足利将軍室町第址(花の御所)

足利将軍室町第址(花の御所)

 

 

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足利将軍室町第址(花の御所)とは?(基本データ)

名前
足利将軍室町第址(花の御所)(あしかがしょうぐん むろまちだいあと(はなのごしょ))
エリア
京都御所
ジャンル

屋敷・住居・建造物跡

建立・設立
室町幕府3代将軍・足利義満が1378年(永和4年)に造営し「室町御所」あるいは「花の御所」と呼ばれ政治の中心となる
1467年(応仁元年)、「応仁の乱」の戦火で焼失
文明年間(1469~87)など何度か再建を経て、1559年(永禄2年)、第13代将軍・足利義輝が旧管領斯波武衛家の室町中御門邸跡(現在の平安女学院付近)に二条御所(旧二条城)を造営し幕府を置いたことに伴い廃止
1915年(大正4年)、京都市教育会により「足利将軍室町第址」の石碑が建立される
アクセス
駐車場
なし
拝観料
なし
お休み
特になし
拝観時間
見学自由
住所
〒602-0034
京都府京都市上京区室町通今出川上ル東側(室町通今出川東北角)
電話
-
FAX
-
公式サイト
花の御所 京都市
西陣・相国寺・下鴨 公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所
千本西陣 公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所

足利将軍室町第址(花の御所)の地図

足利将軍室町第址(花の御所)のみどころ (Point in Check)

京都市上京区室町通今出川上ル東側、烏丸今出川交差点の北西側にあった室町幕府第3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ 1358-1408)が造営した足利将軍家の邸宅「室町殿」の跡地で、同邸宅は室町幕府が置かれた場所であることから「室町御所」とも呼ばれました。

範囲は東西は室町通から烏丸通まで約110m、南北は上立売通から今出川通まで約220mの東西一町、南北二町の規模で、現在の京都御所がある京都御苑の北西、烏丸今出川の交差点を挟んで斜向かいの一角に位置していたといい、その敷地面積は当時御所の位置にあり北朝の主たる皇居として定着しつつあった当時の御所「土御門東洞院内裏」の2倍にも及んだといいます。

この点、南朝の第96代・後醍醐天皇(ごだいごてんのう 1288-1339)と対立して室町幕府を開いた足利尊氏(あしかがたかうじ 1305-58)は、北朝を後見するため二条高倉に住み、2代将軍・足利義詮(あしかがよしあきら 1330-67)は父の命で鎌倉から京都に戻った際に尊氏の弟・足利直義(あしかがただよし 1306-52)が邸宅としていた「三条坊門殿(さんじょうぼうもんどの)」に入りこれを居所とし「三条御所」と呼ばれていました。

そしてその位置は当初は三条坊門高倉の南東に一町、すなわち現在の御池通と高倉通の交差点の南東角、現在「御所八幡宮」が鎮座する場所にありましたが、義詮の将軍就任後にやや東の三条坊門万里小路の南東、現在の御池通と柳馬場通の交差点の南東角、柳八幡町付近に新たな邸宅を造営し、跡地には新しい三条坊門殿の鎮守として八幡宮が建てられ、これが現在の御所八幡宮の起源と考えられています。

一方「室町第」があった北小路室町(現在の今出川室町)の地には元々は西園寺流四家の一つである室町家の邸宅「花亭」がありましたが、2代将軍・足利義詮の時代にこれを室町季顕(むろまちすえあき)より買い上げて足利将軍家の別邸としました。

義詮の没後は北朝3代天皇である崇光上皇(すこうじょうこう 1334-98)に献上されて1368年(貞治7年)に院御所が建てられましたが、1377年(永和3年)に焼失し。この時に南側に隣接していた左大臣・今出川公直(菊亭公直)(いまでがわきんなお 1335-96)の邸宅「菊亭(今出川殿)」も焼失しています。

