「片波川源流域」は京都市右京区京北町(上黒田町・下黒田町・宮町)および左京区広河原菅原町、京北町の北東部にある片波川の源流域に広がる芦生杉(アシウスギ)の群落。
周山より国道477号を北東へ進み、右京区と左京区に跨る桂川由良川の上流、片波川の東谷西谷に挟まれた尾根の上部が該当地域となっています。
京都北山は古くから西日本でも有数の木材の供給元として多くの杉が栽培され、平安京遷都の頃に山国・黒田地区の12か村が御杣御料(みそまごりょう)となり、片波村もこれに含まれ、長岡京や平安京の造営の際や御所の炎上の際には膨大な量の木材がこの地から建材として供給された記録が残っているといいます。
そして鎌倉・南北朝時代に入ると林業技術の発達から同地では台杉・櫓杉(やぐら杉とも呼ばれる育苗の技法が盛んに行われるようになります。
これは急峻な山々が連なり平地が少なく森林面積が限られる北山の地で編み出された独特な育林の方法で、一つの株を一つの森のようにしてそこから数十から百本以上もの幹を育てていく方法で、これにより植林の回数は減らしつつも1本の木から多くの木材が採れるようになり、また収穫のサイクルが早まるとともに、緻密な木材を作ることができるようになったといいます。樹形が崩れずに真っ直ぐに伸びる杉の木だからこそできる仕立てでもありました。
しかしその後は天然杉である芦生杉(アシウスギ)から品種改良されたシロスギの登場により台杉に代わり挿し木による一本植えが中心となったことで台杉仕立ては見捨てられることとなり、巨樹となって今日まで残されたと考えられていて、また明治時代に入った1869(明治2年)には御料地の解体に伴って民間へと払い下げられて私有地となり、片波の森は地域の人々によって利用されることとなりますが、南北朝の昔から手つかずのままであった台杉仕立ての杉については、巨大になり過ぎたことが逆に用材としての価値を下げ、伐採の手から逃れることとなり、幸いにもそのままの状態で残されることになったといわれています。
そして片波源流域に残されたこれらの芦生杉(アシウスギ)の台杉群は雪の重みで下枝が地面に着き発根して幹となり、新しい独立した木に生長するいわゆる伏条更新(ふくじょうこうしん)によって繁殖して「伏条台杉(ふくじょうだいすぎ)群」を構成。
屋久島の縄文杉クラスの幹周15.2mの「平安杉」をはじめ、樹齢300~800年のものが数多く林立し、これらの貴重な伏条台杉群を保護するため、1999年(平成11年)には「片波川源流域伏条台杉群」として京都府天然記念物の指定地域とされています。
またこの伏条台杉群をはじめ、一帯は自然度の高い貴重な植生を残す府内でも数少ない地域となっていることから、「京都府自然環境保全地域」の第1号に指定されて保護が図られるようになっていて、保全地域の全106.63haのうち、3分の1にあたる約35.60haが「特別地区・野生動植物保護地区」となっていて、中でも稜線部を中心としたホンシャクナゲやヒメコマツ、ヒノキなどの針葉樹からなる群落は、国内でも有数の規模と見られ、学術的にも貴重なものだといいますが、一般には立入が禁止されているエリアとなっています。
ちなみに木材の生産用としては姿を消した台杉ですが、1本の根株から複数の幹が立ち上がるその特異な形態は、見た目の美しさから多くの寺社や個人宅などの庭園などに庭木として植えられることもあるといい、「片波の伏条台杉」も貴重性もさることながら、その樹形の美しさから「森の美術館」と言われています。
そしてこの「片波の伏条台杉」は現在は地域内の保護と入山にあたっての安全のため、原則地元ガイドの随伴あるいは片波自然観察インストラクターの同行するガイドウォークに参加することで見学ができるようになっています。
一方「廃村八丁(はいそんはっちょう)」は、京都市右京区京北上弓削町、周山バスターミナルより国道477号を東へ進み北上、片波川源流に向けて更に北上した標高881mの品谷山の南部にかつて存在した集落「弓削八丁(ゆげはっちょう)」の跡地。
かつて八丁一帯は豊富な山林資源に恵まれていたことから、14世紀初頭から隣り合う知井庄と弓削本郷の両村での境界争いが絶えない地であったといい、江戸時代には民間人の立ち入りを禁じる御留山(おとめやま)とされたこともあったといいます。
その後、明治維新を迎えると元会津藩士・原惣兵衛が八丁の山林とその収益を各戸均等に配分する共産制度的な手法を取り入れるなど、村の取りまとめに尽力した結果、1876年(明治9年)には八丁山の5戸5家族の所有権が京都府により認められ、2年後の1878年(明治11年)に上弓削村と佐々里村との間に境界線が引かれることとなり、鎌倉期から600年にわたる紛争は解決に至ります。
そして1900年(明治33年)には分校である分教場も設置されましたが、その後近代化に伴って経済的に裕福になったことに加え、積雪時に交通網が寸断され陸の孤島となる立地から離村者が出始め、1924年(大正13年)頃には3戸に減り、分教場も廃止。
更に昭和初期の1933年(昭和8年)から翌年にかけ3mを超える大雪によって大きな被害が出たのをきっかけに残る3戸も移転を決意し、1941年(昭和16年)(昭和11年とも)に最後の1家族が離村したことで廃村となりました。
廃村後は一般に「廃村八丁」または「八丁廃村」などと呼ばれ、住民はいなくなりましたが、豊かな自然に恵まれた地であることからもっぱらキャンプやハイキングのコースとなっているようです。
ちなみに廃屋はほとんど解体されたか長い時間をかけて老朽化が進んだため倒壊してしまっており、現在は石垣跡などが残されているほか、「八丁小屋」と呼ばれる三角屋根のピラミッド形の山小屋が建てられていて、山歩きのシーズンには「廃村八丁の会」の協力の下で管理人が滞在し周辺一帯の手入れを行っているといいます。
廃村八丁へ向かうルートとしては、まず「広河原」の手前、廃村八丁東側の府道38号線沿いの京都市左京区広河原菅原町の「菅原集落」にある「菅原」バス停でバスを降り、西へ進んで「広河原スキー場」の裏山、ホトケ谷を経て「ダンノ峠」と呼ばれる峠へと出ます。
ダンノ峠は分岐になっており、ここからは主に2パターン、北へ進みダンノ峠の出合から品谷山、品谷峠、トラゴシ峠を経由して廃村八丁西側に出るコース、または同志社大研究室、刑部谷を経由して廃村八丁東側へ出るコースがあります。
この点、一般的なハイキングでは往路で「品谷山」を経るコースを選択して廃村八丁西側に出て、廃村八丁東側から「刑部谷」を経てダンノ峠へと戻るルートが、道標の見落としも少なく遭難しにくいといいます。
そしてこの菅原集落からの山歩きの場合、廃村八丁まで徒歩で約2時間30分、一周すると賞味5~6時間のハイキングコースになります。
また車の場合は、廃村八丁北側の府道38号線沿いの「佐々里峠」に駐車し、登山口から南へ進み、ダンノ峠の出合から品谷山~廃村八丁~刑部谷~ダンノ峠~ダンノ峠出合~佐々里峠というコースを選択するのが一般的なようです。