修学旅行生や外国人にも人気の金色に輝く世界遺産
室町3代将軍足利義満が建てた北山山荘をその没後に禅寺に改め鹿苑寺と改称。
金色に輝く舎利殿があまりに有名で金閣寺の通称が定着。世界遺産にも登録され、修学旅行生や外国人などにも人気の京都観光の定番に。
衣笠山を借景にした池泉回遊式の庭園も見事
金閣寺(鹿苑寺)のみどころ (Point in Check)
京都市北区金閣寺町、衣笠山の西麓、五山の送り火の左大文字が点火される左大文字山のすぐ南側に位置し、金色に輝く舎利殿(金閣)で知られ、清水寺などとともに京都を代表する観光スポットの一つとして修学旅行生や外国人観光客にも大変な人気を誇る禅宗寺院です。
元は鎌倉時代の公卿・西園寺公経の別荘を室町幕府3代将軍の足利義満が譲り受け、北山山荘(北山殿)を造ったのがはじまり。
その後義満が没するとその遺言により夢窓国師を開山として禅寺に改められ、義満の法号「鹿苑院殿」から二字をとって「鹿苑寺」と名づけられました。
鏡湖池のほとりに建つ金色の舎利殿「金閣」が特に有名なため一般的に「金閣寺」と通称され、同じく相国寺の山外塔頭である銀閣寺(慈照寺(じしょうじ)とともに広く一般に知られています。
現在は臨済宗相国寺派大本山で同じく足利義満が創建した相国寺の山外塔頭寺院の一つとなっています。
舎利殿は公家風寝殿造・武家風書院造・中国風禅宗仏殿造の3つの異なる様式を見事に調和させた室町前期の北山文化を代表する建築で、応仁の乱の戦火も逃れ国宝にも指定されていましたが、1950年(昭和25年)の放火事件により惜しくも焼失。現在の建物は1955年(昭和30年)に再建されたものです。
金閣舎利殿があまりに有名ですが、金閣の建つ鏡湖池のある池泉回遊式の庭園は特別史跡・特別名勝に指定されており、鏡湖池に映る金閣の姿も見どころの一つ。
また一年を通じて楽しめる金閣ですが、紅葉の時期や雪が降った直後には普段とは趣の違った景色が楽しめるのでオススメです。
他にも萩の違い棚と南天の床柱で有名な数寄屋造の茶室・夕佳亭や現存する最も古い建物で弘法大師作と伝わる石造不動明王を安置する不動堂なども有名です。
1994年(平成6年)12月には「古都京都の文化財」として、ユネスコの「世界遺産条約」に基づく世界文化遺産に登録されました。
南北朝時代を終わらせ栄華を極めた室町3代将軍・足利義満により建立
元々は平安時代の貴族・西園寺家の山荘「北山第」があった場所
元々この地には、鎌倉時代の1224年(元仁元年)に幕府とも親しい有力公卿の藤原公経(西園寺公経(さいおんじきんつね))が西園寺を建立し、併せて山荘「北山第(きたやまてい)」を営んでいた場所で、公経の子孫である西園寺家が代々所有していました。
西園寺家は代々朝廷と鎌倉幕府との連絡役である関東申次(かんとうもうしつぎ)を務めていましたが、鎌倉幕府滅亡直後に当主の西園寺公宗が後醍醐天皇の暗殺を企てたことが露見し逮捕・処刑されてしまい、西園寺家の膨大な所領と資産は没収。そのため西園寺も次第に修理が及ばず荒廃していきます。
足利義満による「北山殿」の造営と「金閣」の建築
その後時代は流れ、室町幕府第3代将軍・足利義満が南北朝を統一し、1394年(応永元年)、37歳にして将軍職を子の4代将軍・足利義持に譲ります。しかし出家してからも、政治の実権は手放さず政務を執り続けていました。
そして1397年(応永4年)、この地を気に入った義満は河内国の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によって「北山殿(北山第)」と呼ばれる大規模な邸宅を造営します。
当時考えられていた日本列島の形を模したとされる庭園は極楽浄土をあらわしたもの。また舎利殿は金箔で建物を覆うなど豪華を極め、「金閣」と通称されるようなります。
将軍の邸宅ですがその規模は天皇の住む御所にも匹敵したといい、翌応永5年にこの地へ移った義満は有名な一休禅師の父である後小松天皇を招いたり、対明貿易の勅使を北山殿で迎えるなど、政治・外交の中心であり続けました。
それと同時に、中国・公家・武家といった様々な文化が融合し「北山文化」と呼ばれる文化の発展にも寄与したといいます。
義満の没後に禅寺に
1408年(応永15年)に義満が51歳で没すると、4代将軍・足利義持により「北山殿」は舎利殿(金閣)を残して解体。
その後、しばらくは義満の妻である北山院(日野康子(ひのやすこ) 1369-1419)の御所となっていましたが、1419年(応永26年)11月に北山院が没すると、舎利殿以外の寝殿等は解体され、南禅寺や建仁寺・等持寺(とうじじ)(中京区柳馬場通二条下る周辺にあった足利家菩提寺)に寄贈されました。
そして1420年(応永27年)、義満の遺言に従い夢窓疎石を勧請開山(名目上の開山)として禅寺に改められ、義満の法号「鹿苑院太上法皇」から2文字をとって「鹿苑寺」と名付けられたのです。
ちなみに寺名「鹿苑寺」は釈迦(しゃか)が悟りを開いてのち最初の説法をした場所である鹿野苑(ろくやおん)(現在のインドのバラナシ郊外にあるサールナート)から採ったものだといいます。
華やかな北山文化を代表する建造物「金閣」
舎利殿として建てられた金閣は3層に分かれており、第1層・法水院は公家風の寝殿造、第2層・潮音洞は鎌倉時代の武家造(書院造)、そして第3層・究竟頂は中国風の禅宗仏殿造で、異なる三つの様式を見事に調和させた室町時代を代表的する建物です。
金箔は2層と3層部分に漆の上から張られおり、屋根は椹の薄い板を何枚も重ねたこけら葺、屋根の上には中国でめでたい鳥といわれる鳳凰が輝きます。
義満後の金閣と小説「金閣寺」
義満亡き後の金閣