翌1378年(永和4年)3月、3代将軍・足利義満は崇光上皇の院御所跡と、今出川公直の菊亭跡とを合わせた広大な敷地に足利将軍家のための邸宅の造営を開始。新しい邸宅が造営されると、それまで居所としていた三条坊門第から移り住み、その後も工事が続けられて完成し、1381年(永徳元年)には北朝第5代・後円融天皇(ごえんゆうてんのう 1359-93)の行幸を仰いでいます。

そしてこの邸宅は室町通に面して正門が設けられたことから「室町殿(むろまちどの)」あるいは「室町第(むろまちてい)」と呼ばれ、足利将軍がこの地を居所とした、すなわち幕府を置いたことにちなんで足利幕府は「室町幕府」と呼ばれることとなりました。

義満は栄華に任せて豪奢を極め多くの殿舎を建造したといい、史料によれば花邸、北御所、南御所、下宿所、下亭など、南北2つの区画で構成されたことや、寝殿、中門、透渡殿、対屋、釣殿、東向小御所、泉殿の建物名から、貴族邸宅風であったことも分かっています。

また庭園には鴨川から水を引き、各地の守護大名から献上されたという四季折々の花木を植えたといい、庭園美を極めたこの邸宅は「花の御所(はなのごしょ)」とも称され、ここに天皇や関白を招いて詩歌や蹴鞠の会を催し、まさしく室町時代の政治・文化の中心地となりました。

この内裏のすぐ北側にあった室町第(花の御所)に幕府が移ったことで、商工業者の町となった「下京」とは対照的に「上京」は政治の中心となり、公家のみならず武家も屋敷を構えるようになるとともに、周囲には門跡寺院や武家の菩提寺なども次々と建てられていきました。

中でも1382年(永徳2年)に義満自身の手によって花の御所の東側に開創された「相国寺」は、約10年をかけ1392年(明徳3年)に完成させた一大禅苑で、現存はしていませんが1399年(応永6年)に高さ360尺(約109m)、東寺の五重塔の2倍もの高さの七層の宝塔「七重塔」が建立されたと伝わり、記録上で知られる日本建築史上最も高い木造の塔だといわれています。

「室町第」はその後、義満が出家し1397年(応永4年)に北山殿(後の金閣寺)を新たに造営して移り住むと、子の4代将軍・足利義持(あしかがよしもち 1386-1428)に譲られますが、1408年(応永15年)に義満が没すると義満と不仲であった義持はその翌年に第2代将軍・足利義詮が住んでいた三条坊門殿を再建して移り住んだため、室町第は荒廃したといいます。

一方、初め青蓮院に入り義円(ぎえん)と称して天台座主となり、兄・義持の死後にくじ引きによって後継者に選ばれ将軍となったという異色の経歴を持つ第6代将軍・足利義教(あしかがよしのり 1394-1441)の時代になると、父・義満を慕っていたという義教は逆に室町第を再興して移り住み、御会所と御会所泉殿を増築し、青蓮院の石を花の御所に運ばせるなど造作に励んだといい、この頃には室町第の邸宅は「上御所」、坊門三条殿の邸宅は「下御所」と呼ばれていたようです。

そしてその義教が「嘉吉の乱」で赤松氏によって暗殺されると、室町第は義教の長男で8歳で将軍となった第7代将軍・足利義勝(あしかがよしかつ 1434-43)に引き継がれますが、わずか10歳で病没し、後継とされたのが銀閣寺を造営したことで知られる第8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ 1436-90)です。

義政は6代・義政の五男で元々は将軍職を継ぐ立場になく、母・重子の従弟である烏丸資任(からすまるすけとう 1417-83)の屋敷で育てられており、兄・義勝の病死によってわずか8歳で将軍の後継者とされることとなりましたが、当初は室町・三条坊門のどちらにも入らず、資任の屋敷をそのまま「烏丸殿」と称して居住し続けました。

