京都府宇治市宇治山田、宇治川左岸(東岸)の朝日山の山裾に鎮座し、宇治川沿いに入口のある宇治神社の東側に隣接して境内を構える神社です。
創建年代などの起源は不詳ですが、藤原頼道が平等院を建立した後、その鎮守社として位置付けられ、崇敬を集めたといわれています。
また「延喜式(えんぎしき)」神名帳には山城国宇治郡「宇治神社二座」とあり、隣接する宇治神社とは明治維新後の1883年(明治16年)に分社されるまでは対をなす二社一体の存在でした。
そして明治以前は宇治上神社は「上社」「本宮」、宇治神社は「下社(しものやしろ)」「若宮」と呼ばれ、両社を合わせて「宇治離宮明神(八幡宮・離宮八幡)」と総称されたといい、「上社(かみのやしろ)」と呼ばれていたことが現在の「宇治上神社」の社名の由来となっているといいます。
祭神は第15代・応神天皇(おうじんてんのう)とその皇子・莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)、そして莵道稚郎子の兄の第16代・仁徳天皇(にんとくてんのう)の3柱。
このうち「菟道稚郎子尊(うじのわきいらつこのみこと)」は「日本書紀」によると、幼い頃から聡明で父・応神天皇にも寵愛され一時は皇太子に立てられましたが、儒教の思想を学んでいたことからのちに仁徳天皇となる異母兄・大鷦鷯(おおさざき)皇子を差し置いて皇位を譲り受けることを望まず、父・応神天皇の崩御後に兄との間で互いに皇位の譲り合いとなり、3年の皇位空白期間が生じた後、兄に皇位を譲るべく宇治川に入水し自ら命を断ったという美談で知られている悲運の皇太子です。
そして神社のある場所は「山城国風土記」に見られる菟道稚郎子命の離宮「桐原日桁宮(きりはらのひけたのみや)(菟道宮(うじのみや))」のあった旧跡地と伝わり、皇子の没後に兄の仁徳天皇によりこの地にその神霊が祀られたのが宇治上神社のはじまりとされ、旧称の「離宮明神」もそれにちなんだものといわれています。
境内はそれほど広くはありませんが、本殿と拝殿がともに国宝に指定されるなど神社建築としての歴史的価値は非常に高く、1994年(平成6年)には清水寺や二条城などの17の寺社などとともに「古都京都の文化財」を構成する資産の一つとして、ユネスコの「世界遺産(世界文化遺産)」にも登録されています。
このうち本殿は平安後期に建てられ、現存する神社建築としては日本最古の建造物。
三棟の内殿を一列に並べて、共通の覆い屋で覆った特殊な形式「一間社流造り(いっけんしゃながれづくり)」で、左右の社殿が大きく中央の社殿が小さいのが特徴です。
また拝殿は宇治離宮の遺構といわれ、鎌倉時代の優れた寝殿造の住宅建築様式を伝えるものとして重要です。
明確な建立時期については歴史的な史料に乏しいことから長らく不明でしたが、2004年(平成16年)2月の奈良文化財研究所や宇治市などによって行われた伐採され使用された木材の年輪年代測定調査で、本殿は1060年(康平3年)、拝殿は1215年(建保3年)頃に建立されたものと推定されました。
境内にはその他に鎌倉期に建てられた春日神社などの摂社のほか、「宇治七名水」の一つ「桐原水」があり、このうち「桐原水」は他の六名水が枯れてしまった中で現在唯一残っている名水です。
現在でも「宇治茶」の産地として有名な宇治ですが、室町時代には1564年に「宇治七名園」が成立するなど特に栄えたといい、これに伴い茶の栽培に欠かせない水についても「宇治七名水」が選定されたといいます。