京都市左京区吉田神楽岡町、京都市北東部に位置する吉田山の山頂に整備され、京都市緑地保全地区にも指定されている公園。
この点「吉田山(よしだやま)は、京都市街地の広がる京都盆地の東側にポツンと浮かぶようにして存在する標高約100m(三等三角点では105mだが、102mや103mとする資料も)、南北400mの孤立丘で、東山三十六峰の12峰目に数えられていますが、実際はそれとは別に京都市街地上に孤立する小高い丘陵地です。
元々京都盆地は周囲の断層帯が地震の度に隆起・沈降を繰り返してできた構造盆地と呼ばれる盆地で、この京都盆地を作り出したのが滋賀県今津町から京都盆地に向かって直線的に延びる全長約50kmの「花折断層」でした。
吉田山はちょうどこの断層帯の南端部に位置しており、この断層帯の末端部に断層活動のエネルギーが集中することで地面が隆起して形成された「末端膨隆丘(まったんぼうりゅうきゅう)」と呼ばれる珍しい地形になったといいます。
歴史的には吉田山ではなく「神楽岡(かぐらおか)」「神楽ケ岡(かぐらがおか)」などと呼ばれていたといい、太古の昔より神がよります神座(かみくら)であったと考えられ、この神座の丘が転訛して「神楽岡」となったといわれ、神が集いし丘として信仰の場所とされてきました。
また吉田神社の社伝によれば、天照大神が岩戸に隠れた際に、諸々の神が神楽を奏でた場所が如意ヶ嶽(大文字山)となり、その後、天孫ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの仲人を務め日本最初の仲人といわれる事勝神(ことかつかみ)と下鴨神社の祭神として知られる賀茂御祖神(みおやのしん)が神代の楽を奏した場所が「神楽岡」となったと伝えられています。
この「神楽岡」の文献上の初出は「類聚国史」における794年(延暦13年)に平安京遷都を行った桓武天皇が「康楽岡(かぐらおか)」で遊猟をしたとの記述であり、その後、平安前期の「延喜式」におい「霹靂神 神楽岡に坐す」の記されているのは吉田神社の創建前より鎮座し現在は吉田神社の摂社となっている「神楽岡社」」のことだといいます。
そして京都盆地にはこの東の標高105mの吉田山(神楽岡)のほかに、西に標高116mの双ヶ丘、そして北に標高112mの船岡山という3つの孤立丘があり、このうち平安京の造営の際には船岡山の正中線(中央をまっすぐ通る線)が平安京の南北の中心線となったとされていますが、その他にも平安宮の大極殿が双ヶ丘と吉田山を結ぶ直線状にあることから、双ヶ丘と吉田山が大極殿の位置の基準となったとも、2つの丘を結ぶ線が一条大路になったともいわれていて、また藤原京の大和三山と対比から船岡山と吉田山、双ヶ丘を平安京の「葛野三山」と名付け、平安京遷都の詔にある「三山が鎮をなす」はこの3つの丘だとする説もあるそうです。
一帯は古くから遊猟地として知られ、また第57代・陽成天皇陵、第68代・後一条天皇菩提樹院陵、第94第・後二条天皇北白川陵など、天皇家の陵墓も設けられた場所でした。
平安初期の清和天皇の代の859年(貞観元年)には、藤原山陰が平安京における藤原氏の氏神を祀る神社として「吉田神社」を創建していますが、この時には「延喜式神名帳」の式内社に吉田神社は含まれず、朝廷の幣も存在しなかったといいます。
平安後期には第77代天皇である後白河法皇の編による「梁塵秘抄」において「吉田野の きのねをわれか やまはやす とて舞ふ見つる 神楽岡かな」「振りたてて 鳴らし顔にぞ 聞こゆなる 神楽の岡の 鈴虫の声」の2首が撰ばれており、鎌倉期には公家の山荘地として開発が進んだようで、中でも親鎌倉幕府派の貴族の筆頭として「承久の乱」以降に太政大臣となり権勢を誇った西園寺家の祖・西園寺公経(さいおんじきんつね 1172-1244)の別荘「吉田泉殿」はよく知られています。
