京都市伏見区瀬戸物町、京阪伏見桃山駅から大手筋商店街を通って西へ3筋目を北へ曲がってすぐの所にある浄土宗の寺院。
正式名は「宝海山法然院源空寺」で、「法然上人二十五霊場」の第15番札所として知られています。
寺伝によれば、鎌倉時代に蓮乗房忍空(にんくう)により木幡の里、現在の京都府宇治市炭山(すみやま)(現在の宇治橋の北東、木幡駅の東)の地に天台宗の「光堂寺」として創建されたのがはじまり。
忍空は元々は滋賀県大津市にある現在の天台寺門宗総本山・三井寺(園城寺)(みいでら(おんじょうじ))の碩徳公胤(こういん 1145-1216)の弟子で、当初は法然の「選択集」を非難していましたが、後に後悔して木幡の里に隠れ住み、深く法然上人の徳風を仰ぎ、特に浄土の教義を信じ、一草庵を結んで専修念仏を行じていたといいます。
1195年(建久6年)3月、法然が63歳の時に奈良の大仏殿の落慶供養にて導師を務めた際にその帰途でこの地に迎えられて人々を教化。それを聞いた木幡の里の人々は涙を流して念仏の教えに帰依したといい、その別れを惜しんで御影を安置することを請うたところ、その願いに感じ入った法然はかねて書き写した法門や、法語の数通をもって「張貫きの御影像」を造りこれを忍空に与えたといいます。
そこで忍空は草庵を念仏道場に改め、御影を安置して法然を仰いで開山とし、法然の正式な僧名である「法然房源空」から寺名を「源空寺」としました。
その後江戸初期の慶長年間(1595-1615)(1612年(慶長17年)とも)、江戸の幡随意(ばんずいい)が九州の異教徒教化の帰途、法然の御影像を拝した際にあまりにもこの地が辺鄙なのを歎き、一切衆生の結縁のために現在地に移すことを願い出たといい、これを受けて2代将軍・徳川秀忠、3代将軍・徳川家光によって現在の伏見の地に移されました。またこの際には時の大御所・徳川家康も桃山城内の一宇を寄進したと伝えられています。
「本堂」には本尊・円光大師座像を安置。
また入口の2層からなる「山門」は伏見城の遺構の一つで、伏見城の廃城の際にその一部を移築し、寺風の鐘楼門に改修し再建されたもの。
そして山門の階下両脇には、朝日大黒天像や即一六躰地蔵尊、および愛染明王像が祀られています。
このうち山門左側に祀られている「朝日大黒天像」は豊臣秀吉の持念仏で天下統一の大福を授けたといわれ、元々は伏見城の巽櫓(たつみやぐら)にあったものを一時京町大黒町に預けられた後、当寺に移したもので、「出世大黒天」とも呼ばれその霊験にあやかろうとする参拝者の人気を集めています。