その後1449年(宝徳元年)に元服して8代将軍となった後、1459年(長禄3年)11月に長年住み慣れた烏丸殿から新たに作られた室町新第に移っています。

1467年(応仁元年)に「応仁の乱」が始まると、第103代・後土御門天皇(ごつちみかどてんのう 1442-1500)、第102代・後花園上皇(ごはなぞのじょうこう 1419-71)は戦火を避けて花の御所に避難し、天皇と上皇の仮内裏であり、足利将軍も同居するという異例の事態となりましたが、この邸を東軍の陣所として東西両軍が相対し戦い、室町第は西軍の攻撃にさらされることとなります。

そして戦乱の最中、1473年(文明5年)に義政は西軍の山名宗全(やまなそうぜん 1404-73)および東軍の細川勝元(ほそかわかつもと 1430-73)の両名が亡くなったことを契機に将軍職を子の9代将軍・足利義尚(あしかがよしひさ 1465-89)に譲って隠居、まだ幼かったため政務は義政の正室・日野富子(ひのとみこ 1440-96)の兄・勝光や伊勢貞宗が補佐しましたが、義政は最後まで実権は手放さず、父子の対立は義尚が先に亡くなるまで続きました。そしてこれを機に義政は宝鏡寺の隣地にあったとされる「小川御所(小川殿)」へと移り住んでいます。

1476年(文明8年)に近くの土蔵・酒屋が放火された影響で室町第が全焼すると、日野富子、義尚、そして応仁の乱を避けて室町御所に避難中であった後土御門天皇が「小川御所(小川殿)」へと退避し仮皇居となりました。

その後、「小川御所(小川殿)」には富子のための居所「北小路殿」が増築されましたが、義尚が父・義政との不仲から同年のうちに伊勢貞宗の邸宅に移り、1481年(文明13年)には今度は義政が富子から逃れるように長谷聖護院の山荘に移ります。
これと入れ替わりで翌年に義尚は小川殿に戻りましたが、1483年(文明15年)今度は母・富子との不仲から伊勢邸へと戻ってしまい、それ以降は富子のみの居宅となったといいます。

一方、室町第の方は1477年(文明9年)に「応仁の乱」が終わった後の1479年(文明11年)に管領を惣奉行として諸国に上納金を課して造営費を捻出する形で再興されますが、翌年また類焼し、その後1481年(文明13年)に周囲に築地を建造するまでに至ったようですが、どの程度に再興したかは不明です。

同年、富子から逃れるように長谷の山荘に移った義政は翌1482年(文明14年)から山荘「東山殿(現在の銀閣寺)」の建築を本格化させていますが、室町第にあった庭石や大松を「東山殿」に運び込ませており、その後は「室町第」は放置されたようで、1488年(長享2年)には花の御所の焼け跡が夜盗の集会する所となり、庶民の住居にするかどうかが問題となったといい、数年後には庶民の住む町家がこの付近に立ち並ぶようになったようです。

その後第12代・足利義晴(あしかがよしはる 1511-50)の時代の1542年(天文11年)に小規模ながらも再建されていますが、第13代将軍・足利義輝(あしかがよしてる 1536-65)が1559年(永禄2年)に三管領家の一つであった斯波武衛家(しばぶえいけ)の邸宅跡に「二条御所」を造営・移転したことで室町第は廃止されました。

そして室町幕府最後の将軍となった後15代・足利義昭の時代には、義昭を奉じて上洛した織田信長によって義輝の居館が東と北に拡張した2町の敷地、現在の烏丸丸太町の北西角に「二条御所(旧二条城とも)」が築かれており、この2つの二条御所はいずれも現存していませんが、跡地にはそのことを示す石碑が建てられています。

安土桃山時代には現在の京都御苑の北半分に公家町が形成され、その後戦乱の世が終わると諸国に避難していた公家たちが戻り始めて公家町は拡大し、江戸時代の花の御所の跡地には公家の裏辻家と錦織家が公家屋敷を構えています。