中世には度々戦場となり、有名な所では南北朝時代の動乱を描いた「太平記」において1336年(延元元年)に足利尊氏の軍勢が神楽岡に布陣して南朝方と戦ったことが記されているといいます。
室町期には斎場所が設けられ、吉田神道を大成した吉田兼倶がその拠点とした吉田神社は明治時代まで神道界で強大な地位を獲得し続け、この時期には吉田山の大半が吉田神社の神苑であったといいますが、それと同時に山全体が名所地としても認識されるようになり、江戸時代のガイドブック「都名所図会」や「都林泉名勝図会」からは人々が茸狩りなどの野遊びの場としていたことが窺い知れるといいます。
明治期には吉田山における吉田神社の社地は縮小され、その一方で1889年(明治22年)に市域が拡大され吉田山のある愛宕郡吉田村が京都市に編入されて上京区吉田町となり、翌年には西麓の旧尾張藩屋敷跡地に旧制第三高等学校、現在の京都大学が開校され、学生のための賃家や飲食店、雑貨店などの店が相次いで開業するなど学生街が形成され、都市化の先駆けとなりました。
更に明治末期から大正初期にかけて市電が拡張や百万遍までの東大路通の整備などが進むと、これと並行して1922年(大正11年)には都市計画区域指定がなされ、都市計画に従って吉田山以東での住宅開発が進行。京都の夏の風物詩である「五山の送り火」の大文字の火床を眺めることができる東側斜面はたちまち高級住宅街となりました。
そしてその先陣を切ったのが新聞用紙を中心に扱う運輸業(現在の谷川運輸倉庫株式会社)で財をなし裏千家の老分(長老)としても遇された谷川茂次郎(茂庵)(たにがわしげじろう 1864-1940)で、吉田山の北東部を買い取り、昭和初期に東山と向き合う山の斜面一帯に茶室8席と月見台、楼閣などを有する広大な数寄の茶苑「茂庵庭園」を造営して大規模な茶会などを開催したと伝えられていて、現在も8席のうち田舎席(いなかせき)と静閑亭(せいかんてい)の2つの茶室および旧点心席と待合が現存し、カフェやイベントスペースなどとしても使用されており、2004年(平成16年)には京都市の登録文化財にも登録されています。
また谷川は茂庵庭園とは別に大正末期に吉田山の東麓、中腹から麓にかけて銅板葺の上質な借家群「谷川住宅」を建設し、京都大学の教官や芸能・文化関係者を多く住まわせたといい、石畳の参道や基礎部分の石垣の景観とも相まってこれらの建物は現在は大正時代を思い起こさせるレトロモダンな住宅群として知る人ぞ知る名所となっています。
また南東部側の土地には昭和天皇の義弟(香淳皇后の弟)にあたる旧皇族で青蓮院門跡の門主も務めた東伏見慈洽が京都大学で学んだ後、教鞭を取った京都大学への通学・通勤のために昭和初期の1932年(昭和7年)に建造した東伏見宮家の別邸があり、1948年(昭和23年)からは料理旅館「吉田山荘」として営業を続けており、こちらも2012年(平成24年)には国の登録有形文化財に認定されています。
現在の吉田山は緑豊かな「吉田山緑地」として京都市の「特別緑地保全地区」にも指定され、西の中腹に吉田神社、西麓には京都大学、東側には前述の茂庵や谷川住宅の大正時代の町並みなどがあり、山頂付近には山頂三角点の近くに旧三高(現京都大学)の寮歌「紅萌ゆる丘の花」記念碑が建ち、山頂へ向けての遊歩道や休憩広場、トイレなども整備されて市民や神社の参拝客、大学に通う学生などの憩いの場となっています。
また行事としては地名の由来にもなっている吉田神社において毎年2月に開催される「節分祭」は壬生寺の節分会とともに京都でも有数の節分行事として多くの参詣客で賑わうほか、8月16日の「五山の送り火」ではメインの送り火でもある「大文字」の送り火が間近に見えるスポットとして、多くの見物客が訪れることで知られています。