室町8代将軍足利義政の建てた金閣と並ぶ世界遺産
室町8代将軍足利義政が義満の金閣にならい東山山荘を造営。没後寺院となり現在は臨済宗相国寺派の塔頭。
慈照寺の由来は義政の法号慈照院にちなむ。
金閣寺同様に世界遺産に登録、派手さはないが錦鏡池を中心とする池泉回遊式の庭園は見事で特別史跡・名勝
銀閣寺(慈照寺)のみどころ (Point in Check)
京都市左京区銀閣寺町にある「銀閣(観音殿)」で有名な臨済宗相国寺派の禅宗寺院で、3代将軍・足利義満が創建した有名な金閣寺(鹿苑寺)とともに相国寺の境外塔頭の一つです。
1482年(文明14年)、室町幕府8代将軍・足利義政が自らの隠棲先として東山の如意ヶ嶽の山麓に山荘「東山山荘(東山殿)」を造営したのがはじまり。
その後1490年(延徳2年)2月、同年1月に没した義政の菩提を弔うため夢窓疎石を勧請開山として寺に改められ、相国寺の末寺となりました。
正式名「東山慈照禅寺(慈照寺)」は義政の法号「慈照院」にちなんだものですが、観音殿(国宝)が義満の創建した金閣に対して「銀閣」と呼ばれることから、「銀閣寺」の通称でよく知られています。
この点金閣が一面に金箔が貼りめぐらされ煌びやかに輝いているのに対して、銀閣は銀色に輝いている訳ではなく、2007年に行われた科学的な調査でも銀箔は検出されていません。
しかし相阿弥の造築とされる銀閣前の錦鏡池(きんきょうち)を中心とした池泉回遊式庭園が特別史跡および特別名勝に指定され、また庭園北の東求堂(とうぐどう)は四畳半茶室の原型といわれる同仁斎を内部に有し、日本最古の書院造の遺構として国宝に指定されており、禅宗文化に深く帰依し侘び寂びにも通じていた義政らしく、質素な中にも調和のとれた美しさが人々の心を惹きつけています。
義満時代の華やかな北山文化を代表する金閣に対して、銀閣はわび・さびに通じる美意識に支えられた幽玄な東山文化を代表する建物として現在も高く評価されています。
1994年(平成6年)12月には「古都京都の文化財」としてユネスコの世界文化遺産にも登録されました。
応仁の乱や政局の混乱に嫌気が差した将軍・足利義政の隠棲の地
銀閣寺の伽藍のある付近は元々は応仁の乱で焼亡した浄土寺という寺院のあった場所で、現在も左京区浄土寺の地名にその名残りが見られます。
室町後期に9歳にして家督、15歳にして将軍職を継いだ8代将軍・足利義政は、1473年(文明5年)に子の足利義尚に将軍職を譲ると、1482年(文明14年)より東山の月待山麓に自らの隠棲のための山荘「東山山荘(東山殿)」の造営を開始します。
当時といえば1467~77年(応仁元年~文明9年)まで10年余りに渡って続いた「応仁の乱」の戦乱が終わって間もない時期。
乱の発端にもなった後継者争いによる部下の対立や、義政の妻・日野富子の政治への口出しなどが原因で政局は混乱、義政は何もかも嫌になり、政治の世界から逃れて静かな隠棲生活を送るため、山荘の建設を考えたのだといわれています。
工事開始の翌1483年(文明15年)、義政は山荘の完成を待たずすぐに山荘に移り住み、その後造営工事は義政の死の直前まで8年にわたって続けられたといいます。
そして1490年(延徳2年)1月に義政が没すると、翌2月にその遺言により夢窓疎石を勧請開山として禅宗寺院に改められました。
東山殿には会所、常御所、釣秋亭、竜背橋、泉殿、西指庵、漱せん亭、超然亭などの大規模な建物が建ち、義政の祖父・3代将軍足利義満が建てた北山殿(後の鹿苑寺)ほどではないものの、ある程度の政治的機能ももっていたといわれています。
その後火災などにより義政が作った建物は次々と失われていき、現在において創建当時と変わらぬ姿をとどめるものは銀閣(観音殿)と東求堂、そして池泉回遊式の庭園のみですが、銀閣(観音殿)と東求堂はともに国宝、庭園も国の特別史跡および特別名勝に指定されています。
金閣、西本願寺の飛雲閣と併せて「京の三閣」の一つ「銀閣」
1489年(延徳元年)に完成した銀閣は正式には「観音殿」といい、義政の祖父にあたる第3代将軍・足利義満が建てた鹿苑寺の舎利殿(金閣)を模して造営されたといわれています(西芳寺の瑠璃殿をまねて建てたとも)
宝形造の2層の楼閣建築で、内外とも黒漆塗で禅寺様式の上層は「潮音閣」と呼ばれる仏堂、住宅様式の下層は「心空殿」と呼ばれ、上層に木像の観世音菩薩坐像、下層に千体地蔵像を安置しています。
「銀閣」と呼ばれるようになったのは上層の禅宗仏殿様式と下層の住宅様式の結び付いた意匠が金閣と似ていたため、そして時期は江戸時代に入ってからのことといわれおり、1658年(万治元年)刊行の「洛陽名所集」にはその名を見ることができます。
ちなみに金閣の金箔同様に銀閣にも銀箔を押す計画があったが財政上の問題から実現しなかったとの説もありますが、義政が茶道を中心とした侘び寂びの禅宗文化に深く帰依していたことを考えると、創建当初から銀箔を貼る計画はしていなかったものと思われ、2007年(平成19年)1月に行われた科学的な調査の結果でも銀箔は検出されなかったと発表されています。
現在は金閣、西本願寺の飛雲閣と併せて「京の三閣」にも数えられています。
日本最古の書院造の遺構「東求堂」
庭園の北側にある東求堂(とうぐどう)は日本最古の書院造の遺構、また内部にある同仁斎は四畳半茶室の原型といわれており、国宝にも指定。仏間には阿弥陀如来像、義政公像が安置されています。
東山文化を代表する池泉回遊式の名園
下段・銀閣前の錦鏡池(きんきょうち)を中心とした池泉回遊式庭園は相阿弥の造築で、瀟湘(しようしよう)八景の意匠により東山文化を代表する名園として知られています。
1952年(昭和27年)には国の特別史跡および特別名勝にも指定されました。
白砂が印象的な方丈前庭の「銀沙灘」と「向月台」
方丈やその前庭のなどの庭園が整備されたのは近世以降のこと。その方丈前庭には印象的な二つの砂盛りを見ることができますが、それぞれ「銀沙灘(ぎんしゃだん)」「向月台(こうげつだい)」と名付けられています。
銀沙灘は中国の西湖を象った白砂を段形に盛り上げ、月の光を反射して銀閣を照らすという趣向で、向月台は背後の月待山に昇る月を見るため、ともに江戸初期に作られたといわれています。
銀閣寺(慈照寺)の施設案内
銀閣寺へは琵琶湖疏水にかかり、哲学の道の北側の起点にもなっている銀閣寺橋からまっすぐ東へと続く参道を歩いていくと、総門のある門前に到着することができます。
ちなみに途中の参道には両側に京都を代表する八ッ橋などの土産物屋や飲食店などが立ち並んでおり、参道商店街が形成されていて賑やかな雰囲気を醸し出しています。
境内の西側にある総門をくぐるとすぐに右折し、南に向けて背の高い銀閣寺垣の参道が数十メートル続きます。
この参道を抜けるとすぐに拝観受付があり、受付を済ませて中門をくぐると、参道を少し進んだ先に拝観入口の小さな門がありここから庭園の中へと入場していきます。
入場するとすぐ左側に本堂(方丈)や東求堂(同仁斎)などの伽藍が立ち並び、更に方丈の前に広がる石庭の中にある、銀沙灘や向月台などの印象的な砂盛りが目の前に飛び込んできます。
一方右側には錦鏡池を中心とした回遊式の庭園が広がっていて、その右手前に銀閣(観音殿)の姿を見つけることができるはずです。
順路としては本堂(方丈)の前を通ってから池の中央付近にかかる龍背橋を渡って池の南側へ、すぐに訪れる分岐を左に曲がり、池の東側をぐるっと反時計回りに進み、東求堂(同仁斎)の横あたりから東に伸びる山道を上がって高台の展望台へと進んでいきます。
境内の東にある高台の展望台からの眺めを楽しんだ後は南へ続く山道を下っていくと、再び錦鏡池に沿って続く参道へと合流。そしてその付近が池の奥に銀閣(観音殿)が見える絶好の撮影ポイントになっています。
ちなみに先ほどの龍背橋を渡ってすぐの分岐を左へ進まずに右へ曲がった場合は、高台の展望台へのルートを省略してこの撮影ポイントへ直接行くこともできます。
その後は池を囲むように続く参道を時計回りに進んでいき、銀閣の南側を通って出口の門を出て銀閣寺垣の所へ戻ってくることができます。
出口の手前には圓通殿という名前の売店と御茶処と手洗所があり、お土産を買ったり休憩してから銀閣寺を後にする参拝客も多く見られます。
総門~受付
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参道入口
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石標
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境内図
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世界遺産の碑
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石畳の参道
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総門
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銀閣寺垣
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拝観受付
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中門
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受付
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参道
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朱印所
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五葉の松
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庫裏(庫裡)
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宝処関(唐門)
銀閣・本堂・東求堂
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拝観入口
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銀閣(観音殿)
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北斗石
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分界橋
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八幡社(護国廟)
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向月台
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仙草壇
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銀沙灘
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本堂(方丈)
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特別拝観受付
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花頭窓
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銀閣寺型手水鉢
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東求堂(同仁斎)
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弄清亭
錦鏡池
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錦鏡池
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仙袖橋
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白鶴島
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仙桂橋
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座禅石
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龍背橋
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大内石
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仙人洲
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迎仙橋
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浮石
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千代の槇
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臥雲橋
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洗月泉
展望所
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参道
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弁財天
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石段
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分岐点
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お茶の井
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漱蘇亭跡
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展望所への石段
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展望所
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展望所からの眺望
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山道
帰路
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分岐点
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濯錦橋
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帰路
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銀閣の屋根
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分岐点
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圓通殿(売店)
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御茶処
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東司(御手洗)
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出口