京都市左京区一乗寺竹ノ内町、京都市街の東北、比叡山の南西麓にある天台宗の門跡寺院で、青蓮院、三千院(梶井門跡)、妙法院、毘沙門堂と並ぶ「天台五門跡(天台宗五箇室門跡)」の一つに数えられる洛北屈指の名刹です。
この点、門跡とは皇族や貴族の子弟が代々住持となる別格寺院のことで、勅使門の両側の塀に残る5本の白い水平線はその格式を今に伝えるものであり、このことから「竹内門跡(たけのうちもんぜき)」とも呼ばれています。
他の天台門跡寺院と同様、延暦年間(782~806)に宗祖・伝教大師最澄(さいちょう 767-822)が鎮護国家の道場として比叡山に建立した一坊が起源で、その後、天暦年間(947~957)に是算が西塔(さいとう)北谷北渓に移し「東尾坊(とうびぼう)」と号します。
また是算が菅原家にゆかりのある家系の出身であったことから、947年(天暦元年)に創建された北野天満宮の初代別当(管理職)に補され、以後明治維新まで北野別当職を兼務することとなります(8世・忠尋以後に当寺門跡が北野天満宮別当を兼ねたとする説も)
この点、実質的な曼殊院の歴史はここから始まるため、寺では是算を曼殊院の初代としています。
平安後期の天仁年間(1108-10)、8世・忠尋(ちゅうじん)の時に寺号を「曼殊院」と改め、更に永久年間(1113-18)に洛北の北山、現在の金閣寺(鹿苑寺)付近に別院を建立。
室町時代には足利義満の北山殿(のちの金閣寺)の建立のために移転を余儀なくされ、康暦年間(1379-81)に洛中、現在の相国寺付近へ移転しています。
そして文明年間(1469-87)には慈運法親王(じうんほっしんのう)が入寺し、以後門跡寺院となりました。
その後、現在地に移転したのは1656年(明暦2年)のことで、桂離宮を造営したことで名高い八条宮智仁親王の第2皇子にあたる第29世・良尚法親王が入寺し、御所の北から修学院離宮に近い一乗寺竹ノ内に移して堂宇を造営し、「竹内門跡」と呼ばれるようになりました。
明治に入り宸殿を失った以外は、当時の様子がほぼそのまま伝えられているといい、桃山様式の勅使門に玄関、本堂(大書院)、書院(小書院)、茶室、庫裏、護摩堂などが中心伽藍を構成しています。
このうち造営時からほぼそのままだという江戸初期の代表的書院建築である本堂(大書院)・書院(小書院)、そして庫裏が国の重要文化財に、また枯山水の庭園を含む境内全体が1954年に国の名勝に指定されています。
本堂(大書院)前の小堀遠州の作といわれる遠州好みの枯山水庭園は、枯滝から続く水の流れを表現した砂の中に鶴島と亀島を配し、小書院は静かに水面をさかのぼる屋形舟を表現しているといいます。
また石造品にも独特の意匠が見られ、鶴島にある鶴を表現したという樹齢400年の五葉松(ゴヨウマツ)の脇にある曼殊院型のキリシタン燈籠と、小書院の縁先にある梟の彫刻が施された「梟の手水鉢(ふくろうのちょうずばち)」が特に有名ですが、公家風で趣味豊かな良尚親王の趣向が反映されているといいます。
この他にも小堀遠州好みといわれる八窓席(はっそうせき)の茶室も国の重要文化財に指定されています。
寺宝も数多く収蔵しいていますが、中でも「絹本着色不動明王像(黄不動)」と平安時代の「古今和歌集」曼殊院本はともに国宝。
このうちは大書院の仏間に安置されている絹本着色不動明王像はその色から「黄不動」と呼ばれていますが、園城寺(おんじょうじ)の黄不動を模したものといい、同じく国宝に指定されている、青蓮院門跡の「青不動」とともに「三不動」の一つに数えられるとともに、「近畿三十六不動尊」の第十七番札所にもなっています。
四季を通じて草花が楽しめることでも知られていて、中でも大書院(本堂)の周辺に植えられ5月初旬頃に見頃を迎える「霧島つつじ」は有名で、色鮮やかな深紅の花が枯山水庭園の白砂と見事な調和を見せます。
また紅葉の名所としても有名で、勅使門に続く白壁と石垣の間に連なる紅葉の美しさはよく知られているほか、境外の西側に広がる弁天島も紅葉の赤と黄の美しいコントラストに彩られます。
その他にも椿、梅、ソメイヨシノ、サルスベリ、リンドウ、サザンカなどの草花も楽しむことができます。