京都市東山区本町十二丁目、京都の玄関口である京都駅の南東に位置し、九条通と東大路通が合流する付近の本町通(伏見街道/奈良街道)沿いにある京阪本線および西日本(西日本旅客鉄道)の奈良線の駅。駅スタンプはJRは駅名の由来でもあり紅葉の名勝として知られる東福寺。
先に設置されたのは京阪の東福寺駅で、1910年(明治43年)4月15日、京阪電気鉄道(京阪)の京阪本線が大坂の天満橋駅~五條駅(現在の清水五条駅)の区間で開業するのと同時に設置。
その後、1943年(昭和18年)10月に戦時中の企業統合政策によって、京阪電気鉄道が阪神急行電鉄(現在の阪急)と合併するといったんは阪急の駅となりますが、戦後の1949年(昭和24年)12月に京阪神急行電鉄から京阪電気鉄道が再び分離独立すると、再び京阪の駅となり現在に至っています。
一方のJRの東福寺駅は1910年(明治43年)に京阪の東福寺駅が設置されてから47年後の1957年(昭和32年)12月27日に国鉄奈良線の駅として開業設置されたのがはじまり。
この点、東福寺駅が含まれる現在のJR奈良線の京都駅~稲荷駅の区間は、元々は1879年(明治12年)に京都駅から現在の大津駅の南西にある大谷駅までの区間が東海道本線の一部として1879年(明治12年)に開業された際に整備されたものでした。
当時の東海道本線の京都~大津間は、現在の路線(新東海道本線)とは異なり京都駅から稲荷駅~山科駅(旧)~大谷駅~馬場駅(現在の膳所駅)を結ぶルートで、これは当時はまだトンネルを掘る技術が低かったことからいったん南へと迂回するルートで作られたもので、稲荷駅から南へ下がった後は、現在の名神高速道路のルートで大谷まで結ばれていたといい、山科駅も今よりもずっと南にある勧修寺の境内の北側あたりに設置されていたといいます。
そしてその後1921年(大正10年)に東海道本線のルートのうち京都駅から馬場(現在の膳所駅)までの区間は、京都駅から大津までほぼ最短距離で東へと進んでいく現在のルート、すなわち東山トンネルから現在の山科駅を経由し新逢坂山トンネル、そして大津駅を経たルートへと切り替えられることとなり、京都駅から稲荷駅へと南へ迂回していた部分は東海道本線からは外れることとなります。
その一方でこのルートは京都の南にある奈良駅から伏見の桃山駅を経由して京都方面へと北上する新たな路線である「奈良線」に接続されることとなり、この時に国鉄奈良線の所属となりました。
もっとも、この時点では京都駅~稲荷駅間にはまだ国鉄の東福寺駅は設けられておらず、設置されたのは戦後の1957年(昭和32年)のことで、その後1987年(昭和62年)4月1日には国鉄分割民営化によって西日本旅客鉄道(JR西日本)の駅となり現在に至っています。
京阪は相対式ホーム2面2線を持つ地上駅であり、一方JRの方は相対式ホーム2面2線を持つ地上駅で、1993年(平成5年)に橋上駅化された際に建てられた橋上駅舎を有しています。
入口は駅の東側の本町通(伏見街道/奈良街道)沿いのみで、入口を入ってすぐ正面に大阪淀屋橋・中之島線方面ホームへと通じている京阪の東改札口があり、その左には橋上駅舎へと通じている階段とエレベータがあります。
そして橋上へ上がると京阪の三条・出町柳方面ホームへの階段とエレベーター、下に降りると西改札口を経て三条・出町柳方面ホームへとたどり着くことができるほか、互いのホームへは地下道でも連絡しています。
一方、JRの改札口は橋上の通路を奥へと進んだ先にあり、改札口から中へ入ると京都方面および宇治・奈良方面それぞれのホームへと通じる階段とエレベーターが用意されています。
駅前は街道に沿って小規模な商店などが立ち並び、駅の南側の高架前の交差点から九条通と東大路通の交差する東福寺交差点へと向かうことができ、交差点の南東には駅名の由来にもなっている臨済宗東福寺派の大本山で京都でも随一の紅葉の名所である東福寺があり、とりわけ秋の紅葉シーズンには観光に訪れる人が多く見られるほか、その北側にある皇室ゆかりの寺院で「御寺」とも呼ばれる泉涌寺の最寄駅でもあります。
この点、2006年(平成18年)の秋からはJRと京阪は連携を強化し、京都でも有数の観光地である東山一帯の道路渋滞に巻き込まれない移動手段として、JR京都駅からJRで東福寺駅へまず移動し、京阪に乗り換えて七条駅・清水五条駅・祇園四条駅へ向かい東山へアクセスするという乗換ルートを観光客に案内しており、2011年(平成23年)11月からはJRの宇治・奈良方面ホームと京阪の出町柳方面ホームを平面でつなぐ連絡改札口(のりかえ口)も設置され、この結果当駅の利用客数は行楽シーズンを中心に増加傾向にあるといいます。