京都市伏見区醍醐日野西大道町、世界遺産・醍醐寺の南方、宇治市との境界に近い日野の地にある真言宗醍醐派の別格本山。
山号は東光山(とうこうざん)、本尊は薬師如来(秘仏)で、「日野薬師(ひのやくし)」あるいは「乳薬師(ちちやくし)」の別名で知られる薬師信仰の寺であるとともに、国宝の阿弥陀堂と丈六の阿弥陀如来像を有することでも知られる寺院です。
開基は天台宗の開祖・伝教大師最澄(さいちょう)。
平安初期の822年(弘仁13年)、日野家の家祖・藤原家宗が慈覚大師円仁より贈られた最澄自作の薬師如来の三寸の小像を祀り、最澄を開基として一族の氏寺を建てたのがはじまりで、もとは天台宗の寺院でした。
この点、日野家は藤原北家(ふじわらほっけ)の一流で、儒学や歌道をよくした家柄であり、後に浄土真宗の祖となる親鸞や、室町8代将軍・足利義政の妻となる日野富子らを輩出したことで知られています。
そして日野の地はその日野氏の所領であった場所で、初代の藤原真夏は「ここは仏法有縁の地である」とのお告げを老翁より受けたと伝えられています。
その後、平安中期の1051年(永承6年)、家宗の4代後の7代目で文章博士を務めた日野資業(ひのすけなり)が出家し、この地にあった日野家の別荘に薬師堂を建立して寺に改めるとともに、自らが造った薬師如来像の胎内に藤原内麻呂(ふじわらのうちまろ)が伝承し代々伝えられてきた日野家伝来の薬師如来の小像を収めて堂内に安置。
その後は日野家の氏寺・菩提寺とされるとともに、「日野薬師」の通称で地域の人々からも親しまれました。
そして本尊の薬師如来像(重文)の霊験から「西国薬師四十九霊場」の第38番札所となっているほか、胎内仏というところから、安産や授乳、子授けなどのご利益があるされ、別名「乳薬師(ちちやくし)」とも呼ばれ、古くよりとりわけ女性からの信仰を集めてきたといいます。
現在でも厚く信仰されており、薬師堂には絵馬ではなく「赤ちゃんが元気で生まれてきます様に」「お乳が出ます様に」と願事が書かれたよだれ掛けが沢山奉納されています。
また平安後期には浄土教の流行による「阿弥陀信仰」の高まりや「末法思想」の普及に伴って、極楽浄土の具象化として各地に阿弥陀堂が建てられましたが、法界寺の阿弥陀堂もまさにこの時期に建てられたもので、当時の伽藍の中では唯一現存している建物となっており、平等院の鳳凰堂や三千院の往生極楽院とともに平安時代の浄土信仰を示す貴重な遺構として国宝に指定されています。
そしてその堂内には世界遺産の宇治の平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像にも似た、定朝(じょうちょう)作と伝わる丈六(高さ2.8m)の「阿弥陀如来坐像」が安置され、こちらも阿弥陀堂とともに国宝に指定。
また日本で一番古い壁画で絵画史上も大変貴重なことから重要文化財にも指定されている「天人壁画」が描かれており、さながら現世の極楽浄土の世界を表しています。
また日野の地は浄土真宗の開祖・親鸞の生誕の地でもあり、9歳で粟田の青蓮院にて慈円を戒師として得度するまでの幼少期を過ごした場所でもあります。
1173年(承安3年)4月1日、日野の法界寺にて誕生、父は日野氏の一族で日野資業の4代後にあたる皇太后宮大進で正五位・日野有範(ありのり)、母は清和源氏の源義家(八幡太郎)の孫娘の吉光女(きっこうにょ)であったといわれています。
そして浄土教信仰が篤い中で生まれ、幼い頃より阿弥陀如来に手を合わせて篤く信仰していたことが、後に浄土真宗を生み出すこととなったといわれています。
上記の由緒から法界寺の近く、併設する保育園を挟んですぐ裏手には、親鸞の誕生の地を記念して1931年(昭和6年)に「日野誕生院」が創建されています。
「宗教法人本願寺」が所有する浄土真宗本願寺派の仏教寺院で、誕生院保育園、法界寺横には「産湯の井戸」や「ゑな塚(えなづか)」も残されています。
また法界寺の裏手には今も日野家の廟所があり、そこには、有範卿や吉光女の墓が大樹に守られるようにして残っているほか、本堂横には親鸞6歳の姿を写した銅像と、得度式に詠んだ和歌の歌碑もある由緒の深い場所です。
伽藍は代々日野一族門葉が資財をなげうって堂塔が整えられてきたため、威容かつ荘厳美麗を極めていたといいますが、室町時代の「応仁の乱」の兵火にかかって焼失し、戦国期には衰退。
現在は薬師堂(本堂)と国宝に指定されている阿弥陀堂が残るのみとなっています。
このうち薬師堂(本堂)は天正年間(1573-92)における炎上を経て、現在の建物は1904年(明治37年)に奈良県竜田の伝燈寺の灌頂堂(かんじょうどう)を移築したもので、1456年(康正2年)建造の古い建築だといいます。
そして堂内の本尊・薬師如来像は伝教大師最澄作と伝わり国の重文にも指定されており、脇侍(きょうじ)として運慶(うんけい)の作と伝わる日光・月光菩薩像および十二神将像が安置されています。
行事としては毎年1月14日夜に行われる「修正会(しゅしょうえ)」の「法界寺裸踊り(ほうかいじはだかおどり)」が有名で、江戸時代に始められ、現在は京都市登録民俗無形文化財にも指定されています。
寺では元旦より14日間、薬師堂(本堂)にて五穀豊穣、万民快楽、所願成就を祈る修正会法会が行われますが、その結願日にあたる1月14日の夜に「裸踊り」は行われ、寒空の中、精進潔斎し褌(ふんどし)一丁の姿の成人男性と子どもたちが二組にわかれ、冷水で体を清めた後、阿弥陀堂の広縁にて体をもみ合いすり合いながら、両手を頭上高く打ち合わせ、「頂礼(ちょうらい)、頂礼」と連呼し1年の健康を祈願します。
ちなみにこのふんどしは、踊りに参加されている男性の家族や奥さんが出産を控えている場合、洗って妊婦の腹帯として使うと安産になり、元気な子どもが誕生すると伝えられています。
大人たちの踊りは迫力がある一方、子どもたちは寒さに耐えながらも元気いっぱいに踊る姿が毎年見物客の心を和ませるほか、かす汁の接待なども行われて境内は多くの参拝客で賑わいます。