その後も足利家によって護持され、歴代の足利将軍による参詣も行われていましたが、応仁・文明の乱(1467~77)が起こると西軍の陣所となり、金閣を除く多くの殿舎が焼失し荒廃します。
桃山時代に入ると豊臣秀吉や徳川家康の外交顧問も務めた相国寺の僧・西笑承兌(せいしょうじょうたい・さいしょうじょうたい 1548-1608)が復興に努め、更に江戸末期までに住持僧などの努力により不動堂・茶室夕佳亭・方丈・大書院・小書院・鐘楼・鎮守・庫裏・唐門などが再建・建立され、現在見ることのできる堂舎が整えられました。
放火焼失事件からの再建と小説「金閣寺」
金閣は明治後期の1904~06年(明治37-39年)にかけて解体修理が行われており、1929年(昭和4年)には国宝にも指定されています。
創建より幾度も修理がなされ、応仁の乱や太平洋戦争などもくぐり抜け、戦後まで往時の姿をとどめていましたが、惜しくも1950年(昭和25年)に学僧による放火で全焼。このとき国宝の足利義満像などの貴重な文化財も同時に失われました。
ちなみにこの放火焼失事件は事件当時大変センセーショナルに報道され、三島由紀夫の「金閣寺」(1956年(昭和31年))や水上勉の「五番町夕霧楼」「金閣炎上」(1979年(昭和54年))などの小説の題材としても取り上げらました。
現在の金閣は放火事件の後、1955年(昭和30年)に明治時代に行われた解体修理時の資料を基に再建されたもの。
この点再建費用は政府や京都府からの補助金、経済界や全国各地からの寄付金など当時の金額で合わせて約3000万円が集められたといいます。
修復にあたっては明治時代に行われた解体修理の際に作成されていた詳細な図面が残っていたことが幸いし、極めて忠実な再現が可能となりました。
1986~87(昭和61-62年)年には金箔の剥落が目立ったためことから5倍の厚さに金箔を張り替える「昭和大修復」が行われ、近年では2003年(平成15年)3月まで金閣の屋根の修復工事も行われています。
また金閣以外では、1997年(平成9年)に夕佳亭の解体修理、2005~07年(平成17-19年)には方丈も解体修理が行われています。
鏡湖池を中心とした池泉回遊式の庭園は国の特別史跡・特別に指定
金閣舎利殿のある鏡湖池を中心とした池泉回遊式の庭園は1925年(大正14年)10月8日に史跡・名勝、更に戦後の1956年(昭和31年)7月19日には文化財保護法により特別史跡・特別名勝に指定されています。
鏡湖池に映る金閣の姿も見どころの一つです。
萩の違い棚と南天の床柱で有名な茶室「夕佳亭」
境内北側の高台にある「夕佳亭(せっかてい)」は江戸初期に後水尾天皇を迎えるために建てられた代表的な数寄屋造の茶室で、萩の違い棚と南天の床柱がユニークな古今の名席。
ここから眺める夕日を浴びた金閣の眺めが殊更に美しい(佳い)ことからその名がついたといわれています。
弘法大師作と伝わる石造不動明王を安置する不動堂
境内北側、出口門手前にある「不動堂」は金閣の創建よりも前の鎌倉時代にこの地に山荘を有していた西園寺公経が建造した護摩本堂を起源とするお堂です。
その本尊の等身大の石不動明王は鎌倉時代のものとも弘法大師作とも伝わり、室町時代には民間信仰の対象となり、「金閣寺のお不動さん」として多くの人々に親しまれたといいます。
現在は秘仏ですが、2月の節分の日および8/16の「五山の送り火」の際に営まれる開扉法要にて拝むことができます。
また現在の建物は天正年間(1573~1592)に五大老として豊臣秀吉に仕えた戦国大名・宇喜多秀家(うきたひでいえ 1572~1655)により再建されたものです。
紅葉や雪の金閣も
金閣寺の見所といえば、何といっても金色に輝く舎利殿で、一年を通じてその雄姿を拝むことができるのも魅力の一つですが、紅葉の時期や雪が降った直後には普段とは趣の違った景色が楽しめるのでオススメです。
とりわけ雪化粧をした金閣は純白の雪景色の中に金色の金閣が輝き幻想的な美しさ。
天候次第でなかなか見ることができない貴重な光景であることも手伝って、「京都人は雪が降ると、金閣寺へと急ぐ」と言われるほど、写真家たちの間では憧れの存在となっています。
金閣寺(鹿苑寺)の施設案内
金閣寺は拝観順路がほぼ決まっており、分岐も少なくほぼ一定のルートで参拝することができます。
「金閣寺前」のバス停を降りて北へ歩いてすぐか、西大路通の金閣寺前の交差点付近にあるバス停「金閣寺道」を下車し西にまっすぐ進むと突き当たるのが黒門です。
この黒門をくぐると更に西にまっすぐ参道が続き総門に到着。総門をくぐると更に西へと参道が続き、途中舟形石という長細い石や鐘楼などがあります。
この突き当たりを左に折れてすぐの所に拝観受付があり、拝観券代わりのお札を受け取ります。
そのまま奥へ進むと参拝門があり、その入口でお札を見せて中に入ると、金閣舎利殿が遠くに見える池泉回遊式の庭園が参拝者を出迎えます。
池の正面にちょうど金閣が見えるまさに絶好の撮影ポイントであることから、記念撮影をする観光客やらカメラマンやらで最も人だかりができる場所ではあるのですが、最初にして最後、ここ以上の眺望はないので後悔しないようにしっかりと目に焼き付けたいものです。
その後は池の東岸を北へ向かって反時計回りに進んでいき、金閣のそばを通過すると、池のちょうど北側あたりで分岐点となり、ここを右に曲がって更に北へと進んでいきます。
売店とその背後の榊雲の所で右に曲がり、銀河泉・巌下水・金閣寺垣(虎渓橋)・龍門瀑(鯉魚石)といった義満ゆかりの史跡、義満以前にこの地に山荘を築いた西園寺ゆかりの安民沢・白蛇塚の史跡を経て茶室・夕佳亭のある高台へと上がっていきます。
その途中にある展望台も見どころの一つで、金閣舎利殿を上から見下ろすことができます。