明治以降は多くの公家や宮家が東京へ移住し、現在は室町第の邸内に建てられた岡松殿に始まる尼門跡寺院の「大聖寺(御寺御所)」がほぼ当時に場所に現存するほかは、北側に同志社大学寒梅館があるのを除けば、それ以外は宅地化し、築山北半町、築山南半町、裏築地町などの町名にその名残りを留めるのみです。

そして度重なる焼失と再建の繰り返しで当時の建物などは残っていませんが、邸宅のあった敷地の南西角にあたる今出川室町の交差点の北東角には、1915年(大正4年)に邸宅跡であることを示す「従是東北 足利将軍室町第址」と刻まれた石碑が建てられているほか、大聖寺の境内には「花の御所」跡を示す石碑も建てられています。

また遺構の発掘調査も徐々に進められていて、まず1979年(昭和54年)には地下鉄烏丸線の調査で初めて室町前期から後期の池状遺構が見つかり、続く1985年(昭和60年)には庭石や池の汀線、1986年(昭和61年)には整地層や庭園の一部が発見されています。

1989年(平成元年)には東西方向の堀と、その北側で石が詰まった遺構が東西に並び、付近では景石・築山が発見され、、2018年(平成30年)には南北方向の堀が発見され、室町通に沿って堀が巡っていたことも分かっています。

そして同志社大学構内では「寒梅館」の建設に伴う調査で石敷き遺構が発見され、室町殿の北限を示す遺構として注目されており、石敷遺構の一部は寒梅館の北東隅にガラス屋根を設けて保存されていて、見学することができます。

その後も発掘調査はいくつか行われていて、2019年(平成31年)には花の御所の西端を示す濠跡が初めて確認され、2020年(令和2年)にはほかの庭園跡では例のない石の大きさだという庭園に使われたとみられる長径3m近い石や、池の一部が発見されています。

ちなみに足利将軍が居住した御所については、京都の市街「洛中」と郊外「洛外」の景観や風俗を描いた「洛中洛外図屏風」でもその姿が描かれています。

まず国立歴史民俗博物館蔵の「歴博甲本(町田家本)」は現存する洛中洛外図屏風の最古のもので、1525年(大永5年)から1536年(天文5年)の「天文法華の乱」による被災以前の京都の景観が描かれていて、その中に足利将軍の邸宅も描かれていますが、これは室町第(花の御所)ではなく、12代・足利義晴が造営した「柳原御所(柳の御所)」です。

また戦国時代に天才絵師・狩野永徳(かのうえいとく 1543-90)の筆により、1574年(天正2年)に織田信長(おだのぶなが 1534-82)が上杉謙信(うえすぎけんしん 1530-78)に贈ったとされるのいわゆる「上杉本(国宝)」の中には「花の御所」として描かれています。

この点「上杉本」は13代将軍・足利義輝が上杉謙信に上洛して管領に就任せよというメッセージを込めて描かせたものだといわれていますが、その後義輝が非業の死を遂げたため、完成した絵は永徳の所に留めおかれた後、信長の上洛後に差し出され、当時同盟を結ぶ必要のあった謙信に絵を贈ったと考えられています。

足利将軍室町第址(花の御所)の施設案内

 

室町第址(花の御所跡)

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    「従是東北 足利将軍室町第址」の石標

    今出川室町交差点の北東角
    1915年(大正4年)に京都市教育会によって設置

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    室町通

    烏丸通の1筋西側を走る南北の通りの名
    邸宅の正門が室町通に面していたことから「室町第」と呼ばれ、ここが足利将軍家の居所となり、政務が執り行われたことから「足利幕府」の名前の由来となった

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    大聖寺(御寺御所)

