叡山修学院駅とは?(基本データ)
- 名前
- 叡山修学院駅(えいざんしゅうがくいんえき)
- エリア
- 一乗寺・修学院
- ジャンル
- 建立・設立
- 1925年(大正14年)9月27日
- アクセス
- 駐車場
- -
- 拝観料
- なし
- お休み
- 特になし
- 拝観時間
- 時刻表に準ずる
- 住所
- 〒606-8007
京都府京都市左京区山端壱町田町14-1 - 電話
- 075-781-7664
- FAX
- -
- 公式サイト
- 修学院駅 叡山電車
叡山電車 イベント Twitter
京都盆地の北東角、北山通に面し白川通と川端通に挟まれた東大路通の北端に位置する叡山電車の駅。相対式ホーム2面2線で南東側に修学院車庫が隣接。 地下鉄烏丸線の松ヶ崎駅へは西へ約800mと徒歩圏内で周辺一番の住宅地、更に修学院離宮や曼殊院、赤山禅院など観光名所もあり乗降客も非常に多い
京都市左京区山端壱町田町、京都市の北東、白川通北山交差点のやや西側の北山通と東大路通の交差するT字路付近にある叡山電車叡山本線の駅。
「修学院(しゅうがくいん)」は京都盆地北東部に広がる岩倉盆地の南側に位置する比叡山と高野川に挟まれた地域で、比叡山から南へと続く東山連峰の山裾に広がり、狭義には修学院村のみ、広義には愛宕郡高野村、修学院村、一乗寺村の3つの村を合わせてできた修学院村を指す場合もあります。
修学院村および北隣の高野村および南隣の一乗寺村を合わせた広義の「修学院」の周辺一帯は縄文時代から人が居住し生活が営まれた場所で、また修学院から比叡山へと向かう「雲母坂(きららざか)」の京都側の入口にあたることから、平安時代には「西坂本」と呼ばれ比叡山の宿坊が数多く建立されたといわれていますが、平安後期の1121年(保安3年)には延暦寺と園城寺との対立によって一乗寺など多くの天台宗寺院が焼き討ちされ灰燼に帰したといいます。
また南北朝時代の1336年(延元元年/建武3年)、京を追われ九州へと逃れた足利尊氏は態勢を立て直して再び京都へと攻め上がり、「湊川の戦い」で河内の楠木正成が討死すると、第96代・後醍醐天皇は尊氏の追撃に備えて京から比叡山に逃れ、滋賀側の東坂本を新田義貞と名和長年、京都側の西坂本を、後醍醐天皇の皇子・尊良親王と千種忠顕(ちくさただあき ?-1336)が守備することとなります。
そして後醍醐天皇の側近として隠岐配流から従い、建武新政権でも重要な地位を占めるなど南朝の四人の功臣を指す「三木一草」の一人にも数えられた千種忠顕は西坂本に攻め寄せた尊氏の弟・足利義直の軍勢と雲母坂で激しい戦闘となり、戦死した場所としても知られています。
明治以降は1868年(明治元年)に山城国愛宕郡の修学院村・一乗寺村・高野村が旧京都府に編入された後、1889年(明治22年)の町村制施行によって3か村は統合され「修学院村」が発足し、旧村名を継承した3大字を編制され、更に1931年(昭和6年)4月1日には修学院村が京都市左京区に編入され、上高野、修学院、山端、一乗寺の4地区に再編され現在に至っています。
一方、狭義の「修学院」地区は元々は10世紀後半に「修学院」という寺が建立されたのがはじまりで、寺は南北朝時代以後に廃絶されたといいますが、その名前は「修学院村」の地名として残ることとなりました。
その後、江戸時代に天皇の領地にあたる禁裏御料地とされると、第108代・後水尾天皇(ごみずのおてんのう 1596-1680)が晩年に上皇となった頃の1655年(明暦元年)から56年(明暦2年)にかけて造営工事を行い、1659年(万治2年)頃に完成させた広大な「修学院離宮」が築かれ、現在は修学院離宮の立地する場所として広く知られるようになっています。
「修学院駅」はその修学院地区の西側、白川通と北山通の交差する白川通北山交差点の西側、京都市の東を南北に走る東大路通が北山通と合流するちょうど起点となる場所に設置された同地区の中心となる駅です。
1925年(大正14年)9月27日に電力会社・京都電燈が経営する叡山電鉄の平坦線の駅として開業したのがはじまりで、1942年(昭和17年)3月には戦時統制によって京都電燈が解散されるのを受け、同社の京都および福井での鉄道事業を分離・引き継ぐために「京福電気鉄道」が設立され、嵐山線・北野線・叡山線の路線継承によって京福電気鉄道の駅となります。
その後、自動車社会の到来に伴って1976年(昭和51年)3月31日に京都市電の今出川線が全線廃止されて市バスに転換されると、出町柳駅が他の鉄道と接続しない孤立したターミナルとなり、京都市内中心部と直結する路線バスに乗客が流れて叡山本線・鞍馬線の利用客が一気に減少したことで京福および京福を配下に持つ京阪グループの経営を圧迫する事態に。
そこで経営体制の見直しが図られることとなり、1985年(昭和60年)7月に京福の全額出資で叡山電鉄株式会社が設立されると、翌1986年(昭和61年)4月1日には京福が叡山電鉄に叡山線の鉄道事業を譲渡する形で叡山電鉄叡山本線の駅となりました。
更にその後、叡山電鉄が1991年(平成3年)に株式の60%が京福から京阪に売却され、2002年(平成14年)3月には全株式が京阪に売却されて京阪の100%子会社となったため、現在の叡山電鉄叡山本線は京阪グループ傘下の駅となっています。
相対式ホーム2面2線を有する地上駅。ホームはほぼ全体が上屋に覆われており、無人駅ですが平日朝のラッシュ時間帯などには上りホームに駅係員が配置されて集札業務が行わることもあるといいます。
開業当時は現在よりも約100mほど北側にありましたが、北山通の開通にあたって1970年(昭和45年)に南側の現在地へと移動され、駅の隣にあるマンションは現在でも叡山電鉄の登記上の本社事務所となっているほか、その南側には修学院車庫もあり、毎年10月の最終土曜日には車庫公開イベント「えいでんまつり」も開催されています。
駅の周辺は旧大原街道を中心に古くからの商店街で、また駅東側にはプラザ修学院、駅西隣にはフレスコ修学院店など、商業施設も多くあり、また学生アパートの多い地域で、若者向けの飲食店なども多数あったといいますが、京都市内の大学の南部移転などもありその数は減っているといいます。
西へ約800m離れた先に地下鉄烏丸線の松ヶ崎駅がある北山通や白川通沿いなどの駅から少し離れた所は住宅地となっていますが、高野川左岸に位置する当地区は鴨川の遠望景観の維持を図るための「鴨川風致地区」に指定されていて、景観や自然を守るため法令により建築物は高さを抑えた和風外観とするなどの建築に関する様々な制限をかけることで良好な住環境が保たれている地域となっています。
また付近には観光名所も多く、東側に聳える比叡山へと続く「雲母坂」の登山道入口があるほか、王朝文化の美意識が溢れる風光明媚な「修学院離宮」をはじめ、御所の鬼門を守護する「赤山禅院」、修学院村の産土神として知られる「鷺森神社」や一乗寺地区の北端にある門跡寺院の「曼殊院門跡」などの名所・旧跡へのアクセスに便利な駅となっています。
西側
東側
ローズマンション2F
修学院車庫で開催される車庫公開イベント
表示する記事はありません