最後に茶室・夕佳亭、そして不動堂とめぐり出口門をくぐって石段を下ると、最初に訪れた黒門と総門の間を結ぶ参道へと出ることができます。
朱印所や絵馬掛所、おみじくや茶所、土産物屋などは不動堂の周辺に集中していますが、休憩所や売店については出口門を出て石段を下った黒門までの参道の途中にもあります。
黒門・総門周辺
-
-
黒門(くろもん)
鞍馬口通を突き当たった境内の東側、鏡石通沿いにある柱の黒い門。
通常参拝者はここから境内に入場し、総門を目指して西へまっすぐ続く参道を歩いていくこととなる。
-
-
参道
黒門をくぐって西側にある総門へ向かってまっすぐ続く参道。
約150mほどあるといい、黒門を入ってすぐの周囲は紅葉の時期にはきれいな紅葉の絨毯が広がる。
-
-
分岐
境内東側の黒門と西の総門、そして北側の出口門とが合流する分岐点。
-
-
休憩所
境内東側の黒門と西の総門、そして北側の出口門とが合流する分岐点のそばにある休憩所。
京都の豆菓子・和菓子の老舗・豆政の金閣寺境内売店になっており、団子やおでん、肉まん、ソフトクリームなどが販売されているほか、手洗所も併設。
-
-
境内図
黒門から総門へ向かう参道の途中右側にある境内案内図。
-
-
馬繋(うまつなぎ)
黒門から総門へ向かう参道の途中左手にある。馬をつないでおく所(馬立て)だが、ベンチが置いてある。
ベンチには「このベンチは先生方のチェクポイント用です」という注意書が掲示されている
-
-
休憩所
馬繋のすぐ横にある屋根付きの休憩所。
-
-
世界遺産の碑
黒門から総門へ向かう参道の途中、総門の左手前に建つ。
金閣寺(鹿苑寺)はユネスコ(国際連合教育科学文化機関)で採択された世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約に基づき、「古都京都の文化財」の一つとして1994年(平成6年)12月に世界遺産リストに登録されている。
そのことを示す碑で、配置図には建造物や庭園の位置、また登録理由についても創建の歴史なども交えて分かりやすく説明されている。
-
-
世界遺産 金閣 鹿苑寺の碑
総門の手前右側にある石碑。傍らには「歴史的風土特別保存地区」の石標、鹿苑寺(金閣寺)について説明する京都市の駒札、さらに「史蹟及名勝 金閣寺(鹿苑寺)庭園」の石標も建っている。
-
-
総門(そうもん)
黒門から続く参道を西に進むとこの門にたどり着き、更にこの門をくぐると庫裡や庭園の入口へと向かうことができる。
金閣寺の表門にあたる門で、屋根の丸瓦に刻まれた「五七桐」の寺紋は天皇家から下賜された由緒ある紋であることを示しているという。
門の左手には「五用心(五戒)」が掲示されている。
一 生命あるものを殊更に殺さざるべし
二 与えられざるものを手にすることなかるべし
三 道ならざる愛欲をおかすことなかるべし
四 いつわりの言葉を口にすることなかるべし
五 酒におぼれてなりはひを怠ることなかるべし
-
-
参道
総門をくぐると西へ向かいさらにまっすぐ参道が伸び、その途中に鐘楼や舟形一文字蹲踞、櫟樫(イチイガシ)の木などがある。
-
-
舟形一文字蹲踞(船形石)
総門をくぐった先の参道の途中右手(北側)にある船の形をした石。
蹲踞(つくばい)とは茶室の露地の低い位置に置かれた石製の手水鉢のことで、貴人であっても茶席に入る前にはここで身をかがめて(=つくばう)手を清めることからこの名が生れたという。
石の背後にはモミジの木があり秋には紅葉と石のコラボが見事に。
-
-
鐘楼(しょうろう)
総門をくぐった先の参道の途中左手(南側)にある。
鐘楼に吊るされている梵鐘は西園寺家に由来しているといい鎌倉前期の作で、音色は雅楽の六調子の一つで、黄鐘(A=ラ)の音を主音とする黄鐘調(おうしきちょう)だという。
参拝者は一撞き200円(志納)で鐘を撞くことができ、鐘楼のそばには「世界平和と心の平安を」という見出しで「梵鐘の功徳はその響きを聴く者は一切の苦から逃れ悟りに至るとされています。その音色を人々の心に響かせてこの世を清らか極楽浄土を造り出そうと心を傾けた足利義満にあやかって、梵鐘をお撞き下さい。」という案内板が掲示されている。
また鐘楼の周辺はカエデが多く、見事な紅葉を求めて写真撮影する参拝者も多い。
-
-
櫟樫(イチイガシ)
総門をくぐった先の参道の途中左手(南側)、鐘楼の先にそびえる大木で、「鹿苑寺(金閣寺)のイチイガシ」として、1983年(昭和58年)に京都市指定の天然記念物に指定されている。
樹高約20mで幹周り約5mの巨木で、金閣寺が江戸初期に現在の伽藍配置に再整備された頃に植栽されたか、あるいはその頃には既に成木になっていたものが残されたかのどちらかと考えられている。
イチイガシは照葉樹林を構成する常緑高木の一つで、日本では本州の関東南部以西と四国・九州に分布しているが、京都周辺では数が少なく、京都に残るイチイガシの巨木としては貴重なもの。
-
-
庫裏(庫裡)(くり)
総門をくぐった先の参道の右手奥に見える禅宗特有の様式をした建物で、室町時代の明応・文亀年間(1492-1504)頃の建築という。
庫裏は寺の台所にあたる場所だが、現在は寺務所として使われているほか、写経場も兼ねている。
写経は「四弘誓願文」「延命十句観音経」、そして玄奘三蔵法師が訳されたという「般若心経」の3種類あるとのこと。
-
-
玄関
庫裏(庫裡)の玄関
-
-
方丈拝観受付
唐門の手前右側に設置。
-
-
唐門(からもん)
総門をくぐった参道の先の突き当たりに構える唐破風の屋根を持った門。
方丈の特別拝観の際にはここから入場することになる。
-
-
拝観受付
金閣および庭園を拝観するための拝観券はここで求める。
