京都市伏見区下油掛町、伏見大手筋商店街の南側近くにある浄土宗知恩院派の寺院。
山号は油懸山(あぶらかけざん)で、正式には「地蔵院西岸寺」といいます。
安土桃山時代の1590年(天正18年)、僧の岸誉雲海(うんかい)によって創建され、現在の本堂は2008年(平成20年)に再建されたものです。
ちなみに西岸寺の創建以前からこの地には寺院があったようですが、その詳細については不明な点が多いものの、1290年(正徳3年)に不思議な霊験があったことにより、1317年(文保元年)に伏見院の離宮跡(西岸寺の現在地)および地蔵院の称号を賜ったといいます。
鎌倉時代の第92代・伏見天皇(ふしみてんのう 1265-1317)や桃山時代の第106代・正親町天皇(おおぎまちてんのう 1517-1593)の信仰が篤かったといい、当時は広大な敷地があり、その頃から役行者像や弘法大師像を祀っていたと伝えられています。
そして何といってもこの寺院は境内の地蔵堂にある「油懸地蔵(あぶらかけじぞう)」と通称される石仏の地蔵尊が有名で、一帯の町名の「下油掛町」もこの地蔵菩薩に由来しているといいます。
「油懸地蔵」は西岸寺の創建より古くからこの地に祀られていたと考えられていて、寺伝によれば、昔山崎(京都府乙訓郡大山崎町)の油商人が、この地蔵菩薩の前で転んで油桶を壊しほとんどの油を流してしまいます。
その当時、油は非常に貴重なものだったので大いに落胆しますが、残った油を地蔵菩薩に注いで供養して行商に出かけたところ、その後大いに商売繁盛し店は栄えたといい、それ以来この地蔵菩薩に油をかけて祈願すると願いが叶うとして信仰を集めるようになり、現在でも油をかけ参拝する人が絶えないといいます。
この油懸地蔵は高さ1.7m、幅80cmの花崗岩の表面に像高1.27mの立像を立ち姿が浮き出るように厚肉彫りで彫刻したもので、右手に錫杖、左手に宝珠を持っています。
そして顔が美しくなで肩、大きく胸の開いた彫法で錫の部分の大きく立派なことなどから、鎌倉時代の作と考えられていますが、昔から油を掛けて祈願されて続けているため、黒光りするほどに表面に油が厚く積もっており、刻まれている銘文が読み取れないといいます。
なお地蔵堂は幕末の1868年(慶応4年)の「鳥羽・伏見の戦い」で焼失した後、1894年(明治27年)に再建され、現在のものはその後1978年(昭和53年)に再び建立されたものだといいます。
再建の際に京都府が地蔵菩薩の調査を申し入れたものの、檀家の人々が信仰の積み重ねである油層を削り取られてはかなわないと断ったというエピソードも残されているほど、地元では厚く信仰されています。
ちなみにお地蔵さんに油をかけて祈願をすれば願いが成就するという「油掛地蔵」は京都市内に3か所、伏見の他に嵯峨と梅津にもあり、いずれも古くから信仰を集めています。
①伏見の油懸地蔵(伏見区下油掛町) 西岸寺のもの
②嵯峨の油掛地蔵(右京区嵯峨天竜寺油掛町)
③梅津の油掛地蔵(右京区梅津中村町) 長福寺の門前にあるものの現役を引退した形で格子の中に納まっている
また地蔵堂の北側には、「我衣(わがきぬ)に 伏見(ふしみ)の桃の 雫(しづく)せよ」と自然石に刻まれた「芭蕉句碑」がありますが、「野ざらし紀行」によるとこの句は1685年(貞享2年)に同門と伝えられる当寺の第3世住職・任口(にんく/にんこう ?-1686)(宝誉)の高徳を慕って寺を訪ねた芭蕉が、再会の喜びを当時の伏見の名物であった桃に事寄せて詠んだもので、石碑は1805年(文化2年)に建設されました。
任口は松江重頼(まつえしげより 1602-80)(維舟)門下の俳人で法名は如羊と称し、西山宗因(にしやまそういん 1605-82)に連歌を、松江重頼(維舟)から俳諧を学んだといいます。
晩年は談林の長老として慕われていたため西岸寺を訪れる客は多く、「好色一代男」をはじめとする浮世草子の作者として知られる井原西鶴(いはらさいかく 1642-93)をはじめ宝井其角(たからいきかく 1661-1707)、松山玖也(まつやまきゅうや -1676)、北村季吟(きたむらきぎん 1625-1705)、伊勢村意朔(いせむらいさく)ら当時の著名な俳人も訪れたようです。
なお任口は1686年(貞享3年)に81歳で死去し西岸寺の墓地に祀られています。