「八ツ橋」は京都の名物として有名な和菓子の一つで、米粉を湯でこねて砂糖で味つけ、肉桂(ニッキ・シナモン)で香りづけをして蒸したものを、薄く伸ばして短冊形に切ったもの。
これを鉄板で焼いて煎餅にした「八ツ橋煎餅(せんべい)」が八ツ橋と呼ばれる和菓子の元祖であり、堅い歯ごたえとニッキの香りをその特徴的としています。
この点、八ッ橋の起源には2つの説があるといわれています。
1つ目は江戸前期に活躍した盲目の音楽家・八橋検校(やつはしけんぎょう 1614-85)に由来しているというもの。
盲人が就く役職としては最高位である「検校」の位に就任し、「六段の調(しらべ)」など現在まで残る箏曲の名曲を多く生み出した箏曲の始祖といわれる人物で、平素より節倹を旨とし、流しのざるに溜まった米を粉にひいて飴を加え、堅焼きの煎餅を作って茶の子に供したといわれています。
そして没後の元禄年間(1688-1704)のこと、検校の墓は金戒光明寺の塔頭・常光院(八はしでら)に作られましたが、その徳を偲んで墓参に訪れる人は絶えることがなかったといい、検校の箏(琴)を模ったせんべい状の焼き菓子を「八ツ橋」と名付け墓に詣でる検校の弟子たちに販売したしたのがはじまりといわれています。
また一説には「昔、男(ありけり)」の冒頭句ではじまる平安前期の歌物語で、在原業平を思わせる人物を主人公とした「伊勢物語」の第9段「かきつばた」の舞台である三河の国の八橋にかけて、8枚の橋板を模したせんべい状の焼き菓子が八ッ橋の元祖だという説もあるといわれています。
八ツ橋が現在のような土産物としての地位を築いたのは、京都に鉄道が通るようになった明治初期の1877年(明治10年)に京都駅にて西尾松太郎が八ツ橋を販売するようになって以降のことといわれています。
その後、松太郎氏の子・西尾為治(1879-1962)が明治からしょうわしょきにかけて世界の博覧会に八ツ橋を出品し、1900年(明治33年)開催のフランスのパリ万博で銀賞を受賞するなど、数多くの賞を受賞することで海を越えた評判を獲得。
更に1915年(大正4年)に京都で大正天皇の即位式が行われた際に移転・改装された京都駅で八ッ橋を販売すると大いに売れたといい、西尾為治は八ッ橋業界の中興の祖として讃えられ、八ツ橋発祥の地である「聖護院の森」に境内を有する京都熊野神社には、「八ツ橋発祥の地」の石碑とともに西尾為治の銅像が設置されています。
西尾為治はその後1926年(大正15年)4月に「玄鶴軒」の屋号で行っていた八ッ橋の製造・販売事業を法人化して「株式会社聖護院八ツ橋総本店」を設立しますが、1930年(昭和5年)に個人としての破産が確定して取締役から去り、聖護院八ツ橋の経営権はその後は同社の専務だった鈴鹿太郎とその一族である鈴鹿家に現在まで引き継がれています。
その一方で1947年(昭和22年)には聖護院を去った西尾為治氏の長男・西尾為一が個人で八ッ橋の製造販売を開始し、5年後に「本家八ッ橋聖護院西尾」の名で法人化。聖護院の訴えにより社名を「本家八ッ橋西尾」と改めて現在に至っています。
これ以外にも本家西尾八ツ橋と分かれてできた「八ツ橋屋西尾為忠商店(元祖八ツ橋)」や、1805年(文化2年)に祇園の地で創業した「井筒八ッ橋本舗」、1850年(嘉永3年)創業の「聖光堂八ッ橋総本舗」、そして1957年(昭和32年)から八つ橋の製造を始めた株式会社美十(現在のおたべ)などが知られています。
そして第二次世界大戦後、1960年代からは焼かないで一定サイズに切り出した「生八つ橋」が発売されるようになり、現在ではこちらの方が人気を集めるようになっています。
純粋に生地だけのものと二つ折りにして小豆あんを挟んだものがあり、とりわけ餡入りの生八つ橋が発売されると、爆発的なヒットとなり、京都を代表する観光土産としての地位を不動のものとしました。
統計調査によると京都観光のお土産として菓子類を購入する観光客は96%で、そのうち八ツ橋の売上は全体の45.6%(生八ツ橋24.5%+八ツ橋21.1%)を占めるといいます。
「井筒八ッ橋本舗」は江戸後期の1805年(文化2年)に初代・津田佐兵衞が祇園の地で創業。
祇園の花街は八坂神社や清水寺、知恩院などの参拝客を相手する茶屋から発展し、その後、七軒の櫓(芝居小屋)が認可されると、一大歓楽街に発展していました。