「お札が参拝券です」の掲示が掲げられており、拝観券が大きめのお札になっているのが珍しい。
-
-
無字の経
「咲花の露のみづけさ
鳴く鳥の聲(声)のさやけさ
雲閑に水藍をたたふ
誰が説きし無字の眞言
山清くそめなす木立
谷深くたまちる流れ
風そよぎ月すみ渡る
ひとりよむ無字の眞言」
-
-
参拝者休憩所
参拝門の手前にある休憩所。
-
-
浄蔵貴所の墓(じょうぞうきしょのはか)
総門をくぐった先の参道の左手にある鐘楼の背後にある、高さ約1mの細長い五輪塔で、パワースポットとしても人気。
浄蔵貴所(891-964)は平安中期、天台宗の僧侶。著作に「胎蔵界浄蔵私記」。京に生まれ熊野や金峯山、叡山などの霊山で苦行を積み、12歳の時に宇多法皇の弟子となり、玄昭に密教、大恵に悉曇(しったん)を学ぶ。
加持祈祷に優れ、平将門の乱の際には降伏の祈祷を行い誅滅を予言したり、死んだ父を蘇生させたりとか、傾いた八坂の塔を法力で元に戻したりといった数多くの奇跡を演じてみせた。
父・三善清行の蘇生の話では危篤の知らせを聞き熊野から京に戻った際、父の葬列に出会った橋の上で加持祈祷を行いその場で甦らせたことから、橋は「戻橋」と呼ばれるようになり、「一条戻橋」の名前の由来になっている。
八坂庚申堂(金剛寺)は浄蔵の創建といわれ、父親の蘇生の際に祈祷にささげたこんにゃくに由来して毎庚申の日にこんにゃく焚きが行われる。他に久世六斎念仏で知られる南区久世の光福寺(蔵王堂)も浄蔵の開基といわれる寺院。
また京都三大祭の祇園祭の山鉾の一つ「山伏山」の御神体は山伏の姿をした浄蔵が修験者として奈良吉野の大峰山に入る様子を表現している。
金閣・鏡湖池周辺
-
-
受付
参拝門の手前にあり、ここでお札を一人ずつ見せて入口へと向かうことになる。
-
-
参拝門
金閣舎利殿や鏡湖池のある金閣寺庭園の入口となっている門。
-
-
築地塀
参拝門をくぐり鏡湖池まで続く参道の左手には築地塀がずっと続く。
-
-
鏡湖池(きょうこち)
約4万坪といわれる境内西側に位置し、2万8千坪と境内の半分以上を占める庭園の中心にある約2千坪の面積を誇る池。
背後にある衣笠山を借景にこの池を中心とした庭園は、室町時代を代表する池泉回遊式の庭園として国の特別史跡・特別名勝に指定されている。
池の北側の畔に建つのが金閣(舎利殿)で、池に反射してまるで鏡のように映し出された金閣の姿は「逆さ金閣」と呼ばれ、光り輝く金閣の美しさをより一層際立たせている。
その他に葦原島、鶴島、亀島など10の島々や、当時絶大な権力を誇った室町3代将軍・足利義満に取り入ろうと奉納した大名たちの名前のついた畠山石、赤松石、細川石などの奇岩・名石が数多く配されている。
-
-
金閣(舎利殿)(きんかく(しゃりでん))
鏡湖池の畔に南面して建つ、まばゆいばかりに金色に輝く寺のシンボルともいえる建物で、銀閣寺(慈照寺)の銀閣(観音殿)、西本願寺の飛雲閣とともに「京の三閣」の一つに数えられている。
室町幕府3代将軍・足利義満により1398年(応永5年)頃に仏舎利を安置する舎利殿として建築。創建当初は舎利殿とか重々殿閣、三重殿閣などと呼ばれていたらしく、はじめて「金閣」の名が見られるのは1484年(文明16年)のこと。
現在の建物は1952年(昭和27年)に着工、3年後の1955年(昭和30年)に再建されたもの。再建前は義満が造営した北山山荘の建造物の中で唯一解体を逃れ、室町時代および北山文化を代表する建物として国宝に指定されていたが、現在は指定から外されている。また1987年(昭和62年)に修復工事が行われ、より厚い金箔に塗り替えられた。
元々の建物は1950年(昭和25年)7月2日未明の学僧の起こした放火事件により全焼。金閣と同時に国宝の足利義満坐像や運慶作と伝えられた観世音菩薩像、仏師・春日作の夢窓疎石像などの貴重な仏像も焼失している。難を免れたのは焼失時に金閣から取り外され保存されていた鳳凰像と後小松天皇筆「究竟頂」の額で、このうち鳳凰は1999年(平成11年)に京都市指定文化財に指定されている。
犯人の精神状態が当時議論を呼んだセンセーショナルな事件で、三島由紀夫の「金閣寺」や水上勉の「五番町夕霧楼」「金閣炎上」などの著作を生んだ。
金閣舎利殿は高さ約12.5mで、内部は3層(3階建)に分かれており、ちなみに一層目は「法水院(ほっすいいん)」と呼ばれる寝殿造の阿弥陀堂、二層目は「湖音洞(ちょうおんどう)」と呼ばれる武家造(書院造)の観音堂、そして三層目は「究竟頂(くっきょうちょう)」と呼ばれる中国風の禅宗造の仏殿。
それぞれに建築様式も異なっているが、それらを見事に調和させたことが美しさを際立たせている。また漆の上から金箔が張られているのは二層目と三層目で、それに加えて宝形造・こけら葺の屋根の上には金張りの銅製の鳳凰が置かれて建物に華を添えている。鳳凰は聖徳をそなえた天子の兆しとして出現するとされる中国の伝説上の鳥で、幸運をもたらす鳥として日本でも天皇や摂関家(平等院鳳凰堂が有名)、あるいは将軍の居所に置かれることがあった。
一層目の「法水院」には、宝冠釈迦如来像と足利義満坐像、二層目の「潮音洞」には、岩屋観音坐像と四天王像が安置され、三層目の「究竟頂」には仏教の開祖である釈迦の仏舎利(遺骨)が祀られている。
-
-
展望所
鏡湖池の南側の畔は展望スペースのようになっており、記念撮影をしようとカメラを構える参拝者が後を絶たない人気スポットとなっている。
その奥は門で閉ざされて行き止まりとなっており、これより先の池の西側には進めないようになっている。
-
-
葦原島(蓬莱島)(あしわらじま)
