京都市上京区室町通今出川上ル東側、烏丸今出川交差点の北西側にあった室町幕府第3代将軍・足利義満(あしかがよしみつ 1358-1408)が造営した足利将軍家の邸宅「室町殿」の跡地で、同邸宅は室町幕府が置かれた場所であることから「室町御所」とも呼ばれました。
範囲は東西は室町通から烏丸通まで約110m、南北は上立売通から今出川通まで約220mの東西一町、南北二町の規模で、現在の京都御所がある京都御苑の北西、烏丸今出川の交差点を挟んで斜向かいの一角に位置していたといい、その敷地面積は当時御所の位置にあり北朝の主たる皇居として定着しつつあった当時の御所「土御門東洞院内裏」の2倍にも及んだといいます。
この点、南朝の第96代・後醍醐天皇(ごだいごてんのう 1288-1339)と対立して室町幕府を開いた足利尊氏(あしかがたかうじ 1305-58)は、北朝を後見するため二条高倉に住み、2代将軍・足利義詮(あしかがよしあきら 1330-67)は父の命で鎌倉から京都に戻った際に尊氏の弟・足利直義(あしかがただよし 1306-52)が邸宅としていた「三条坊門殿(さんじょうぼうもんどの)」に入りこれを居所とし「三条御所」と呼ばれていました。
そしてその位置は当初は三条坊門高倉の南東に一町、すなわち現在の御池通と高倉通の交差点の南東角、現在「御所八幡宮」が鎮座する場所にありましたが、義詮の将軍就任後にやや東の三条坊門万里小路の南東、現在の御池通と柳馬場通の交差点の南東角、柳八幡町付近に新たな邸宅を造営し、跡地には新しい三条坊門殿の鎮守として八幡宮が建てられ、これが現在の御所八幡宮の起源と考えられています。
一方「室町第」があった北小路室町(現在の今出川室町)の地には元々は西園寺流四家の一つである室町家の邸宅「花亭」がありましたが、2代将軍・足利義詮の時代にこれを室町季顕(むろまちすえあき)より買い上げて足利将軍家の別邸としました。
義詮の没後は北朝3代天皇である崇光上皇(すこうじょうこう 1334-98)に献上されて1368年(貞治7年)に院御所が建てられましたが、1377年(永和3年)に焼失し。この時に南側に隣接していた左大臣・今出川公直(菊亭公直)(いまでがわきんなお 1335-96)の邸宅「菊亭(今出川殿)」も焼失しています。
翌1378年(永和4年)3月、3代将軍・足利義満は崇光上皇の院御所跡と、今出川公直の菊亭跡とを合わせた広大な敷地に足利将軍家のための邸宅の造営を開始。新しい邸宅が造営されると、それまで居所としていた三条坊門第から移り住み、その後も工事が続けられて完成し、1381年(永徳元年)には北朝第5代・後円融天皇(ごえんゆうてんのう 1359-93)の行幸を仰いでいます。
そしてこの邸宅は室町通に面して正門が設けられたことから「室町殿(むろまちどの)」あるいは「室町第(むろまちてい)」と呼ばれ、足利将軍がこの地を居所とした、すなわち幕府を置いたことにちなんで足利幕府は「室町幕府」と呼ばれることとなりました。
義満は栄華に任せて豪奢を極め多くの殿舎を建造したといい、史料によれば花邸、北御所、南御所、下宿所、下亭など、南北2つの区画で構成されたことや、寝殿、中門、透渡殿、対屋、釣殿、東向小御所、泉殿の建物名から、貴族邸宅風であったことも分かっています。
また庭園には鴨川から水を引き、各地の守護大名から献上されたという四季折々の花木を植えたといい、庭園美を極めたこの邸宅は「花の御所(はなのごしょ)」とも称され、ここに天皇や関白を招いて詩歌や蹴鞠の会を催し、まさしく室町時代の政治・文化の中心地となりました。
この内裏のすぐ北側にあった室町第(花の御所)に幕府が移ったことで、商工業者の町となった「下京」とは対照的に「上京」は政治の中心となり、公家のみならず武家も屋敷を構えるようになるとともに、周囲には門跡寺院や武家の菩提寺なども次々と建てられていきました。
中でも1382年(永徳2年)に義満自身の手によって花の御所の東側に開創された「相国寺」は、約10年をかけ1392年(明徳3年)に完成させた一大禅苑で、現存はしていませんが1399年(応永6年)に高さ360尺(約109m)、東寺の五重塔の2倍もの高さの七層の宝塔「七重塔」が建立されたと伝わり、記録上で知られる日本建築史上最も高い木造の塔だといわれています。
「室町第」はその後、義満が出家し1397年(応永4年)に北山殿(後の金閣寺)を新たに造営して移り住むと、子の4代将軍・足利義持(あしかがよしもち 1386-1428)に譲られますが、1408年(応永15年)に義満が没すると義満と不仲であった義持はその翌年に第2代将軍・足利義詮が住んでいた三条坊門殿を再建して移り住んだため、室町第は荒廃したといいます。
一方、初め青蓮院に入り義円(ぎえん)と称して天台座主となり、兄・義持の死後にくじ引きによって後継者に選ばれ将軍となったという異色の経歴を持つ第6代将軍・足利義教(あしかがよしのり 1394-1441)の時代になると、父・義満を慕っていたという義教は逆に室町第を再興して移り住み、御会所と御会所泉殿を増築し、青蓮院の石を花の御所に運ばせるなど造作に励んだといい、この頃には室町第の邸宅は「上御所」、坊門三条殿の邸宅は「下御所」と呼ばれていたようです。
