京都府宇治市宇治東内、京阪宇治駅のすぐ南側、宇治市の中心部を流れる宇治川に架かる橋。
滋賀県にある「瀬田唐橋」や、今は現存しない「山崎橋」とともに「日本三古橋」の一つに数えられている歴史ある橋です。
宇治橋架橋の由来は、1791年に橋の東詰近くにある放生院(橋寺)にて発見された現存する最古級の石碑で重要文化財にも指定されている「宇治橋断碑(うじばしだんぴ)」に刻まれています。
それによれば流路の変化などにより架設位置は同じではないと考えられるものの、飛鳥時代の646年(大化2年)に大和国(奈良県)の元興寺の僧・道登(どうと)によって最初に架けられたと伝えられています。
宇治川は、琵琶湖から流れ出た直後の上流は「瀬田川」といい、京都府に入った中流から「宇治川」と名前が変わり、京都府と大阪府の境界に近い桂川・木津川との三川合流地点からは「淀川」と名前を変え、大阪府内を流れた後、最終的には大阪湾に注ぐ川であることから、宇治は古くより奈良から山城、近江、北陸へ抜ける交通の要衝地とされ、平安遷都後も都へ出入する際の出入口として重要視されてきました。
そして「日本書紀」によれば672年(天武天皇元年)の「壬申の乱(じんしんのらん)」の際には大友皇子側の近江朝廷が大海人皇子側がこの橋を通過して兵糧を運ぼうとするのを阻止したとの記録があり、また810年(大同5年)の「薬子の変」や842年(承和9年)の「承和の変」などの非常時には警護の兵が派遣されたといいます。
更に平安後期の源平合戦の時代には「平治の乱」以降平家に仕えていた源頼政が、1180年(治承4年)5月26日に以仁王の令旨を奉じて平氏打倒の挙兵をしたものの、以仁王とともに東大寺・興福寺のある南都へと向う途中で平知盛らに追撃され、最後は宇治橋の橋板を落として平等院に籠もって抵抗したものの「埋もれ木の花咲くこともなかりしに身のなる果てぞ悲しかりける」と辞世の一首を残し自刃した「宇治平等院の戦い」の舞台にもなっています。
そして宇治は交通の要衝である一方で、794年の平安遷都以降は貴族の別荘地として人気を集めた場所で、第50代・桓武天皇皇子の明日香親王や官人・賀陽豊年、第52代・嵯峨天皇の皇子で「源氏物語」の主人公・光源氏のモデルとされている源融らもこの地に住んだといわれています。
また平安中期以降に隆盛を極めた藤原氏の時代には、1005年(寛弘2年)に創建され一門の菩提寺とされた藤原道長の浄妙寺や、その子・頼道により1052年(永承7年)に建立され現在は世界遺産となっている平等院のほか、藤原氏に関連する陵墓「宇治三十七陵」なども築かれています。
それに伴って宇治橋は、平安前期の勅撰和歌集「古今和歌集」以降の多くの歌に歌枕として詠まれたほか、紫式部の「源氏物語」などの古典文学の舞台とされたり、絵画や工芸品といった美術作品にも描かれるなど、宇治の象徴存在としても親しまれるようになりました。
中でも紫式部の「源氏物語」では全54帖のうちの最後の十帖は「宇治十帖」として宇治が舞台に設定されており、第45帖「橋姫」巻から54帖「夢浮橋」巻までには橋の物語が織り込まれており、このことから現在の橋の西詰には紫式部の像と夢浮橋之古跡の碑が建てられています。
宇治橋はしばしば戦乱や洪水による流失を繰り返しながらもその都度再建されており、主ななものとしては
1286年の奈良西大寺の僧・叡尊によるもの
1579年の織田信長によるもの
1599年の徳川家康によるもの
があるといいます。
このうち叡尊の架橋の際には工事に先立って宇治川一帯の殺生を禁じるとともに、宇治橋上流に浮島(うきしま)十三重石塔が建立されており、現在の宇治公園にはその石塔が現存しています。
また家康による再建は秀吉による伏見城の築城とともに、宇治橋下流で巨椋池に直接流れ込んでいた宇治川を、槇島堤によって分離させ宇治川の流れを北方に流れる流路にまとめる一連の大工事に伴って宇治橋が廃棄されたのを受けて再建したものです。
そして現在の宇治橋は、宇治市内の交通渋滞の解消を目指して1996年(平成8年)3月に架け替えられたもので、長さ155.4m、幅25m。
全体構造はコンクリート製ながらも、宇治橋が持つ歴史的イメージを残しつつ、周辺の景観にも調和したデザインとなるよう桧(ヒノキ)造りの高欄に青銅製の擬宝珠を冠した伝統的な形状となっており、改築の際には現存する最古の刻印「寛永13年(1636年)」のある擬宝珠の、形状と大きさに合わせたものが作られたといいます。
また橋桁を雨水から守るための「桁隠し」や橋の数m上流の流木などが橋桁に衝突するのを避けるための芥留杭(ごみとめくい)などにも木材が用いられていて、一見すると木造の橋であるかのような印象を与え、歴史的な情緒が感じられるように設計されているのが大きな特徴です。
更に上流側に張り出すように設けられた「三ノ間」は、現在は橋姫神社として橋の西側に移されたかつて橋の守り神である「橋姫」がこの場所に祀られていた名残りであるとか、豊臣秀吉が茶の湯に使う水を汲ませた場所などともいわれ、毎年10月に開催される「宇治茶まつり」ではこの逸話にちなんだ「名水汲み上げの儀」が執り行われます。
この他にも橋の東詰にある「通圓茶屋」は平安後期1160年(永暦元年)に創業され800年以上の歴史を持ち、京都の老舗番付でも西の大関に格付けされている有名なお店です。
宇治橋が江戸時代に幕府が修理・造替する公儀橋となった際には橋守も務めたといい、また狂言の「通圓」のモデルとなったほか、小説「宮本武蔵」に登場するなど歴史の中でいろいろな舞台にその姿を見せています。