京都市左京区吉田神楽岡町、市内東部の「吉田山(よしだやま)」に鎮座する「節分祭」で有名な神社。
西側は有名な「京都大学」の本部も置かれ大学の中心をなす吉田キャンパスに面し、東側には「吉田山公園」を挟んで金戒光明寺(黒谷)や真如堂、さらに東には銀閣寺、南には平安神宮などの観光名所が近いという立地にあります。
吉田山は「東山三十六峰(ひがしやまさんじゅうろっぽう)」の一つ、北の比叡山から数えて12番目にも位置し、この一帯は「神楽岡」と呼ばれ古くから霊域として崇められていました。
そしてこの吉田山は都の東北(表鬼門)に位置していたことから、794年(延暦13年)の平安京遷都から数十年後の859年(貞観元年)4月、平安京の守護神として藤原氏北家で中納言・藤原山蔭(ふじわらのやまかげ)が奈良の「春日大社」の四座の神(春日神)を吉田山に勧請して「吉田神社」を創建しました。
春日神は藤原氏の氏神として知られ、784年(延暦3年)の長岡京遷都の際も同様の形で「大原野神社(おおはらのじんじゃ)」が創建されており、吉田神社は後に平安京における藤原氏全体の氏神としても崇敬を受けるようになります。
その後室町後期の文明年間(1469-87)には神道家として有名な卜部氏(うらべうじ)の系譜を引く吉田兼倶(よしだかねとも)が「吉田神道(よしだしんどう)」を創始。
その拠点として室町8代将軍・足利義政の正室・日野富子(ひのとみこ)らの寄付により1484年(文明16年)に境内に末社・斎場所大元宮(さいじょうしょだいげんぐう)が建立されると、朝廷や幕府の支持を集めて権威を高め、江戸時代には全国の神社の神職の任免権を持つなどしてその支配下に置き、明治まで神道界に大きな影響を有していたといいます。
ちなみに日本三大随筆の一つ「徒然草(つれづれぐさ)」で知られる吉田兼好(よしだけんこう)は吉田家(卜部氏)の一門に属する人物です。
当初は吉田二本松町辺りにありましたが、「応仁の乱」が起きた文明年間(1469-87)に現在地に遷座。
そして「春日造(かすがづくり)」で知られる現在の本殿は慶安年間(1648-52)に再建されたものです。
平安京の守護神として創建されてより「導き・厄除け・開運」の神様として崇敬が篤いほか、境内には摂社・末社が多数あり、とりわけ「斎場所大元宮」には全国の式内神3132座が祀られ、日本全国の八百万の神のご加護に授かれることで知られるほか、包丁・料理飲食の祖神「山蔭神社(やまかげじんじゃ)」や菓子の祖神「菓祖神社(かそじんじゃ)」など神様など、様々なご神徳の社があることでも有名です。
そして何といっても「節分厄除詣発祥の地」であり、2月3日の節分当日を中心に前後3日間にわたって行われる「節分大祭(せつぶんたいさい)」は全国各地より50万人の参拝者が詰めかけ、800の屋台も出て賑わう京都の一大行事の一つとして知られています。
主な祭儀としては節分前日に執り行われる「疫神祭(えきじんさい)」、「追儺式(ついなしき)」、そして節分の夜に行われる「火炉祭(かろさい)」があります。
また吉田山山頂の「吉田山山頂公園」は市民憩いの場であるとともに、迫力ある「大文字」を見ることができる「五山の送り火」の観賞ポイントとして有名です。