京都市伏見区京町3丁目、伏見の中心部でメインストリートである大手筋に形成されている伏見大手筋商店街の東端にある京阪本線の駅。
現在の「大手筋」を中心とした伏見の街づくりは1594年(文禄3年)、天下人となった豊臣秀吉が、晩年の居城として桃山丘陵に「伏見城」を築城した際に大手広庭を形成。そこに城の表門として大手門を築き、この門へ出入りする通りとして西側に通りを造成したのがはじまりです。
この点、1728年(享保13年)に作成された紀伊郡伏見御城図にも「大手広庭の前、大手筋通と云う」との記載が見られ、伏見の城下町はこの大手筋を中心にして造られたといい、碁盤の目に街路が整備され、周辺には大名屋敷が立ち並んでいたといい、現在も伏見・桃山地区の町名にその名残りをとどめています。
秀吉の没後に天下分け目の「関ヶ原の戦い」で徳川家康が勝利し江戸幕府が成立した後も、当初は伏見は日本最大の城下町であり、政治の中心であり続け、初代・家康から3代・徳川家光までは伏見城で将軍宣下式が行われており、また1601年(慶長6年)5月には通用銀の全国統一を図るため、この地に日本で初めての銀の鋳造・発行所である「銀座」が設けられています。
しかし政治の中心は徐々に江戸へと移り、伏見の地には江戸幕府によって伏見奉行所が置かれ、伏見の民政や御所の警護、西国大名の監視などを担当することとなり、伏見城も京都には二条城が建築されたため、1619年(元和5年)に「一国一城令」の趣旨から2つの城の維持は困難として伏見城の廃城が決定します。
そして城の跡地一帯には桃が植えられ、このことから一帯は「伏見桃山」と呼ばれるようになったといいます。
このようにして政治の中心からは遠ざかったものの、明治初期までは京都と大阪を結ぶ淀川水運の要衝であったことから三十石船の行き交う港町や宿場町として繁栄を続け、幕末には坂本龍馬が寺田屋を定宿にするなど、諸藩の志士が活躍したことでも知られています。
また「伏水」とも表記されるように伏見の地は名水の地としても知られ、豊富な地下水を利用して日本酒造りが盛んに行われ、兵庫県の灘とともに日本有数の酒どころとして知られており、現在も多くの酒蔵が酒造りに励んでいて、酒蔵の立ち並ぶ風情ある街並みを目にすることもできます。
その伏見のメインストリートである大手筋は伏見区の市街地の東西を通る主要道路で、現在のJR奈良線の桃山駅より国道1号線までの間の約2.4kmの「大手筋通」がこれにあたり、西側に東西長さ約400mのアーケード街の通りに114店舗が軒を連ねる「伏見大手筋商店街」があり、その東出入口にあるのが当駅で、そこから近鉄桃山御陵前駅、旧伏見城大手門と伝えられる御香宮神社の表門、JR桃山駅を経て、東にある明治天皇の桃山御陵への参道へと続いていきます。
当駅は1910年4月15日の京阪電気鉄道(京阪)の京阪本線の開業に合わせて「伏見駅」として設置されたのがはじまりで、その後1915年(大正4年)11月に「伏見桃山駅」に改称された後、1943年(昭和18年)10月に戦時中の企業統合政策によって、京阪電気鉄道が阪神急行電鉄(現在の阪急)と合併するといったんは阪急の駅となりましたが、戦後の1949年(昭和24年)12月に京阪神急行電鉄から京阪電気鉄道が再び分離独立すると、再び京阪の駅となり現在に至っています。
相対式2面2線のホームを持つ地平駅で、出入口は駅南側を通る油掛通側にはなく、北側の大手筋通の東側に設けられていて、改札とコンコースは地下に設けられて2つのホームを行き来することができ、また商店街のアーケードの入口がちょうど京阪の踏切となっています。
駅の北東に伏見区役所もあり、歴史的に見ても伏見の街の中心地の駅といって間違いない当駅ですが、1916年(大正5年)の急行設定時に急行停車駅になったものの、京阪宇治線との乗り換えが当駅でなく南にある中書島駅となったことや、近鉄京都線との接続駅だったものが第二次世界大戦後に北の丹波橋駅が京阪と近鉄の共同使用駅となり相互乗り入れが開始されたことから、現在は急行通過駅となっています。
このため駅の利用客では丹波橋駅や中書島駅には及ばないものの、駅周辺は伏見の中心市街地として大いに賑わいを見せる場所であり、また駅前の大手筋商店街をはじめ、東に鎮座する御香宮神社や乃木神社、明治天皇伏見桃山陵などへのアクセスにも便利な駅です。
その他にも駅の南西側には中書島駅にかけて寺田屋や月桂冠大倉記念館や伏見の酒蔵の街並み、伏見十石舟・三十石船乗船場、弁財天長建寺などの伏見の名所旧跡が数多くあることから、中書島駅をスタートに名所めぐりをし、伏見大手筋商店街を通って伏見桃山駅で帰りの電車に乗る、あるいはその逆といった形での電車の利用法もおすすめです。