江戸中期の1764年(明和元年)、讃岐出身の初代・三郎兵衛が創業し、高級魚専門の料理屋を構えたのがはじまり。
初代・三郎兵衛が鮮魚の料理に長けたことから、屋号に魚を頂き「魚三楼(うおさぶろう)」としたといいます。
創業以来、京の南の玄関口で当時は京と大阪を結ぶ淀川水運の中継地であり、また川陸交通の要衝でもあった伏見港に揚がる瀬戸内の鮮魚や京野菜、そして敷地内の井戸から汲み上げた豊かな伏見の銘水「伏水」を使った京料理のお店として歴史を重ね、各藩の大名屋敷の料理方なども務めたといいます。
そして幕末の1868年(慶応4年)1月、薩長連合を中心とした新政府軍と幕府軍が衝突した「鳥羽伏見の戦い」では、その伏見はその戦いの中心地となります。
1867年(慶応3年)に江戸幕府が統治権を朝廷に返上した「大政奉還」の後、薩長が中心となり幕府を廃止して天皇の下に新たな職を置いて有力な藩が共同で政治を行うといういわゆる「王政復古の大号令」が発令されます。
ところが朝廷側が決定した第15代将軍・徳川慶喜に対する辞官納地、すなわち一切の官職と幕府領の返上を要求する措置に反発した幕府側は京へと攻め上がることとなり、新政府軍はこれを鳥羽と伏見で迎え撃ち一大市街戦が展開されることとなり、結果的には「錦の御旗」を掲げた新政府軍の圧勝に終わり、幕府軍は敗れて淀・大阪方面へ退却。その後の江戸無血開城と明治新政府の樹立へとつながっていくこととなります。
この合戦の際には御香宮神社に駐屯する官軍・薩摩兵の兵糧炊き出しを担当し台所番を勤めたといい、また戦乱で伏見の街は焼け野原となりますが、幸いなことに魚三楼は焼失を免れました。
そして戦いの中で魚三楼の前を通る京町通に布陣した幕府方の新選組が、銃砲で武装した薩摩藩軍へ白刃で斬り込んだとも伝わり、また魚三楼は新政府軍が陣営を置いた御香宮神社と、幕府軍が陣営を置いた伏見奉行所のちょうど中間の位置にあたる激戦の中心地であったため、それ物語るように店の玄関横の表の格子には当時の銃撃戦の弾痕がくっきりと残されていて、今も大切に保存されているなど、歴史上の大事件の舞台としてもその名を留めています。
毎朝中央市場や明石の魚屋から運ばれてくる鯛は一番良い部分しか使わない、料理に使う水は、お茶からご飯、出汁まで、全て魚三楼の井戸から汲み上げられる伏見の銘水「御香水」を使用するなどの伝統を守り、京都を代表する酒処である伏見の地酒と相性の良い旬の京野菜を使った伝統ある京料理を提供。
近年ではミシュランの1つ星を獲得するなど、伏見が誇る京料理の老舗の名店としてその名を広く知られています。
数寄屋造りの店内にある客室はすべて個室で、季節の花や掛軸をしつらえたゆったりとした造りのお座敷となっており、広大な庭園を望む「一階席」はどの部屋からも四季折々の姿を見せてくれる「中庭」を堪能できるといい、また「二階席」は80名までくつろげる大広間が用意され、法事や慶事に最適な部屋となっています。
料理は長きにわたって愛され続けている看板メニューともいえる「会席料理」のほか、「季節膳」や昼限定の「花籠御膳」があり、また大手百貨店などでは「和風おせち」の受付や店の味が気軽に楽しめるよう「鱧茶漬け詰合せ」や「ちりめん山椒」のセットなどの通信販売も行っています。
その他にも京都などで開催される行事やイベントに出店することもあり、中でも注目すべきなのが毎年12月に開催される明治期から始まり100年以上の歴史を有する京料理の有名老舗が一堂に集う「京料理展示大会」で、展示ブースが設けられるとともに料理人が京料理教室の講師として登壇することもあります。
その他にも2月下旬に京都タカシマヤで開催される「京の味ごちそう展」や3月に西本願寺で開催される「京都・和食の祭典」などにも出店することがあるほか、2月に京都市内で開催される「京都マラソン」のおこしやす広場にも毎年のように出店していて、老舗の本格的な和食の味が気軽に楽しめることもあって人気を集めています。