鏡湖池の中央、金閣の正面に浮かぶ島で蓬莱島とも。池にある10の島々のうち最大の大きさで、日本の国を象っているといわれている。「葦原」は稲が豊かに実り栄える国を意味する「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)」という美称より。
また蓬莱(ほうらい)とは、道教の神仙思想に基づいたもので、古代中国において東の海中にあって不老不死の仙人が棲むといわれた仙境のことで、庭園の石組においても蓬莱島や蓬莱山といった形で表現される。
-
-
三尊石
金閣の正面に浮かぶ葦原島(蓬莱島)の中央に置かれている石組で、西芳寺(苔寺)の黄金池にある霞形中島の三尊石を手本にしたものといわれている。
ちなみに「三尊石組」は庭園の石組の一つで、3個の立石を使って仏教の三尊仏を表現する手法。
背の高い中尊石を中心に、その左右に中尊石よりも低い脇侍石を配する構成となる。
金閣寺のものは中央の石が高さ約1.8m、重さが約10tもある巨石が用いられている。
-
-
細川石(ほそかわいし)
金閣の正面に浮かぶ葦原島(蓬莱島)の東側に置かれている石。
当時絶大な権力を誇った室町3代将軍・足利義満に取り入ろうと奉納した大名たちの名前のついた石のうちの一つで「細川」の名がつけられている。
細川氏は室町幕府の重職を指す「三管四職」のうち、将軍を補佐して幕政を統轄する「管領」の役職を担っていた有力大名で、斯波氏・畠山氏とともに三管領の一氏。
その配置はまるで葦原島の船頭、すなわち細川氏が日本の舵を取っているかのように見えるのが興味深い。
-
-
九山八海石(くせんはっかいせき)・鶴島(つるしま)・亀島(かめしま)
金閣とその正面に浮かぶ葦原島(蓬莱島)の間に東から順に並んでいる石組で、それぞれ九山八海と鶴島・亀島を表現している。
「九山八海(くせんはっかい)石」は仏教の世界観でその理想郷である「須弥山(しゅみせん)」を囲む九つの山と八つの海を表現したもので、東福寺の塔頭・霊雲院にある「九山八海の庭」は有名。金閣寺のものは遠く中国・明の洞庭湖から取り寄せた名石が使用されているという。
一方「鶴島」「亀島」は蓬莱島と同じく道教の神仙思想からきている庭園の石組の方法で、「鶴は千年、亀は万年」といわれる通りで延年・長寿を祈願して作られる場合が多い。
-
-
出島(でじま)
鏡湖池の西側中央部にあり、日本を表現している葦原島(蓬莱島)に対して西国浄土(極楽浄土)を表現しているという。
-
-
畠山石(はたけやまいし)
出島の北に赤松石と並ぶように置かれている。
当時絶大な権力を誇った室町3代将軍・足利義満に取り入ろうと奉納した大名たちの名前のついた石のうちの一つで「畠山」の名がつけられている。
細川氏は室町幕府の重職を指す「三管四職」のうち、将軍を補佐して幕政を統轄する「管領」の役職を担っていた有力大名で、斯波氏・細川氏とともに三管領の一氏。
-
-
赤松石(あかまついし)
出島の北に畠山石と並ぶように置かれている。
当時絶大な権力を誇った室町3代将軍・足利義満に取り入ろうと奉納した大名たちの名前のついた石のうちの一つで「赤松」の名がつけられている。
赤松氏は播磨を拠点にした有力守護大名の一人で、赤松則村(円心)の代に後醍醐天皇の命に応じて討幕の兵を挙げ、その後足利尊氏に属して室町幕府の成立に貢献した。
室町幕府の重職を指す「三管四職」のうち、軍事・警察を担当する「侍所所司」の役職を担っていた有力大名で、一色・山名・京極氏とともに四職の一氏。
-
-
夜泊石(よどまりいし)
金閣の東側の船着に平行に置かれた石で、夜泊石としては西芳寺(苔寺)のものとともに有名。
「夜泊石」は池泉庭園における石組の一つで、中国の蓬莱思想において蓬莱島より仙薬財宝を積んで戻ってきた船が夜の港に一列に停泊している様子を、数個の石を直線に配置することで表現しているという。
-
-
漱清(そうせい)
金閣舎利殿の初層(1階)の西側に、池に突き出すように造られたいわゆる釣殿(つりどの)。
「釣殿」は寝殿造において池に臨んだ形で周囲を吹き放ちにして建てられる建造物をいい、魚釣りを楽しんだ所からこの名がついたという。他にも納涼や饗宴、月見などにも用いられることがあるという。
-
-
出亀島
鏡湖池の北側中央部、金閣舎利殿の西側に入亀島とともに浮かぶ島。
-
-
入亀島
鏡湖池の北側中央部、金閣舎利殿の西側に出亀島とともに浮かぶ島。
-
-
淡路島
鏡湖池に10あるという島々のうち、一番西側にある島。
-
-
方丈
客殿とも呼ばれ金閣寺においては本堂に相当する。1678年(延宝6年)に後水尾天皇の寄進により再興され、2005年(平成17年)から2007年(平成19年)にかけて解体修理が行われている。
単層入母屋造で桟瓦葺の建物で、仏間には本尊の聖観世音菩薩坐像を中心に帝釈天の三像および創建者の足利義満像、開山の夢窓国師像、中興の文雅慶彦(ぶんがけいげん)像等を安置。
堂内には狩野派一門の筆による襖絵のほか、平成の解体修理の際に新作された「平成の琳派」とも称される近代日本画家・石踊達哉と森田えり子による杉戸絵も。
内部は通常非公開だが、特別公開時には本尊他の諸仏所像や襖絵、杉戸絵(デジタル複製画)、方丈前庭、陸舟の松、宝物展示が行われる。
-
-
方丈庭園(方丈前庭)
方丈の前に広がる枯山水の庭園で、江戸初期の作庭といわれる。
方丈は金閣のある鏡湖池のすぐ東側にあり、庭園越しに眺める金閣の姿もなかなかのもの。
傍らには後水尾天皇手植えと伝わる胡蝶侘助の椿がある。
-
-
胡蝶侘助(こちょうわびすけ)
方丈前庭にある後水尾天皇御手植えの椿の原木。幹回り135cmは大徳寺総見院に次ぐ大きさを誇り、京の椿を代表する格調ある巨樹。
胡蝶侘助は椿の一種で江戸期には「侘助」と呼ばれていた。名前の由来は諸説あるが、桃山時代に侘助という人物が朝鮮から持ち帰ったことからその名がついたともいわれている。