その祇園の地にて1603年(慶長3年)より創業していた「井筒茶店」との関わりを持つ初代が、「井筒」を創業し茶菓子や米、味噌、醤油、砂糖などの販売と井筒茶店の仕出しを行ったのがはじまりとされています。
そして八ッ橋の起源については箏曲八橋流の創始者・八橋検校が、日頃世話になっていた元禄期の井筒茶屋の主人・岸野治郎三が飯びつや桶を洗っている時、残った米を捨ててしまうのはもったいないと、米に蜜と桂皮末(シナモン)を加えて堅焼煎餅を作ると良いと教え、その後検校が亡くなった後、井筒茶店を含む祇園の茶店中で検校を偲んで琴の形を模した堅焼煎餅を「八ッ橋」と名付けて売り出したのがはじまりとしています。
その後当社の販売する堅焼煎餅「井筒八ッ橋」はその後1949年(昭和24年)に昭和天皇・皇后両陛下に献上され、1965年(昭和40年)の第16回「全国菓子大博覧会」では名誉総裁賞を受賞。
また戦後に焼かない「生八つ橋」が人気を博するようになりますが、当社ではいち早く1947年(昭和22年)に五代・津田佐兵衞によって「つぶあん入り生八ッ橋」が創作発表され「夕霧」と命名されました。
当時祇園の南座に出入りしていた五代佐兵衞が劇作家の高谷伸や歌舞伎俳優の林又一郎、片岡仁左衛門丈らと相談し、客に喜んでもらえる歌舞伎にちなんだ上菓子をと考案したもので、名前は夕霧太夫と恋人・藤屋伊左衛門を描いた歌舞伎「廓文章」から採られています。
更に1972年(昭和45年)には夕霧の姉妹品となるつぶあん入り生八ッ橋が発表され、その後1974年(昭和49年)に金閣寺で起こった火災を題材に主人公・片桐夕子と僧侶・正順との純愛を描いた水上勉作の小説「五番町 夕霧楼」の主人公にちなんで叙情銘菓「夕子」と命名され、様々な季節限定の商品が開発されるなど井筒を代表する看板商品となっています。
現在は祇園本店のほかに清水や嵐山などの観光名所にも販売所を設けているほか、京都市内で唯一自身の手作り八ッ橋を持ち帰りできる八ッ橋手焼き体験「井筒八ッ橋本舗 京極一番街南錦小路」、業界初の生産ラインが見学できる工場・売店として追分店(京都東インター店)なども開設され、関連会社も多数抱えるなどし、幅広く事業を展開しています。
現在祇園本店のある北座ビルのある付近は江戸中期に四条通に立ち並んでいた七つの芝居小屋のうち、北座があった付近に建てられており、北座は1893年(明治26年)に四条通の拡張に伴って閉鎖されて現在は「北座跡」の石標と駒札が残るのみであるものの、復刻された櫓のある北座ビルが当時の佇まいを今に伝えています。
「祇園本店」は2002年(平成14年)に祇園店から名称変更され、店舗を改装拡大し、ビル名も「井筒八ッ橋本舗北座ビル」としてオープンされ、現在は1階に「祇園本店」の店舗があるほか、2階には食事や甘味を提供する「井筒茶店」、4階に旬の味覚を生かした京料理を提供する食事処の「京料理井筒」、そして5階には祇園や京の街に因んだ写真や資料を展示する特別展や常設展を開催する「ぎをん思いで博物館」が入居しています。
井筒八ッ橋本舗が関連する行事としては八橋検校の命日にあたる毎年6月12日に金戒光明寺の塔頭・常光院(通称八はしでら)にて開催されている八橋検校の遺徳を偲ぶ報恩忌「八橋祭」が有名。
1949年(昭和24年)に五代・津田佐兵衛が八ッ橋工業協同組合の理事長として第1回を開催して以来、報恩感謝、社業の発展を誓う日として継続して行われています。
そして毎年11月の第2日曜日には夕霧太夫を偲んで島原の太夫による太夫道中と法要が営まれる「夕霧祭」が夕霧大夫の生誕地にほど近い嵯峨嵐山の清凉寺(嵯峨釈迦堂)にて行われていますが、この行事は六代・津田佐兵衛が1960年(昭和35年)に世話人として「夕霧の会」を起こしてその年の3月27日に第1回「夕霧の会」法要を行ったのがはじまりです。
また日本で最初に小豆を栽培された嵯峨嵐山の小倉の里にて小倉大納言小豆の栽培を復活させる取り組みにも力を入れており、2002年(平成14年)に小倉の里にある二尊院の境内に「小倉あん顕彰碑」を建設するとともに、毎年3月下旬の日曜日には「小倉あん発祥地 顕彰式」が開催され、式典終了後に小倉ぜんざいが振舞われます。