京都市東山区八坂鳥居前東入円山町、円山公園の東奥、八坂神社の南楼門を出て左(東)へまっすぐ続く坂を上がった突き当たりにある時宗遊行派の寺院。山号は黄台山(おうだいさん)、本尊は准胝世観音菩薩。
平安初期の805年(延暦24年)、桓武天皇の勅命により伝教大師最澄が天台宗の寺院として創建したのがはじまり。
当初は比叡山延暦寺の別院として建てられましたが、法然の弟子・隆寛(りゅうかん 1148-1228)がこの寺に居住して念仏を広め多念義または長楽寺流と呼ばれるなど鎌倉初期には浄土宗、更に室町初期に僧・国阿(こくあ)が一遍を開祖とする時宗に改宗し、1906年(明治39年)には時宗遊行派の総本山格であった名刹・七条道場金光寺と合併しています。
この点、江戸時代までは円山公園の大部分を含む東山一帯に広大な寺域を持った有名寺院でしたが、1653年(承応2年)の東大谷(大谷祖廟)の建設に伴い幕命によって境内地を割かれ、明治初年には境内の大半が円山公園に編入され今日に至っています。
本尊の准胝観音は最澄が唐への旅の途中に嵐で遭難しかけた際に観音を乗せた2頭の龍が表れて嵐が鎮まったといい、その姿を最澄が自ら刻んで本尊としたという非常に珍しい像で、歴代天皇の即位式および厄年に勅使が来られた時だけ開帳されたといい、現在も新天皇の即位のときのみ開帳される慣習は守られており、2019年(令和元年)の新元号への改元の際にも公開されました。
そして高倉天皇の中宮で「壇ノ浦の戦い」にて8歳で入水した安徳天皇の生母となった、平清盛の娘・徳子(建礼門院)が平家が滅亡した後に源氏に捕らえられて京都に連れ戻された際、侍女の阿波内侍とともに29歳でこの寺で落飾・出家し直如覚となった「平家物語」ゆかりの寺院で、境内にある供養塔には徳子の遺髪が納められていると伝えられているほか、江戸後期の儒学者で史家でもある頼山陽・頼三樹三郎親子の墓があることなどでも知られています。
更に京都有数の観光名所である東山の山麓にあり、古来より「洛中随一絶景の霊地」としてその景勝を愛でられ、その美しさから「今昔物語」や長楽寺で修行した西行法師の「山家集」「平家物語」など、平安時代より有名な古典にも数多く取り上げられてきた由緒ある寺院です。
高台に位置する境内からは京都市内が一望でき、本堂のほかに鐘楼、建礼門院塔、庭園拝観所、茶室、国指定重要文化財などを収める収蔵庫などがありますが、その中でも庭園拝観所から眺める「相阿弥作の園池」が一番の見どころです。
室町時代に活躍した作庭家・相阿弥(そうあみ)が室町8代将軍・足利義政の命によって銀閣寺に庭園を造る際に試作として作庭したといわれていて、東山を借景に東山山腹から湧き出る水を利用して池や滝などが造られており、古くは祇園・清水と並んで花の名所とうたわれ多くの文人や画家が訪れるなど四季折々の草花が楽しむことができます。
とりわけ秋の紅葉の時期は美しく、紅葉の隠れた名所として有名で、頼山陽も「時雨をいとう から傘の 濡れても もみじの長楽寺」と歌を残しており、この地の景勝をこよなく愛したゆかりの人々を偲び、毎年11月23日には「紅葉祭り」も開催されています。
また建礼門院が我が子・安徳天皇が壇ノ浦で入水する直前まで着ていた直衣で縫ったという仏幡「安徳天皇御衣幡」をはじめ、上から黒塗りして源氏の目から隠していたという「建礼門院御影」や無邪気に遊ぶ様子を描いた「安徳天皇画像」、更には時宗の宗祖「一遍上人像」や布袋尊像など、重要文化財7体など古くから伝わる数多くの寺宝が宝物館に収蔵されており、毎年春と秋の特別展で公開されています。
この他にも本尊の准胝観世音菩薩が「洛陽三十三所観音霊場」の第7番、堂内の布袋尊像が「京都七福神」の札所の一つに数えられているほか、住職によるお点前や茶道のミニ体験会が開催されていること、更には参道入口にて風情ある甘味所「紅葉庵」を、また寺から少し離れた円山公園にほど近い八坂神社の前で宿坊「遊行庵」を運営していることなのでも知られています。