    臨済宗相国寺派の門跡尼院
    境内は花の御所跡の一角といわれ、足利義満が正室の叔母でのちに岡松一品と称される日野宣子に花の御所内の岡松殿を与えて住まわせたことに始まるという
    1697年に明正天皇御所の材料を移して作られた庭園は京都市の指定名勝

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    「花乃御所」の石碑

    大聖寺境内にある

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    同志社大学 寒梅館(かんばいかん)

    大聖寺の北側、室町第跡の敷地の北側にあたる場所に2004年(平成16年)3月に竣工
    延床面積18,115平方メートルの7階建の建物で、地域に開かれた交流の場として、映画上映やコンサート等を開催するほか、最上階にはフレンチレストランを備え、学生や教職員はもちろん、一般客の憩いの空間となっている

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    石敷き遺構と説明板

    同志社大学寒梅館の北東側敷地内
    寒梅館の敷地内の上立売通に面する烏丸通から入ってすぐ
    同志社大学寒梅館の建設に伴って行われた2002年の発掘調査で、室町後期の石敷き遺構が発見された
    調査された同じ場所にガラスに覆われた形で保存されており、見学が可能で壁面には説明板も設置されている

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    築山北半町、築山南半町、裏築地町の町標

     

関連

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    相国寺

    現在は臨済宗相国寺派の大本山
    1392年に第3代将軍・足利義満が夢窓疎石を開山に創建
    塔頭として金閣寺(鹿苑寺)および銀閣寺(慈照寺)を有することで有名なほか、法堂の「蟠龍図(ばんりゅうず)」は鳴き龍として有名
    現存していないが1399年(応永6年)には義満の権力を示すかのように高さ360尺(約109m)、東寺の五重塔の2倍もの高さを誇る七層の宝塔「七重塔」が建立されたと伝わる

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    「花御所八幡宮」の石碑

    義満によって室町第が造営されると、邸内に鎮守社として源氏の氏神である八幡神が勧請され、その場所は現在の御所八幡町であったと思われる
    太平洋戦争中の御池通の強制疎開の際に上御霊神社境内に遷座された
    上御霊神社の境内に石碑が建つ

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    足利尊氏邸・等持寺跡

    高倉御池やや上がった二条高倉にあった足利尊氏の邸宅跡で、尊氏はこの邸宅で政務を行い没した
    「等持寺」は尊氏の弟・直義が三条坊門第に建て、足利氏の菩提寺として崇敬を集めるも、応仁の乱以降は衰退し、別院であった等持院に合併された
    現在は足利尊氏邸および等持寺の跡を示す石碑が建つ

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    御所八幡宮

    中京区御池通高倉南東角、東亀甲屋町
    元々は村上源氏の流れを汲む中院(なかのいん)氏が源氏の氏神として知られる石清水八幡宮の若宮を三条坊門の邸宅内に勧請したのがはじまりで、その後、鎌倉後期に御所の二条内裏が焼失した際、第91代・後宇多天皇が前内大臣・中院通成の邸宅を仮内裏としたことから、邸宅内の鎮守社が「御所八幡宮」と呼ばれるようになっと伝わる
    南北朝時代に足利尊氏の弟・足利直義が邸宅を構え、「観応の擾乱」により直義が亡くなった後は尊氏により御所八幡宮が再興されたといい、尊氏が邸内に守護神として創建したとの由緒から尊氏の法名によって「等持寺八幡」とも
    元々は御池堺町西南角の御所八幡町にあったが、太平洋戦争中の御池通の強制疎開によって現在地に移転された
    特に安産と幼児の守り神として有名

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    金閣寺(鹿苑寺)

    室町3代将軍・足利義満が鎌倉期の公卿・西園寺公経の建てた北山山荘を譲り受けて造った「北山殿」を、その没後に禅寺に改め「鹿苑寺」と改称
    金色に輝く舎利殿があまりに有名で「金閣寺」の通称が定着
    世界遺産にも登録され、修学旅行生や外国人などにも人気の京都観光の定番スポットとして知られている
    衣笠山を借景にした池泉回遊式の庭園も見事

