「六条河原院」の苑池の遺蹟と伝えられている場所で、このため「源氏物語ゆかりの地」として採り上げられることもあり、また付近に現在も残っている「塩竈町」や「塩小路通」などの地名は、その名残りだといいます。
その後、江戸時代に入った1641年(寛永18年)に3代将軍・徳川家光によってその遺蹟の一部を含む現在地約1万坪が寄進され、さらに1653年(承応2年)、東本願寺第13代・宣如(せんにょ)と親交があった石川丈山が作庭したのが現在の渉成園のはじまりです。
そして以後は門主の隠退所あるいは外賓の接遇所として用いられるなどし、東本願寺の飛地境内地として重要な機能を果たしました。
園内の建物は江戸後期、1858年(安政5年)と1864年(元冶元年)の二度にわたる大火で焼失しており、、現在の建物は江戸末期ないし明治初期から末期にかけて順次復興・再建されたものですが、池水や石組は造営当初とほとんど変わることなく現在に至っており、1936年(昭和11年)12月には国の「名勝」にも指定されています。
皐月と紅葉の名所として有名な詩仙堂の庭園でもお馴染みの石川丈山の趣向がふんだんに取り入れられた池泉回遊式の庭園は、東山を借景に全敷地の6分の1を占める広大な「印月池」を中心として風雅な書院や茶室が配されています。
そして「侵雪橋」「縮遠亭」など、風雅な趣をたたえ変化に富んだその風景は「十三景」ないし「十景」と称されますが、中でも江戸後期の漢詩人・頼山陽はこの風趣を讃えて「渉成園記」にて「渉成園十三景」として紹介しています。
春は桜をはじめ梅や藤、夏は菖蒲や睡蓮、秋には紅葉(楓)と、四季折々に変化するの庭園の趣を楽しむことができ、年間を通じて一般に公開されているほか、東本願寺で行われる諸行事等の際には、種々の催しの会場として用いられています。