京都市山科区小野西浦、京都市の南東、山科盆地の南方に位置する小野地区にある京都市営地下鉄の東西線の駅。京都市営地下鉄PRプロジェクト「地下鉄に乗るっ」のアニメの関連キャラは「小野ミサ」と「小野陵」の兄妹。
この天「小野」は京都盆地の東山連峰を挟んで東側、京都盆地の東に並ぶような形で広がる山科盆地の南方、伏見区の醍醐と接する山科区南端に位置する地区で、古くより大和国から宇治を経て山科、近江、そして北陸へと通じる幹線道路である旧奈良街道が南北に走る交通の要衝として知られていた場所で、その地名の由来は平安時代の女流歌人・小野小町などを輩出したことで知られる一族・小野氏に由来するものです。
「小野氏」は飛鳥時代から平安時代にわたって最も栄えた氏の一つで、「古事記」の氏族系譜によると第5代・孝昭天皇(こうしょうてんのう B.C.507-B.C.393)の皇子である天足彦国押人命(あめのおしたらしひこのみこと)(天押帯日子)を祖とする古代の豪族・和珥(わに)氏の枝氏で、現在も氏神・小野神社が残る近江国滋賀郡小野村(現在の滋賀県大津市小野)周辺が発祥とされ、平安時代から朝廷の領地のあった山城国愛宕郡小野郷(現在の京都市左京区)のほか、平安時代には滋賀県の領地から交通の便が良い山科にほど近い当駅のある宇治郡小野郷(現在の京都市山科区)にも進出し勢力を有していたといいます。
飛鳥時代の推古天皇の時代に初代の遣隋使に選ばれた小野妹子(おののいもこ)を筆頭に、妹子の子で天武天皇の時代に太政官兼刑部大郷(ぎょうぶだいごう)に任命された小野毛人(おののえみし ?-677)や平安初期には閻魔大王の右腕として活躍したといわれ奇才として知られた学者・小野篁(おののたかむら 802-53)や、その孫で藤原純友の乱を平定したことで知られる小野好古(おののよしふる 884-968)、篁の孫で「三跡」と称される書の達人にして和様書道の基礎を築いたことで知られる書家・小野道風(おののとうふう 894-966)などのほか、絶世の美女にして女流歌人としても活躍した小野小町(おののこまち 825-900)など、政治や文化など各方面で活躍した偉人が数多く生まれています。
そして当駅はこのうち平安中期に創建された「隨心院」の最寄駅として知られていて、小町が晩年を過ごしたと伝わることから小野小町ゆかりの寺として知られ、小町にまつわる伝説や伝承が数多く残されているのみならず、小町が化粧したという伝説の残る「化粧井戸(けわいのいど)」や年老いた老婆の姿の小町像、「文塚」なども残されています。
行政区画としては山城国宇治郡小野村から明治以降はまず1889年(明治22年)の町村制の施行によって周辺の他の村とともに宇治郡山科村に属することとなり、その後1926年(大正15年)10月に山科村から町制施行にて「山科町」となり、更に1931年(昭和6年)4月には山科町が京都市に編入されて当初は東山区の一部でしたが、1976年(昭和51年)に山科地区が分区されて以降は「山科区」の一部として現在に至っています。
当駅はその小野地区の周辺住民の貴重な足として1997年(平成9年)10月12日に地下鉄東西線の駅の一つとして開設されました。
この点、京都における地下鉄の建設計画は1968年(昭和43年)11月、京都市が設置した諮問機関である交通対策協議会の出した答申によって開始され、1972年(昭和47年)に事業免許を取得した後、まず京都市を南北に通る烏丸線から1974年(昭和49年)に工事がスタートし、1981年(昭和56年)に北大路駅~京都駅の間で開業したのがはじまりで、その後1988年(昭和63年)6月11日に京都駅~竹田駅の間、1990年(平成2年)10月24日に北山駅~北大路駅間、そして1997年(平成9年)6月3日には国際会館駅~北山駅間が開業し現在に至っています。
一方の東西線は京都市の中心部と南東部の山科区および伏見区の醍醐地域との間の通勤・通学や京阪京津線との連絡による滋賀県大津市との都市間輸送を担う路線として、1995年(平成7年)7月31日に駅の建設工事が開始された後、1997年(平成9年)10月12日に二条駅~醍醐駅の区間が開業した後、2004年(平成16年)11月26日には六地蔵駅~醍醐駅間、そして2008年(平成20年)1月16日には二条駅~太秦天神川駅間が開業し現在に至っており、このうち当駅は1997年(平成9年)10月12日に東西線が二条駅~醍醐駅で開業したのと同時に設置されたものです。
地下2層に島式ホーム1面2線を有する地下駅で、観光スポットや史跡めぐりとしては前述の小野小町ゆかりの「隨心院」や、醍醐天皇が母親の供養のために創建し現在は門跡寺院の一つとして四季折々の草花が楽しめることでも知られる「勧修寺」の最寄駅として利用されています。
その他にも駅の東側には駅の南にある醍醐地域ともゆかりの深い醍醐天皇の陵墓である「醍醐天皇後山科陵」、また南側には有名な「本能寺の変」を起こした後、「山崎の戦い」に敗れて居城の坂本城へと戻る途中に山科で落ち武者狩りに遭い落命した「明智光秀の胴塚」があることでも知られています。
また余談になりますが、当駅のやや北側を通る「名神高速道路」の高架のある付近は1879年(明治12年)8月18日に初代「山科駅」が設置された場所であり、現在「旧東海道線 山科駅跡」の石碑と、旧東海道線のルートを利用して作られた名神高速道路の起工式をした場所でもあることから「日本で最初の高速道路 名神起工の地」の記念碑とそれらを紹介する説明版が建てられています。
この点、東海道本線は現在は京都駅から大津までほぼ最短距離で東へと進んでいくルート、すなわち東山トンネルから現在の山科駅を経由し新逢坂山トンネル、そして大津駅を経たルートとなっており、それに合わせて1921年(大正10年)に3kmほど北の現在の位置に新たに山科駅が設置されていますが、東海道本線の京都~大津間は古くはまだトンネルを掘る技術が低かったことからいったん南へと迂回するルートで作られることとなりました。
そのためそのルートは現在の路線(新東海道本線)とは異なり京都駅から南の稲荷駅へいったん下がった後に東へと転じ、山科駅から大谷駅、そして馬場駅(現在の膳所駅)を結ぶこととなり、山科駅も現在よりもずっと南にある当駅やや北の「勧修寺」の境内北西の京阪バス「蚊ケ瀬」バス停付近に設置されていたといいます。