京都市伏見区伏見にある、坂本龍馬ゆかりの幕末資料館および旅館も兼ねる建造物。
「伏見」は古くからの京都と大坂を移動する際の水上交通の要衝で、とりわけ江戸時代には淀川上をたくさんの船が行き交い大変賑わっていたといい、京橋付近は淀川水運の京都側の発着地だった場所でした。
寺田屋はその伏見で1597年(慶長2年)頃に伊助という百姓が、「南浜」という船着場の前に船宿を開いたのがはじまり。
「寺田屋」の屋号は伊助の出身地であった寺田村からと伝わっています。
伏見において醍醐屋、水六など並ぶ大きな船宿として繁盛し、幕末には薩摩藩の定宿とされ、京へ向かう勤皇・倒幕派の志士たちの足場となり、あの坂本龍馬もこの宿を京での定宿として利用していました。
そんな維新の志士たちを庇護し、その偉業を助けたことで知られる女性が6代目伊助の妻・お登勢。
「寺田屋と言えばお登勢」と言われるほどの女性で、坂本龍馬も「この人、学問ある女で人物也 」と評していたといいます。
また寺田屋といえば、幕末に発生した2つの「寺田屋事件(てらだやじけん)」で有名です。
まず1度目の1862年5月21日(文久2年4月23日)深夜に発生した「寺田屋騒動」は、有馬新七(1825~62)ら薩摩藩藩士の急進派(尊王攘夷派)35名が、関白・九条尚忠(1798~1871)と京都所司代・酒井忠義の殺害を計画して集結したため、公武合体を目指していた薩摩藩主の父・島津久光の命により鎮圧された事件。
次に2度目は1866年(慶応2年)正月21日、坂本龍馬(1835~67)が伏見奉行所の捕方に襲われた事件で、この時は妻・お龍の機転により難を逃れています。
その後1868年(慶応4年1月3日)の「鳥羽伏見の戦い」で一帯は激戦地となり、かつての建物は罹災し焼失。
現在の建物はかつての建物に隣接する西側に、当時の様子を再現する形で明治期に再建されたもので、坂本龍馬や幕末の志士たちの資料を数多く展示する博物館となっており、また旅館も兼ねていて宿泊することも可能です。
2階建の木造建築の建物で、入口には墨文字で「寺田屋」と書かれた大きな提灯が掛かり、坂本龍馬の表札も掲げられているほか、寺田屋事件当時の雰囲気を偲ばせる刀傷や弾痕、龍馬襲撃事件でお龍が幕吏に気づいた風呂場、お龍が風呂を飛び出して2階の龍馬に急を告げに駆け上がったとされる階段などが伝わっています。
そして隣接するかつての建物があった場所は史跡庭園となっており、園内には寺田屋騒動で戦死した倒幕派薩摩藩士の9人の烈士を記念した「薩摩九烈士碑」の石碑や、明治天皇の妃・昭憲皇太后が、龍馬の夢を見たことから与えられた御下賜金で建立された「恩賜記念碑」のほか、龍馬の銅像も建てられています。
ちなみに薩摩九烈士碑には旧宅の跡であることを示す遺址の文字も見られます。
また現在の寺田屋の正面向かいには「宇治川派流」と呼ばれる川が流れていて、枝垂れ柳の風情のある河岸には公園と、観光用の「三十石船乗り場」が整備され、周辺の伏見の酒蔵など風情のある景色を満喫できるのでおすすめです。
更に川にかかる橋からは「竜馬通り商店街」が北へと伸びており、龍馬など幕末関連のグッズも多数販売されています。