京都市伏見区醍醐一言寺裏町、桃山丘陵と小栗栖の里が一望できる高台にある真言宗醍醐派の別格本山。
三宝院流、理性院流とともに「醍醐三流」の一つであり、「醍醐五門跡」の一つに数えられる寺院です。
創建の詳しい経緯は不明ですが、「一言寺(いちごんじ)」と「金剛王院(こんごうおういん)」は元々は別の寺院でした。
まず「一言寺」は元々は平安後期~鎌倉初期にかけて、「平家物語」にも登場する建礼門院徳子に侍女として仕えた阿波内侍(あわのないし)により、清水寺の観音の霊告により建立された寺院です。
阿波内侍は博識多才で学者として知られ、後に出家して信西と名乗り「黒衣の宰相」と称される後白河天皇の側近として活躍し、最後は「平治の乱」で対立した藤原信頼によって処刑された藤原通憲(ふじわらみちのり 1106-60)の娘とも孫ともいわれ、後に平清盛の娘で高倉天皇の中宮となり安徳天皇を産んだ平徳子(のちの建礼門院)の女房となった女性です。
1185年(文治元年)に「壇ノ浦の戦い」で平家が滅亡した後は、大原の寂光院にて尼として余生を過ごした建礼門院の最期を看取ったといわれていて、有名な「大原女(おはらめ)」の装束は内侍の服装を真似たものともいわれ、大原女のモデルとされています。
一方「金剛王院」は、平安後期の1115年(永久3年)に金剛王院流の祖で当時の醍醐寺座主・聖賢(しょうけん、1083-1147)により醍醐寺の塔頭寺院として創建され、同じ年に勝覚が創建した潅頂院(三宝院)、賢覚が創建した理性院とともに真言密教の「醍醐三流」と呼ばれた寺院です。
その後、一言寺は次第に衰退し、明治初期の1874年(明治7年)に「廃仏毀釈」の影響で廃寺となり金剛王院と合併した後、1895年(明治28年)に一言寺の跡地に醍醐山内より金剛王院が移されて現在に至っています。
ちなみに正式な寺号は「金剛王院」ですが、地元の人々は現在も親しみを込めて「一言寺さん」と呼んでいます。
本堂は江戸後期の1810年(文化7年)に再建されたもので、内陣の中に土蔵造りの奥内陣がある珍しい構造で、33年毎に一度だけ開帳される秘仏である本尊・千手観音菩薩像および阿波内侍坐像を安置しています。
この点、本尊の千手観音菩薩は本堂軒下に奉納されている額の「ただたのめ 佛にうそは なきものぞ 二言といわぬ 一言寺かな」という御詠歌でも知られているように、あれこれと色々願うのではなく、ただ一言だけ一心に願い続ければ必ず成就するとされ、二つ以上の願い事は成就しないという伝承があり、「一言(ひとこと)観音」と呼ばれて多くの人々の信仰を集めています。
その他に有名なものとしては山門前に植えられている「ヤマモモ(山桃)」の巨木で、樹高9.2m、胸高周囲3.28m、直径10mの円形のこんもりとした樹冠を形成し、6月頃には赤い山桃の果実を実らせます。
江戸中期の寺日記にも記載があるといい、かつては「一言寺の梅(うめ)」とも呼ばれ醍醐寺に持って行って食していたといい、1987年(昭和62年)5月1日には「京都市登録天然記念物」にも指定されています。
行事としては毎年8月17日に開催される「ひとこと観音夏祭り(金剛王院観音供)」が有名で、朝9時に子供みこしが練行し、11時に千手観音護摩供が行われ、坂道の参道を中心に数多くの露店が立ち並んで大いに賑わいます。
また20時からは山伏たちにより「柴灯大護摩火渡り修行」が厳修され、参拝者の厄除けや所願成就が祈願されるほか、一般の参拝者も火渡りに参加することができる行事として知られています。