京都府京都市東山区中之町、四条川端東入る南側、四条河原町から四条大橋を渡って八坂神社方面へ行く途中、鴨川に架かる四条大橋の東詰南側にある、主に歌舞伎を上演する劇場。
松竹が経営する劇場で、正式名称は「京都四條南座(きょうとしじょうみなみざ)」。
外観に桃山風の意匠を取り込んだ地上4階地下1階の近代建築は、国の登録有形文化財にも指定されています。
南座のある鴨川の四条河原の地は、室町期から田楽や猿楽の勧進興行がたびたび催されていた芸能の地でした。
戦乱の世が続いた「応仁の乱」の後は一時途絶えますが、江戸初期、慶長年間(1596-1615)の1603年(慶長8年)には出雲の阿国が「かぶき踊り」を披露して衆目を集めたことで知られ、同地は「歌舞伎発祥の地」とされ、現在四条大橋の東詰北側にはそれを顕彰して出雲の阿国が建立されています。
そして元和年間(1615-24)には、京都所司代によって公許、すなわち公に許可された幕府公認の芝居小屋が四条通に面して南側に3軒、北側に2軒が向かい合い、大和大路上ル常盤町にも2軒と、計7座存在していたといい、南座もその7つの櫓(やぐら)の一つでした。
その後火事での焼失や興行の中心が大坂に移ったことなどから、7座は統合・廃絶されてその数は次第に減少していき、江戸中期、元禄年間(1688-1704)の初めには四条通の南北の「南の芝居(南座)」と「北の芝居(北座)」、大和大路の西の「西の芝居」の3座となります。
更に残った3座のうち「西の芝居」は1794年(寛政6年)の大火後は再建されず2座となり、南座の向かいにあった北座も明治中期の1892年(明治25年)の四条通の拡張に伴って閉鎖され、その結果、南座のみが残されることとなりました。
ちなみに座名については古くは座本名で呼ぶのが慣例で一定しませんでした(主な名代は都万太夫、早雲長太夫、亀屋粂之丞、布袋屋梅之丞ら)が、幕末には四条通の南側にあったことから「南の芝居」「南側の芝居」と呼称され、この劇場だけが生き残ることとなった明治中期以後に現在の「南座」の名称が定着しました。
1906年(明治39年)には白井松次郎、大谷竹次郎の兄弟の松竹(松竹合名社)の所有・経営となり現在に至っており、元和年間(1615-23)に存在した七つの櫓の伝統を現在に伝える唯一の劇場であると同時に、同一の場所で今日まで興行を続けてきたという意味では、日本最古の劇場であるといいます。
現在の建物は1929年(昭和4年)に建築されたもので、木造時代の桃山式、破風(はふ)造りで古風な櫓(やぐら)の外観を残しつつ、鉄筋コンクリート造の近代的建築となりました。
その後1991年(平成3年)に当時の松竹株式会社会長・永山武臣による大規模改築が行われ、京都の歴史的景観に溶け込むよう桃山風の外観はそのままに内部の全面改修を行い、最新設備を整えた近代劇場となり、同年11月に「新装開場記念 吉例顔見世興行」が催されています。
1996年(平成8年)には国の登録有形文化財に登録され、後に京都市の歴史的意匠建築物にも指定されています。
そして2016年(平成28年)1月に一時休館し、耐震補強をはじめとする改修工事が進められた後、2018年(平成30年)11月の吉例顔見世興行にてリニューアルオープンとなり、同月には錚々たる顔ぶれの歌舞伎役者たちが集結し「南座新開場祇園お練り」が開催され話題を集めました。
京都唯一の歌舞伎劇場であり、毎年毎年11月末日から12月末まで行われる「吉例顔見世興行」は戦中も一度も絶えることなく続いている年中行事で、京都の冬の風物詩として知られています。
そして役者の名前を勘亭流で書いた「まねき」と呼ばれる白木の看板が劇場の入り口上にずらりと並べられることで有名なほか、各花街の芸舞妓たちが観劇に訪れる「花街総見」も有名です。
また2018年のリニューアルオープンでは、客席をフラットにすることで大きなステージへと変身させる機能が追加され、歌舞伎以外にも各種の商業演劇やイベントが数多く開催・上演されるようになっています。