開花は3~4月上旬頃で、花は小輪でラッパのように咲き、濃い桃色に白色の杢目が入っているのが特徴。
豊臣秀吉に賞賛されたという龍安寺の侘助椿など寺院によく植えられているほか、茶花にも使用され千利休も好んだという。
そして後水尾天皇は江戸初期、江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠の娘・和子(まさこ)(のちの東福門院)を中宮とし、徳川家とは姻戚関係を結ぶこととなった天皇で、学問や詩歌を好み、修学院離宮を造営したことでも有名。
その一方で「禁中並公家諸法度」の制定や「京都所司代」を通じての幕府の朝廷への干渉、また朝廷が寺院に与えた紫衣着用の勅許を幕府が無効とし朝廷に対する江戸幕府の優越を示した「紫衣事件」などにより、幕府と鋭く対立したことで知られている。
-
-
陸舟の松(りくしゅうのまつ)
鏡湖池の東、方丈の北側にある書院の庭に植えられた大きな松の古木で、西山・善峯寺の「遊龍の松」、大原・宝泉院の「五葉松」とともに京都三松の一つにも数えられる名木。「陸舟(おかふね)の松」とも呼ばれる。
金閣寺の創建者である室町3代将軍・足利義満遺愛の盆栽を移植し、帆掛け舟の形に仕立てたと伝えられる五葉の松で、樹齢は約600年。
舟の形に仕立てられ舳先は西を向いていることから、西方浄土(極楽浄土)へ向かうという思いが表現されていると考えられる。
-
-
大書院(おおじょいん)
鏡湖池の東、方丈の北側にある建物で、江戸中期の貞享年間の建築。
一之間から四之間および狭屋之間(さやのま)の床壁と襖に描かれた江戸中期の天才画家・伊藤若冲の障壁画(襖絵)で有名。
1759年(宝暦9年)、若冲44歳の時の作品で200年以上に渡り大書院に飾られていたが、国の重要文化財にも指定され、現在は保存上の問題から相国寺の承天閣美術館に移されており、代わりに現代日本画家・加藤東一による新たな水墨画が描かれている。
-
-
団体札所
鏡湖池の東側の参道を進み金閣舎利殿の向かいにある、団体30名以上のお札引換所。
-
-
分岐
鏡湖池の北側、展望台や不動堂などの境内北側とをつなぐポイントになっている。
境内北側
-
-
売店
金閣舎利殿を後にして境内北側に向かって最初に現れる授与所。
御守と御札を授与する。「御朱印は出口にあります」とあるので朱印は受け付けていない模様。
-
-
榊雲(しんうん)
金閣舎利殿のある鏡湖池を離れて参道を北へ進んで最初、売店のすぐ裏にある古廟。
金閣寺の鎮守・春日明神(かすがみょうじん)を祀ったもの。春日明神は奈良・春日大社の祭神で、武甕槌命(たけみかづち)・経津主命(ふつぬしのかみ)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)・比売神(ひめがみ)の四神の総称で、藤原氏の氏神としても有名。
武甕槌命(たけみかづち)雷神で相撲の元祖ともされる神、経津主命(ふつぬしのかみ)は武甕槌命と対をなし荒らぶる神々をふつと断ち切る刀剣の神、天児屋根命(あめのこやねのみこと)は中臣氏の祖神で、天の岩戸の神話で麗しい祝詞を読み上げて天照大神を引き出すことに成功したことで知られる。
また比売神(ひめがみ)は特定の神の名前ではなく、主祭神の妻や娘、あるいは関係の深い女神を指すもので、春日大社においては天児屋命の妻・天美津玉照比売命(あめのみつたまてるひめのみこと)を指す。
-
-
坐禅石
金閣のある鏡湖池より北側の夕佳亭や不動堂へと向かう参道の途中、銀河泉のやや手前にある石。
-
-
銀河泉(ぎんがせん)
金閣のある鏡湖池より北側の夕佳亭や不動堂へと向かう参道の途中、最初に見えてくる泉。
茶の愛好家だったという「足利義満御茶の水」と伝わり、今も清水が湧き出ている。
-
-
巌下水(がんかすい)
金閣のある鏡湖池より北側の夕佳亭や不動堂へと向かう参道の途中、銀河泉の横にある。
「足利義満お手洗いの水」と伝わる。
-
-
参道
売店や榊雲の所を右に曲がり不動堂や夕佳亭へと続いていく参道。
左手に銀河泉・巌下水・金閣寺垣・龍門瀑と見どころが続いていく。
-
-
金閣寺垣(虎渓橋)(きんかくじがき(こけいきょう))
金閣のある鏡湖池より北側の夕佳亭や不動堂へと向かう参道の途中、巌下水に続いて見えてくる小さな石段。
安民沢の方へと続いており、石段は「虎渓橋」、そしてその両側の低い竹垣のことを「金閣寺垣」と呼んでいる。
「金閣寺垣」は竹垣の形式の一つで、丸竹を縦と横に組み合わせて四つ目風に組み上げて垣根を作り、その上部に玉縁と呼ばれる半割にした竹を被せることによって格調高く仕上げられているのが大きな特徴。
高さは約50cm、人間の膝程度と低く、足元垣の代表。このような手法が創作されたのは明治以降のことで京都を中心に多くの竹垣が作られたが、金閣寺境内に最初に作られたためこの名前がつけられたという。
ちなみに境内の夕佳亭の前庭の富士型の手水鉢を囲んでいる垣根も金閣寺垣の手法が用いられている。
-
-
龍門瀑(鯉魚石)(りゅうもんばく(りぎょせき))
金閣のある鏡湖池より北側の夕佳亭や不動堂へと向かう参道の途中、金閣寺垣に続いて見えてくる滝。
高さ2.3mを一段落としとし、滝壺部分には「鯉魚石」と呼ばれる石が置かれている。
この石は黄河の中流にある急流・龍門の滝を鯉がさかのぼり登り切ると龍に化すとの言い伝えから、何事にも困難はつきものであるがそれを突破・克服出来た人は立身出世するということを意味する中国の有名な故事「登竜門」にちなんだもの。
今まさに跳ね上がらんとする龍の姿を、斜めに傾けて置かれた石でダイナミックに表現している。
