京都市伏見区桃山町古城山(こじょうさん)、近鉄桃山御陵前駅より東へ約1.5km、京阪桃山南口駅より北へ約500、伏見の中心部より東に位置し街を見下ろせる「桃山丘陵」の上にある第122代・明治天皇(めいじてんのう 1852-1912)の陵墓。
嘉永5年(1852年)9月22日(新暦では11月3日)、孝明天皇(こうめいてんのう 1831-67)の第2皇子として生まれ、幼名は祐宮(さちのみや)、御名は睦仁(むつひと)。
また母は権大納言・中山忠能(なかやまただやす 1809-88)の娘・中山慶子(なかやまよしこ 1836-1907)で、京都の中山邸で誕生した後、孝明天皇の急死によって1867年(慶応3年)1月9日にわずか14歳で践祚(せんそ)、すなわち天皇の位を継承し、関白・二条斉敬(にじょうなりゆき 1816-78)が摂政を務めました。
ちなみに斉敬は日本史上における最後の関白であり、また人臣としては最後の摂政でもある人物です(日本国憲法および現在の皇室典範でも摂政の制度が規定されており、2020年現在最後の摂政は昭和天皇)。
その後、慶応3年(1867年)10月14日に江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜によって政権を朝廷に返上する「大政奉還」が行われたのを受けて、同年12月9日には討幕派の主導で「王政復古の大号令」を発せられ、天皇親政の下に明治新政府が成立。
更に慶応4年(1868年)1月の「鳥羽伏見の戦い」を皮切りに翌年にかけて勃発した「戊辰戦争」においては、東征を命じて旧幕府勢力を打ち果たしました。
この間、新しい政治のやり方を示すため同年3月14日には、紫宸殿にて天地の神々である天神地祇(てんしんちぎ)を祀るとともに「五箇条の御誓文」を発布して新政府の基本方針を宣言。
開国進取・富国強兵の国是に版籍奉還、廃藩置県などを断行し、封建制度を廃するとともに新しい政治制度を採用し、中央集権体制の確立に努めたほか、同年7月17日には江戸が東京へと改称、また同年9月8日には正式な即位に伴って年号が「明治」と改元され、更に10月13日には明治天皇が京都から東京に移って旧江戸城を皇居とする事実上の遷都「東京奠都(とうきょうてんと)」も行われています。
欧米諸国の制度・文化を見習い政治・経済・外交・軍事・社会・教育その他の改革を速やかに推し進めるとともに、内閣制度や大日本帝国憲法や皇室典範の制定、教育勅語などを発布して天皇を中心とする立憲君主国家の確立に貢献。
わずか半世紀の間に近代的な国家への脱皮を図ることに成功し、また日清・日露の両戦争に戦勝し、1911年(明治44年)には長年の懸案事項であった条約改正を成し遂げ、文字通り世界の列強の一つに数えられることになったのです。
1912年(明治45年)7月30日、東京の宮城・明治宮殿にて持病の糖尿病が悪化して59歳で崩御。9月13日夜に東京青山、現在の神宮外苑の地に設けられた葬場殿において大喪儀が行われた後、柩を列車にて京都南郊の伏見に遷し、15日未明に埋葬を終え、陵号は「伏見桃山陵」と定められました。
この点、次代・大正天皇以降の天皇は東京の八王子に埋葬されており、現在のところ京都における最後の天皇陵となっています。
伏見桃山の地に陵所が定められたのは、京都で生まれ京都御所で育った明治天皇の遺詔によるものといわれていて、1912年(大正元年)8月6日に陵所を撰定の後、9月11日に陵墓の工事が完了し、19日に地鎮祭が行われたといいます。
元々当地は豊臣秀吉が築いた伏見城の本丸があった場所で、陵墓は天守閣の南側に設けられ、東西127m、南北155m、形状は上円下方墳で各三段に築かれ南面し、全体が礫石(さざれ石)で覆われており、古式に則る形で天智天皇陵をモデルとしつつも、後ろが高く前の開けた斜面に立地していることから舒明天皇陵と似通った形状となっているといいます。
参道は南側と東西の3か所にあり、このうち陵墓の正面にあたる南参道は陵の南側にある京阪桃山南口駅がもっとも近く、230段の石段を上がり参拝することになります。
一方、西側にある京阪伏見桃山駅や近鉄桃山御陵前駅、JR桃山駅方面からアクセスする場合は、伏見のメインストリートである大手筋をまっすぐ東へ進んだ後、杉並木が印象的な西参道を進んでいくことになりますが、西参道の分岐から南参道へと続く迂回路を経て正面南参道から参拝することも可能となっています。
また東側の名護屋丸跡には一条忠香(いちじょうただか 1812-63)の娘・一条美子(はるこ)こと、明治天皇妃の昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう 1849-1914)の伏見桃山東陵(ふしみのももやまのひがしのみささぎ)が隣接する形で整備されているほか、平安京に都を遷した第50代・桓武天皇の柏原陵も近くにあり、現在一帯は「桃山陵墓地」として宮内庁の管理地となっており、その他にも関連スポットとしては南側に明治天皇の崩御に伴って殉死した将軍・乃木希典を祀る乃木神社が鎮座しています。
陵墓ができた当初から全国から大勢の国民が参拝に訪れ、とりわけ昭和初期には日本の軍国化の動きと連動して「明治天皇桃山御陵参拝」が日本中で行われるようになり、子供たちの修学旅行においても伊勢神宮・橿原神宮とともに定番コースにとなっていたといいます。
JR桃山駅の「御陵口」と呼ばれる改札の前から玉砂利を敷き詰めた広場が広がり、その先には日の丸が掲げられ明治天皇や乃木将軍に関連した土産物を扱う店が並んでいたといい、1932年(昭和7年)の1月の桃山御陵参拝人数は約15万人を数えたといいますが、第二次世界大戦後は観光客も少なくなるとともに参道の商店街も消え、造営後100年以上が経過した現在は御陵の森と呼ばれる豊かな森林に囲まれた敷地内は静かで神秘的な空気が漂い、地元の人々からは「御陵さん」と呼ばれ、散歩コースとして親しまれています。
ちなみに1920年(大正9年)11月1日に創建された「明治神宮」は明治天皇および昭憲皇太后が祭神として祀る神社ですが、これは1912年(明治45年)に明治天皇が、1914年(大正3年)に昭憲皇太后が崩御された後、どちらも京都の伏見に陵墓が造られた一方で、国民の間からその神霊を東京にも祀り、遺徳を慕い敬仰したいとの気運が高まりゆかりの深い代々木の地に創建されたものです。
新年の初詣においては例年日本一の参拝者数を数える神社で、敷地内には全国11万人もの人々の奉仕によって樹木が植林されて誕生した代々木の森があるほか、結婚式とセレモニー、パーティー会場の明治記念館、また外苑には国立競技場、聖徳記念絵画館、神宮球場などのスポーツ・文化施設も設置されていて市民憩いの場となっています。