京都府舞鶴市吉田、舞鶴西港から府道601号を海沿いに北へ進んだ先の吉田地区にある曹洞宗寺院。
山号は金剛山、本尊は薬師如来。
江戸中期に村全体を焼き尽くした大火により寺の由緒書などが焼失しており創建の詳しい経緯は不明ですが、江戸後期の1812年(文化9年)に著された「瑠璃寺過去帳」によれば、江戸初期の1609年(慶長14年)に桂林寺の住僧であった大渓がを開山したとあり、また本来は曹洞宗寺院は釈迦如来を本尊とするところ本尊として薬師如来が祀られていることから、それよりも更に古い時代、鎌倉時代の元応年間(1319-20)に遡る寺の縁起があったものと考えられています。
そして小さな寺院ではあるものの境内にある「吉田のしだれ桜」で舞鶴でも有数の桜スポットとしてその名を知られています。
戦国時代に第106代・正親町天皇(おおぎまちてんのう 1517-93)の勅勘を蒙り1580年(天正8年)から19年間、丹後国に配流となったた京都の公卿で権中納言・中院通勝(なかのいんみちかつ 1556-1610)を慰めようと、当時の田辺城主で通勝の歌の師でもあった細川幽斎(藤孝)(ほそかわゆうさい(ふじたか) 1534-1610)が、自身の生誕の地である京都・吉田山の桜を移し植えたのがはじまりといわれ、以後この地は「吉田」と呼ばれるようになったといわれています。
この点、細川藤孝(幽斎)は安土桃山時代に活躍した戦国大名で、足利将軍家に仕えた後、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に重臣として遇され、1573年(天正元年)には長岡京の勝竜寺城、1580年(天正8年)に丹後国・宮津城を治めていましたが、「本能寺の変」では嫡子・細川忠興が明智光秀の娘・玉(細川ガラシャ)であったにも関わらず光秀には味方せず、剃髪して「幽斎」と号し田辺城に隠居して細川家を守ることに成功し、その後、細川家は「関ヶ原の戦い」では東軍に属して豊前・豊後にて39万石の大大名となり、更に1632年(寛永9年)には加藤清正の没後に改易・断絶となった加藤家に代わり幕末まで肥後国熊本藩の藩主ととして家名を存続することになります。
その一方で文化人としても当時から有名で、千利休から茶を、また三条西実枝(さねき)からは和歌を学び古今伝授を受けられていて、「関ヶ原の戦い」の際に西軍によって田辺城を包囲された際に、歌道の絶えることを恐れた後陽成天皇の勅命で和睦が成立したことは有名です。
一方、中院通勝は丹後に下った後、1586年(天正14年)に出家して「也足軒法素然」と号し、和歌に優れ細川幽斎に「古今和歌集」を学び古今伝授の正統を継ぐとともに、古典研究の分野でも源氏物語の注釈書「岷江入楚(みんごうにっそ)」55巻を著すなど優れた功績を残している人物です。
通勝が丹後国に左遷されると幽斎は瑠璃寺よりやや南東の沖合に浮かぶ小島に小庵を結んで住まわせ、幽斎は舟で城と島を行き来して親交を深めたといい、ある年の大晦日に二人が夜が更けるのも忘れて歌に興じ遂には元日を迎えてしまったことから「年取島」と名付けたというエピソードも残されていて、その後通勝は関ヶ原の戦いの前年に許されて朝廷に戻っていますが、田辺籠城戦の際には朝廷の交渉人として、終戦時には和議勅使の一人にもなったといいます。
また瑠璃寺の開山とされる大渓も、田辺龍城戦の際に細川幽斎を助けるために袈裟を旗印にかかげて城内に入り、共に戦ったと伝えられていて、瑠璃寺と幽斎には強い結び付きがあったことが窺い知れます。
現在は樹齢300年以上といわれる高さ7m、幹周2.52mの古木とその2代目および3代目の2対の若木の桜があり、境内の石垣の上から駐車場に向かって大きく垂れ下がる姿はさながら桜の滝のような趣で、1977年(昭和52年)には「古木と若木が織りなす開花期の景観の素晴らしさ」により、舞鶴市指定文化財(天然記念物)にも指定されていて、春には多くの見物客が訪れ、見頃の時期には夜間ライトアップやキャンドルイルミネーション、ミニコンサートなどのイベントも開催されています。
ちなみに古木のしだれ桜から数えて「2代目の桜」は門前の嵯峨根堅治氏が大正末期に苦心の末に取木に成功したもので、「3代目の桜」は瑠璃寺総代・嵯峨根正利氏が京都府緑化センターに依頼されて育苗に成功した後、2001年(平成13年)に市長や関係者が多数出席する中で盛大に植樹されたものといい、更にその3代目の予備の1本が2003年(平成15年)に幽斎の生誕の地にしてしだれ桜の故郷とされる京都吉田山にある吉田神社と友好関係が結ばれた後、2004年(平成16年)2月に穂木が贈られて吉田神社大元宮に「里帰りの桜」として植樹されています。