ちなみに「龍門瀑」という名前の石組は嵯峨嵐山の天龍寺の曹源池庭園にも見られるが、天龍寺のものは鯉がまさに登り切った瞬間の姿に組まれているという違いがある。
-
-
石仏
金閣のある鏡湖池より北側の夕佳亭や不動堂へと向かう参道の途中、龍門瀑に続いて見えてくる石仏群。
-
-
石段
安民沢へと向かう石段。
-
-
分岐
安民沢へと向かう石段を上がっていった先。目の前に安民沢が広がり、右へ曲がると展望所や夕佳亭と向かうことができる。
-
-
安民沢(あんみんたく)
金閣のある鏡湖池より北側の夕佳亭や不動堂へと向かう参道の途中、龍門瀑を通り過ぎて続く石段を上がった先に見えてくる池。別名「雨賜沢」「望雲沢」とも。
鏡湖池などがある庭園より一段高い山腹の周囲を樹林に囲まれた奥深い所にあり、日照りが続いても涸れないことから雨乞いの場にされていたという。
-
-
白蛇塚
金閣寺は1397年(応永4年)に室町幕府3代将軍・足利義満が西園寺公経の別荘「北山第」を譲り受け「北山山荘」としたのがはじまり。
「白蛇塚」は境内北側の安民沢の池中の小島に建てられている五輪の石塔で、北山第時代の西園寺家の鎮守とも伝わり、西園寺家当時の様子を今に伝える貴重な遺構の一つともいえる。
藤原公経(西園寺公経)(さいおんじきんつね 1171-1244)は鎌倉時代の公卿で、鎌倉幕府を開いた源頼朝が厚遇した池禅尼の子・平頼盛の曾孫にあたり、また頼朝の姪・全子を妻としたことから鎌倉幕府との結びつきが強く、幕府の力を背景に朝廷の実権を握り栄華を極めた。
公経の娘の倫子と東福寺を創建したことで知られる九条道長の間に生まれた藤原頼経は鎌倉幕府の第4代将軍にも就任している。
また公経は歌人としても知られ、百人一首の第96番「花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり」の作者でもある。
その後も西園寺家は鎌倉時代を通じて幕府側の六波羅探題とともに朝廷と幕府の間の連絡や意見調整を行う「関東申次(かんとうもうしつぎ)」を世襲で務めるなど、鎌倉幕府の滅亡まで力を持ち続けた。
大正・昭和期に二度にわたり内閣総理大臣を務め、元老として政界に影響力を持った西園寺公望も37代目の当主。ちなみに西園寺家の家名は今の金閣寺の場所に西園寺を建立したことによるものだという。
石塔に祀られている白蛇は弁財天の使い。弁財天は智慧・弁舌・芸能・福徳を与える神で、家運を盛んにしてくれる。
-
-
展望所
安民沢を進み夕佳亭へと向かう途中にある展望所。
眺めが良く、金閣を見下ろすことができ、記念撮影スポットにもなっている。
-
-
石段
金閣寺を見下ろす展望所を経て、不動堂や夕佳亭へと向かう石段。
-
-
貴人榻(腰掛石)(きじんとう)
夕佳亭のそばに置かれた椅子の形をした石で、屋根が付けられている。
昔、高貴な人物が座った腰掛石で、室町幕府より移設されたもの。
夕佳亭の茶席の待合いの席として使われたといわれている。
-
-
夕佳亭(せっかてい)
境内北側の高台の上にある草庵風の茶室。ここから夕日に映える金閣の眺望を楽しむことができ、その姿が殊に佳い(良い)ことからその名がついたという。
江戸初期の寛永年間(1624-44)に後水尾天皇を迎えるため、戦国武将で茶人としても知られ宗和流茶道の祖となった金森宗和(金森重近)が、親交の深かった金閣寺の住職・鳳林承章(ほうりんじょうしょう 1593-1668)の依頼を受けて建造。
その後明治初期に焼失するも1874年(明治7年)に再建。平成に入って解体修理が行われ、その際に発見された古図をもとに建築当初の形に復元されている。
代表的な数寄屋造りの建物で屋根は茅葺き、3畳の茶室の中央に茶席には珍しい南天の古木を用いた「南天床柱」とその横にある「萩の違い棚」、そして違い棚の中央の古木「鶯宿梅(おうしゅくばい)」がユニークで古今の名席といわれる。
一段高い奥の2畳は「鳳棲楼」と呼ばれ後水尾天皇のために設けられた御座所。また茶室の手洗鉢は足利義満伝来。
-
-
富士形手洗鉢(ふじがたてあらいばち)
夕佳亭のそばにある、義満の孫で銀閣寺(慈照寺)を創建したことで知られる室町幕府第8代将軍・足利義政(1436-90)遺愛と伝わる手水鉢。
周囲を囲っているのは金閣寺垣。
-
-
売店
夕佳亭のそばにある売店。すぐ近くには手洗所も。
-
-
門
夕佳亭の出口にある門。
この門をくぐり石段を下るともう一つ門があり、それをくぐると不動堂への参道へ続いていく。
-
-
参道
夕佳亭の出口にある門と不動堂へと向かう入口の門の間にある参道。
-
-
門
不動堂へと向かう入口の門。
-
-
参道
不動堂へと向かう入口の門をくぐり参道を進むと不動堂の茶所があり、その先に不動堂が見えてくる。
-
-
茶席
不動堂茶所の外に設けられた茶席で、赤い野点傘と緋毛氈の床机が和の趣を感じさせてくれる。
-
-
不動堂茶所(ふどうどうちゃどころ)
不動堂のすぐそばにある茶所で、お抹茶と和菓子が楽しめる。
和菓子は「西陣風味」で知られる西陣の千本玉寿軒(せんぼんたまじゅけん)による銘菓「金閣」。
表面は衣笠山を背景とした金閣に金粉が散りばめられた柔らかい落雁。中はこし餡に金閣寺納豆(大徳寺納豆)が入っており、甘さの中にほんのり塩気の効いた上品な味が特徴で、抹茶との相性も抜群。
「金閣」はお土産用として売店でも販売されているが、販売は金閣寺限定でここでしか買うことがないとのこと。
-
-
不動堂(ふどうどう)
境内の北側にある堂で、金閣の創建よりも前、鎌倉時代にこの地に「北山第」と呼ばれる山荘を営んでいた西園寺公経が建造した護摩本堂を起源としている。
