京都市山科区小野にある寺院で、真言宗善通寺派の大本山。
この点、善通寺(ぜんつうじ)は真言宗の宗祖である弘法大師空海の生誕地・香川県善通寺市に建ち、和歌山県の高野山、京都府の東寺と共に「弘法大師三大霊場」の一つに数えられる寺院です。
元々は真言宗小野派でしたが、1931年(昭和6年)に善通寺派と改称の後、1941年(昭和16年)に善通寺が総本山に昇格。
隨心院は同派大本山と位置づけられ、善通寺より一宗一派を管理する管長、隨心院より学問上の指導者にあたる能化がそれぞれ選ばれています。
元々は小野流の開祖として知られ、弘法大師空海より8代目の弟子にあたる仁海(にんがい)が平安中期の991年(正暦2年)に創建した「牛皮山曼荼羅寺(ぎゅうひさんまんだらじ)」が起源。
そして第5世・増俊の代に曼荼羅寺の子房(塔頭)として建立されたのが「隨心院」でした。
その後鎌倉時代に入った1229年(寛喜元年)、東寺長者や東大寺別当も務めた第7世・親厳(1151-1236)の代の時に、後堀河天皇より皇族や摂家出身者が住持として入寺するいわゆる「門跡」の宣旨を賜り、以来「隨心院門跡」と称するようになり、以後一条家、二条家、九条家などの出身者が多く入寺することとなります。
「承久の乱」や「応仁の乱」などの兵火により焼失し、一時は各地を転々する時期もありましたが、桃山時代の1599年(慶長4年)、九条家出身の第24世・増孝の代に、曼陀羅寺の故地に本堂が再建されると、その後は九条・二条両摂家より門跡が入山し、両摂家の由緒をもって寄進・再建がなされたといいます。
本堂には本尊・如意輪観音像のほか、平安後期の仏師・定朝作の阿弥陀如来像(重文)を安置。
また本堂の前庭も有名で、美しい苔が一面に広がり「洛巽の苔寺」と称されています。
その他にも総門や築地塀や門から続く長い参道などには現代とはかけ離れた風景が残されており、時代劇のロケ地としてよく使用されているといいます。
そして梅の名所として有名で、境内にある名勝・小野梅園(おのばいえん)では、淡い薄紅色を意味する「唐棣(はねず)色」をした遅咲きの「八重紅梅」など約200本の梅の花を楽しむことができます。
また隨心院は「小野小町ゆかりの寺」としても有名です。
これは現在寺の位置する小野地区が、遣隋使となった小野妹子(おののいもこ)や、その子孫でこの世とあの世を行き来し閻魔大王の下で裁判の補佐をしていたという伝説を持つ小野篁(おののたかむら)、そして篁の孫で書家として知られる小野道風(おののとうふう)などの偉人を輩出した由緒ある家柄である小野氏の根拠地とされた土地であること。
そして平安前期の女流歌人で、世界三大美女にも挙げられるなど絶世の美女と称された小野小町(おののこまち)もその小野一族の出身であり、彼女の実家がこの地にあり、晩年にはこの地を隠棲の場所と定め余生を過ごしたといわれていることにちなんでいます。
そのため境内には、化粧をする際に使った「化粧の井戸」や小町の晩年の姿を写したとされる「卒塔婆小町座像(そとばこまちざぞう)」や、男性から送られた恋文が埋まっているという「文塚(ふみづか)」、そして小町に寄せられた文を下張りにして作られ、縁結びにご利益があるという「文張地蔵(ふみはりじぞう)立像」など、小野小町にゆかりのある史跡がいくつか残されています。
そして深草少将が小野小町を慕い99日通いつめ、あと1日を残して命を落としてしまうという「深草少将(ふかくさのしょうしょう)の百夜(ももよ)通い」の伝説も有名で、毎年3月最終日曜に開催される「はねず踊り」は二人の恋物語を題材とした踊りが、美しいはねず色の衣裳と花笠を身に着けた少女達により披露され、人気を集めています。
また近年は女性たちが内面の美を競う「ミス小野小町コンテスト」も開催され、大きな注目を浴びています。
最後に寺名について、「隨心院」が正確な漢字ですが、「随」は「隨」の略字であることから「随心院」というのも間違いではないようです。
また似た文字で「遣隋使」で知られる中国の王朝「隋」の文字もありますが、こちらも本来は「隨」であったものが宋代以降にしんにょうを無くして「隋」の字が用いられるようになったとされていることから、「隋心院」とするのもあながち間違いとは言えないようですが、一般的には使用されていないようです。