京都市右京区京北井戸町、京都市の北西、郊外の京北地区の緑豊かな山里にある臨済宗天龍寺派に属する禅宗寺院。
本尊は釈迦如来。
正式名は「大雄名山万寿常照皇寺(だいおうめいざん まんじゅじょうしょうこうじ)」で、かつては常照寺(じょうしょうじ)と呼ばれていました。
南北朝時代に北朝の初代の天皇となった光厳上皇(こうごんじょうこう 1313-64)によって開創され、その後も歴代天皇の帰依を得た「皇室ゆかりの寺」です。
光厳天皇は1331年(元弘元年)、第96代・後醍醐天皇による鎌倉幕府倒幕の挙兵が失敗に隠岐に流されると、鎌倉幕府の意向で後醍醐天皇に代わって即位。
その後1333年(元弘3年・正慶2年)に幕府が滅亡し後醍醐天皇が復位すると一時退位しますが、「建武の新政」がわずか2年半で崩壊すると、足利尊氏は朝敵となることを免れるために光厳上皇の院宣を得て京都を奪回して室町幕府を開く一方、後醍醐天皇は吉野に逃れて、ここに南北朝時代が到来します。
尊氏の勢力回復に伴って光厳上皇の弟・豊仁親王が即位した光明天皇、そして光厳上皇の皇子・崇光天皇の代には光厳上皇として自ら院政に当たります。
ところが今度は室町幕府内での内紛である「観応の擾乱(1349-52)」が発生。
尊氏は弟・足利直義を追討するため1351年(正平6年・観応2年)から翌年にかけてて南朝側と一時的に和議を結ぶこととなり、北朝の天皇が一時廃位となるとともに年号も「正平一統(しょうへいいっとう)」と呼ばれるように南朝の正平(しょうへい)に統一されたのでした。
そしてこの事件によって光厳・光明・崇光の北朝3代は幽閉の身となり、南朝の拠点・大和国賀名生(あのう)や河内東条などを点々とすることとなります。
その最中の1352年(文和元年・正平7年)、光厳上皇は南朝・後村上天皇の賀名生にて禅僧・夢窓疎石に帰依して出家・落飾し、禅の道に入ることとなります。
そしてその後は京都郊外の伏見の光厳院に居住した後、晩年の1362年(貞治元年・正平17年)には丹波山国を訪れ、同地にあった天台宗系の成就寺(じょうしゅうじ)という無住の廃寺を改めて庵を結ぶこととなり、これが寺のはじまりとなります。
上皇はその2年後に示寂し、寺の背後にある山国陵に埋葬されています。
その後、第102代・後花園天皇が境内裏山の万樹林や小塩田260石等を光厳上皇の香華料として献納するなど、皇家と檀家が力を合わせて護寺に努めますが、戦国期の1579年(天正7年)、丹波守・明智光秀の山国全焼戦により寺域が全壊し一時衰退。
江戸期に入り後水尾天皇の「ひねりこうし」のこぼれ話にあるように、志納などで漸次回復し、1788年(天明8年)の時点では末寺7か寺を有していたといいます。
幕末・明治期には王政復古の影響で皇室の由緒寺院である当寺には下賜金が繰り返され堂宇や庭園を拡大した後、第二次世界大戦に伴う寺田や資産の亡失を経て、現在の姿に復元されています。
1万2千平方メートルの寺域には、本尊・釈迦如来を祀る「方丈」のほか、禅宗仏殿形式の開山堂「怡雲庵(いうんあん)」、更には庭園、勅使門、舎利殿などの伽藍を配置。
また阿弥陀・観音・勢至菩薩の三尊仏である国の重要文化財「木造阿弥陀如来及び両脇侍坐像」は寺の創建よりも古い平安時代後期の作で、前身の成就寺のものか、または光厳天皇の念持仏と思われる古い像で、この他にも20余の仏像が安置されています。
京北町の豊かな自然に囲まれる境内は、天皇が周辺の自然を庭に見立て、寺の裏山を「猿帰嶂」、滝を「白玉泉」、山全体を「万樹林」と名付けるなど周囲の十勝を選んだという言い伝えもあり、今もこの景観はほとんど楽しむことができるといいます。
そして境内は周囲の山林とともに「常照皇寺京都府歴史的自然環境保全地域」にも指定されており、保護が図られています。
そして常照皇寺といえば何といっても桜の名所として有名で、毎年4月中旬頃(4月20日前後)の見頃の時期には、山間にある寺院にもかかわらず大変な参拝客の数で賑わいます。
この点、一番の見どころは方丈の東側にある光厳法皇お手植えと伝わる「九重桜(ここのえざくら)」。
樹齢600年余の巨大な枝垂桜で、細い枝を幾重にも垂らす姿は美しく、国の天然記念物にも指定されています。
また方丈の南側には、一枝に一重と八重が咲きその美しさに後水尾天皇が御車を返したという「御車返しの桜(みくるまがえしのさくら)」、そして岩倉具視が御所紫宸殿の左近の桜より株分けし移植されたといわれている「左近の桜」も名木として知られています。