京都市下京区四条通河原町西入真町、京都でも有数の繁華街である四条河原町交差点の南西角にある大型百貨店。
江戸後期の1831年(天保2年)1月10日、初代・飯田新七(いいだしんしち 1803-74)が京都の烏丸松原、現在の平等寺(因幡薬師)の向かいあたりで、古着・木綿商「高島屋(たかしまや)」を創業したのがはじまり。
初代新七は越前国(福井県)敦賀の中野宗兵衛の子として生まれ、12歳で京都に出て呉服商・角田呉服店での奉公を経た後、1828年(文政11年)、26歳の時に米穀商「高島屋」の主人・飯田儀兵衛の長女・秀と結婚し婿養子となります。
ちなみに屋号が「高島屋」であったのは飯田家が元々は琵琶湖の湖西、近江国高島郡(現在の滋賀県高島市)の出身であったためといいます。
そしてその後、分家して古着と木綿を扱う行商を始め、本家と同じ「高島屋(たかしまや)」の屋号で創業したのでした。
天保の改革下での厳しい倹約令が施行される中で古着屋は時代の流れに合致し、また新七の誠実な仕事ぶりは一層人々の評判となり店は繁盛。
初代新七が1874年(明治7年)にに亡くなった後の高島屋では代々が新七を名乗り、1888年(明治21年)に襲名した四代目によって近代化が図られていくとともに、1898年(明治31年)には大阪、1900年(明治33年)には東京にも進出します。
一方創業地である烏丸の店は幾度かの改築はなされたものの古いままでしたが、明治末期に烏丸通が天皇の行幸道路として拡張されるのをきっかけに最新式の鉄筋コンクリートによる本建築に建て直すこととなり、1912年(明治45年)6月1日に完成。
土蔵造風の3階建の大きな建物で、耐火耐震設備が施されるとともに貿易店や陳列場も併せ持つ総合的店舗に生まれ変わります。
その後1919年(大正8年)8月20日に「株式会社髙島屋呉服店」として会社設立され、1922年(大正11年)には当時の大阪のメインストリートであった堺筋の長堀橋に大阪店を構えますが、その後御堂筋の拡張計画が発表されメインストリートが御堂筋へと移動することが決まったのを受け1932年(昭和7年)には、大阪・難波に南海ビルディングを完成させ南海店がオープンします。
その後1939年(昭和14年)に長堀店は閉店となり、南海店に統合するとともに以降南海店が大阪店と呼ばれるようになりました。
そして1933年(昭和8年)には東京・日本橋にも進出し日本橋店が開店。
地下2階地上7階建でイタリアから取り寄せた大理石や豪華なシャンデリアを吊るすなど贅を尽くした建造物は、その後時を経て東京都の歴史的建造物となり、2009年(平成21年)には日本の百貨店建築では初となる国の重要文化財に指定されています。
戦後に入ると、1959年(昭和34年)には相模鉄道と合弁して別会社を設立する形で横浜髙島屋を開店させ、その後も全国展開を進め、現在では京都、大阪をはじめ、東京・日本橋や新宿、横浜、名古屋など、全国に店舗を持つ大手百貨店へと成長を遂げています。
ちなみに高島屋といえば「バラ」のデザインの包装紙でおなじみですが、このデザインは薔薇(バラ)が四季を問わず多くの人々に慕われ、昔から美のシンボルとされているとして1952年(昭和27年)9月1日より採用され、以降バラは髙島屋のシンボルとなっています。
一方創業の地である京都では1912年に新たな店舗が新築されたものの、時代が進み昭和期に入って各地で百貨店の近代化が図られていく中では手狭となり、移転・増床が計画されることとなり、そこで白羽の矢が立ったのが1931年(昭和6年)より野田阪神、大正橋を皮切りにチェーン展開が開始されていた「髙島屋均一ストア」を借家で出店していた四条河原町の南西角の地でした。
複数の土地の所有者たちと交渉して高栄土地建物という会社を共同で出資・設立し、1937年(昭和12年)から新店舗の建築が開始されることになりますが、ところが時代は戦時下、不急不要の建築は禁止となり、鉄材を戦争資源に集中しようと鉄鋼工作物築造許可規則が発令されたことから、1938年(昭和13年)に工事中止を余儀なくされ、戦中戦後と、烏丸通松原上ルで営業を続けることになったのでした。
そして戦後すぐの1948年10月1日にようやく現在地に移転がなされ、更に1950年(昭和25年)、1951年(昭和26年)には増築も行われていますが、正面玄関左横の土地の一部が買収できなかったため、建物の外観は凹んだ歪な形を余儀なくされたといい、5,120㎡の用地に地上7階・地下2階のビルが建造されました。
その後、高島屋の創業の地の烏丸の店舗は、昭和27年(1952)8月をもって閉店となります。
そして由緒ある烏丸店の売却先については厳選の後、地域社会の発展に寄与する公共的な機関で、京都の地元銀行であるとの理由から、最終的には1953年(昭和28年)の春に「京都銀行」が譲り受けて入居することとなり、昭和30年代末まで京都銀行によって使用され続けた後、1966年(昭和41年)8月に現在の「京都銀行本店ビル」へと建て替えられました。
現在、高島屋の創業地である京都銀行の本店前には、2014年(平成26年)10月8日に高島屋と京都銀行の合同で記念碑が建てられて、往時を偲ぶことができます。
現在の京都タカシマヤは阪急京都線の河原町駅に地下で直結し、世界の有名ブランドや国内の大手メーカー、京都の老舗などが店舗を構え、婦人服、紳士服、食料品などを中心に品揃えが充実。世界中から多くの観光客が集まる観光都市・京都の中心に位置していることから、国内外から観光で訪れる客の利用も多いといいます。
地域向けのイベントや催事への参加を積極的に行っており、7階のグランドホール(展示会場)では年十数回、幅広いジャンルの時代に即した企画展を開催しており、「大北海道展」や「京の味ごちそう展」などは古い歴史を持つ人気イベントとなっています。
また1909年(明治42年)にはすでに美術部が創設され、早くから芸術家の支援や作品の収集・販売を行い、日本の近代美術史を語る上で重要な役割を果たしてきた歴史を持つことから、国内外の作家、美術館所蔵による絵画や工芸展、いけばな展なども数多く開催されています。