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    銀閣寺(慈照寺)

    室町8代将軍・足利義政が義満の金閣にならい山荘「東山殿」を造営、没後寺院となり現在は臨済宗相国寺派の塔頭
    「慈照寺」の由来は義政の法号である慈照院にちなむ
    金閣寺同様に世界遺産に登録され、派手さはないが錦鏡池を中心とする池泉回遊式の庭園は見事で国の特別史跡および特別名勝

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    等持院

    足利尊氏が夢窓疎石を開山に衣笠山山麓に創建
    弟・直義が三条坊門に建てた「等持寺」に対し、当時は「北等持」とも呼ばれた
    1358年(正平13年/延文3年)に尊氏が当寺に葬られて以降、足利歴代将軍の葬送が行われてその廟所となり、歴代将軍の像や位牌が祀られている

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    鹿王院

    元々は室町3代将軍・足利義満が24歳の時に建立した宝幢寺の塔頭だったが、「応仁の乱」で宝幢寺が廃絶した後は単独で存続
    江戸期に地震被害に遭うも、徳川家康を支えた徳川四天王の一人である酒井忠次の子・酒井忠知が再興
    現在は嵐電鹿王院駅近くの町中にひっそり佇む紅葉の名所として知られるほか、沙羅双樹(夏椿)の名所としても有名

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    二条御所跡(斯波氏武衛陣 足利義輝邸遺址)

    元々は室町幕府の三管領筆頭であった斯波義将(1350-1410)の邸宅があった場所で、宮中御所等を守護していた兵衛府の唐名をとって「武衛(ぶえい)」と呼ばれていたといい、応仁の乱で焼失したが、周辺は現在も「武衛陣町」と呼ばれている
    その後1547年に第13代・足利義輝(1536-65)の館が築かれたが、1565年(永禄8年)に松永久秀と三好三人衆が足利義栄を奉じて謀反を起こし、二条御所を襲撃
    塚原卜伝直弟子の一人で剣豪でもあった義輝は奮戦するも多勢に無勢で討ち死にし、邸宅も兵火によって焼失した
    その後同地には織田信長が足利義昭のために造営した「旧二条城」があったが、室町幕府の滅亡とともに取り壊され、現在は平安女学院の敷地となり、入口付近に跡地を示す石碑と説明版が立っている

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    旧二条城跡(平安女学院大学 京都キャンパス)

    1569年(永禄12年)に織田信長が15代将軍・足利義昭のために造営した二条城の跡で、現在の徳川家康が造営した二条城とは別の場所にあった
    東西は新町通から烏丸通、南北は下立売通から丸太町通の二町、約390m四方の敷地にほぼ70日間の短期間で建造されたが、ポルトガルの宣教師であったルイス・フロイスの記録などによれば、二重の堀を巡らせて高い石垣に櫓を設け、城内には三重の堅固な天主を備え、金箔瓦に内装には金銀がちりばめられ、泉水・築山を供えた庭園を有するなど華麗な城郭であったという
    1573年(天正元年)に信長によって義昭が追放されると、東宮誠仁親王を迎え「二条御所」として使用されたが、室町幕府の滅亡に伴って廃城となり、1576年(天正4年)に城は解体され、安土城の築城に際し建築資材として再利用されたという
    現代に入り付近にて地下鉄工事が行われた際に城の石垣に使われた約100体の石仏が発見され、石仏は伏見区の安楽寿院および西京区の京都市洛西竹林公園に保管されているほか、同時に発見された石垣の一部が京都御苑の下立売御門内と、現二条城内に「旧二条城復元石垣」として復元されている
    現在は平安女学院の敷地となっており、室町下立売南西角に石碑と説明版が立てられている

周辺

足利将軍室町第址(花の御所)の主な年間行事・カレンダー

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