現在の建物は天正年間(1573-92)、豊臣秀吉の重臣で五大老の一人だった戦国武将・宇喜多秀家の再建で、境内に現存する中では最も古い建造物。
本尊の等身大の石不動明王は弘法大師空海作と伝わる。首から上の病気、特に眼病に霊験あらたかで室町時代より既に民間信仰の対象となり「金閣寺のお不動さん」として親しまれていたという。
現在は秘仏で通常非公開だが、節分の日の2月3日と五山の送り火の行われる8月16日に開扉法要が営まれる。当日は堂内の参拝も可能。
-
-
納経所
不動堂のすぐ脇にある。
一字写経の受付や、祈願ろうそくや線香の授与も行っている。
-
-
絵馬掛所
不動堂の左側、ろうそくの献灯台のそばにある。
金閣寺の絵馬にはダルマ、一休さんの絵柄は顔があるのとないのと2種類、七福神、宝船など様々な種類があり、これらの絵柄を見ているだけでも楽しい。
-
-
開運おみくじ
不動堂の右手前に3つある、自販機型の開運おみくじ。
京都でも特に外国人観光客に人気の高いスポットであるためか、日本語だけでなく、英語・中国語・韓国語にも対応している。
-
-
参道
不動堂の横を通り出口門へと通じている。
参道途中の両側には土産物屋のテントが立ち並び賑やかな雰囲気を見せる。
-
-
朱印所
不動堂および出口門の近くにある。
御朱印のほか、朱印帳、御札や御守の授与も行っている。
-
-
手水舎
朱印所の左にある。
-
-
陀枳尼天(だきにてん)
出口門のすぐ手前にある小さな祠に祀られている。
陀枳尼天はインドのヒンドゥー教のヤクシニーに由来し、梵語(サンスクリット)では「ダーキニー」と呼ばれるものを音訳したもの。
インドではダーキニーは鬼女カーリーの眷属とされ、死者の心臓を食らう夜叉として恐れられる存在だが、後に仏教に取り入れられると密教における最高仏である大日如来が化身した大黒天の霊力に心服し、調伏されて善神となる。
日本には空海によって伝えられたといわれ、後に稲荷信仰と習合する形で稲荷神と同一視されて祀られるようになり、その姿も半裸から白狐に乗る天女の姿へと変化していったという。
荼枳尼天を祭神とするものとしては愛知県の豊川稲荷神社が有名。
-
-
出口門
裏門で出口専用。ここより石段を下っていくと黒門の方へと戻ることができる。
-
-
石段
出口門から黒門の方へと続く石段。
-
-
休憩所
-
-
売店
周辺
-
-
左大文字(大北山・大文字山)(ひだりだいもんじ)
8月16日に開催される京都の夏の風物詩「五山の送り火」の一つで、将軍のいる室町御所から見て東山如意ヶ嶽の「大文字」に対して左側に見えることから「左大文字」、また文字が太くて逞しいことから「男型」とも呼ばれている。
如意ヶ嶽の大文字が室町御所の池の水面に映った様子を見て大北山(左大文字山)に「左大文字」の送り火を始めたのが起源。
成立についての明確な記録はないが、江戸中期の1658年(万治元年)発刊の「洛陽名所集」には記載が無く、延宝年間(1673-1681年)に発刊された「山城四季物語」に記載があることから、その間に始められたのではないかと見られる。
それ以前に記録が残っている大文字や船形、妙法などと比べれば歴史は新しいが、それでも300年以上の歴史を有している。また明治時代には「大」の字の上に一画加えて「天」としたこともあったという。
如意ヶ嶽の大文字と同じ形だが、1画の長さは48mと小さめ、2画めが68mで3画めが59m。火床の数は53あり、岩山で火床を掘るのが難しいため以前は篝火(かがりび)を燃やしていたが、現在は栗石をコンクリートで固めた火床を使用している。火床の担当は年齢や経験などにより予め決められているという。
点火は旧大北山村(現在の北区衣笠各町)の人々を中心とした左大文字保存会によって行われ、まず19時頃に麓にある菩提寺の法音寺門前の街道に篝火が焚かれ先祖の霊を導き、霊を慰める点火法要の後、親火から1基の大松明と50ほどの手松明に火を移し、松明を抱えて走る勇壮な松明行列が約500m離れた山上へと登っていく。この地上から松明を持って山へ向かうという松明行列は他の山にはない左大文字独特のもの。
点火時間は20時15分で、一度火の消された手松明に再び大松明から火を移し、保存会長の鐘の合図で手松明により筆順に沿って点火されていく(如意ヶ嶽の大文字は一斉点火)。割木の数が多いことから綺麗な火文字が30分の間点灯し続けるという。観覧スポットとしては西大路通のわら天神交差点より北側がオススメで、その他に船岡山公園なども非常にきれいな左大文字が楽しめる。
左大文字山へは送り火当日は一般観光客の入山は全面禁止となるが、普段は金閣寺西側の登山口から登ることができる。なお護摩木の受付は15日と16日に金閣寺門前で行われる。
-
-
法音寺(ほうおんじ)
金閣寺の西大路通を挟んで東側にある寺院で、五山の送り火の一つである左大文字の発祥地である旧大山村の菩提寺。山号は菩提樹山。
平安時代、天台座主の慈覚大師円仁(794-864)の創建と伝わり、平安中期の第65代・花山天皇(かざんてんのう 968-1008)の時代にはその勅願所となり、西国三十三所霊場の復興所の本山ともなった。
応仁の乱の際にの兵火で焼失するもその後復興。当初は天台宗だったが現在は浄土宗西山派に属する。
五山の送り火の当日は、まず朝に本堂にて施餓鬼会(せがきえ)が行われ、灯明の火によって親火台への点火。そして夕方には住職の点火法要の後、親火から大松明の火がさらに保存会の会員50人の手松明へと点火され、他の山にはない大北山(左大文字山)までの松明行列がスタートする。
点火行事が終わると保存会の手によって法音寺へ持ち帰られた残り火は本尊に備えられ、先祖の霊を無事に送り出せるようにと「北山尼講」と呼ばれる法音寺の檀家女性たちにより「大文字御詠歌」が唱えられる。