そしてその義教が「嘉吉の乱」で赤松氏によって暗殺されると、室町第は義教の長男で8歳で将軍となった第7代将軍・足利義勝(あしかがよしかつ 1434-43)に引き継がれますが、わずか10歳で病没し、後継とされたのが銀閣寺を造営したことで知られる第8代将軍・足利義政(あしかがよしまさ 1436-90)です。
義政は6代・義政の五男で元々は将軍職を継ぐ立場になく、母・重子の従弟である烏丸資任(からすまるすけとう 1417-83)の屋敷で育てられており、兄・義勝の病死によってわずか8歳で将軍の後継者とされることとなりましたが、当初は室町・三条坊門のどちらにも入らず、資任の屋敷をそのまま「烏丸殿」と称して居住し続けました。
その後1449年(宝徳元年)に元服して8代将軍となった後、1459年(長禄3年)11月に長年住み慣れた烏丸殿から新たに作られた室町新第に移っています。
1467年(応仁元年)に「応仁の乱」が始まると、第103代・後土御門天皇(ごつちみかどてんのう 1442-1500)、第102代・後花園上皇(ごはなぞのじょうこう 1419-71)は戦火を避けて花の御所に避難し、天皇と上皇の仮内裏であり、足利将軍も同居するという異例の事態となりましたが、この邸を東軍の陣所として東西両軍が相対し戦い、室町第は西軍の攻撃にさらされることとなります。
そして戦乱の最中、1473年(文明5年)に義政は西軍の山名宗全(やまなそうぜん 1404-73)および東軍の細川勝元(ほそかわかつもと 1430-73)の両名が亡くなったことを契機に将軍職を子の9代将軍・足利義尚(あしかがよしひさ 1465-89)に譲って隠居、まだ幼かったため政務は義政の正室・日野富子(ひのとみこ 1440-96)の兄・勝光や伊勢貞宗が補佐しましたが、義政は最後まで実権は手放さず、父子の対立は義尚が先に亡くなるまで続きました。そしてこれを機に義政は宝鏡寺の隣地にあったとされる「小川御所(小川殿)」へと移り住んでいます。
1476年(文明8年)に近くの土蔵・酒屋が放火された影響で室町第が全焼すると、日野富子、義尚、そして応仁の乱を避けて室町御所に避難中であった後土御門天皇が「小川御所(小川殿)」へと退避し仮皇居となりました。
その後、「小川御所(小川殿)」には富子のための居所「北小路殿」が増築されましたが、義尚が父・義政との不仲から同年のうちに伊勢貞宗の邸宅に移り、1481年(文明13年)には今度は義政が富子から逃れるように長谷聖護院の山荘に移ります。
これと入れ替わりで翌年に義尚は小川殿に戻りましたが、1483年(文明15年)今度は母・富子との不仲から伊勢邸へと戻ってしまい、それ以降は富子のみの居宅となったといいます。
一方、室町第の方は1477年(文明9年)に「応仁の乱」が終わった後の1479年(文明11年)に管領を惣奉行として諸国に上納金を課して造営費を捻出する形で再興されますが、翌年また類焼し、その後1481年(文明13年)に周囲に築地を建造するまでに至ったようですが、どの程度に再興したかは不明です。
同年、富子から逃れるように長谷の山荘に移った義政は翌1482年(文明14年)から山荘「東山殿(現在の銀閣寺)」の建築を本格化させていますが、室町第にあった庭石や大松を「東山殿」に運び込ませており、その後は「室町第」は放置されたようで、1488年(長享2年)には花の御所の焼け跡が夜盗の集会する所となり、庶民の住居にするかどうかが問題となったといい、数年後には庶民の住む町家がこの付近に立ち並ぶようになったようです。
その後第12代・足利義晴(あしかがよしはる 1511-50)の時代の1542年(天文11年)に小規模ながらも再建されていますが、第13代将軍・足利義輝(あしかがよしてる 1536-65)が1559年(永禄2年)に三管領家の一つであった斯波武衛家(しばぶえいけ)の邸宅跡に「二条御所」を造営・移転したことで室町第は廃止されました。
そして室町幕府最後の将軍となった後15代・足利義昭の時代には、義昭を奉じて上洛した織田信長によって義輝の居館が東と北に拡張した2町の敷地、現在の烏丸丸太町の北西角に「二条御所(旧二条城とも)」が築かれており、この2つの二条御所はいずれも現存していませんが、跡地にはそのことを示す石碑が建てられています。
安土桃山時代には現在の京都御苑の北半分に公家町が形成され、その後戦乱の世が終わると諸国に避難していた公家たちが戻り始めて公家町は拡大し、江戸時代の花の御所の跡地には公家の裏辻家と錦織家が公家屋敷を構えています。
明治以降は多くの公家や宮家が東京へ移住し、現在は室町第の邸内に建てられた岡松殿に始まる尼門跡寺院の「大聖寺(御寺御所)」がほぼ当時に場所に現存するほかは、北側に同志社大学寒梅館があるのを除けば、それ以外は宅地化し、築山北半町、築山南半町、裏築地町などの町名にその名残りを留めるのみです。
そして度重なる焼失と再建の繰り返しで当時の建物などは残っていませんが、邸宅のあった敷地の南西角にあたる今出川室町の交差点の北東角には、1915年(大正4年)に邸宅跡であることを示す「従是東北 足利将軍室町第址」と刻まれた石碑が建てられているほか、大聖寺の境内には「花の御所」跡を示す石碑も建てられています。
また遺構の発掘調査も徐々に進められていて、まず1979年(昭和54年)には地下鉄烏丸線の調査で初めて室町前期から後期の池状遺構が見つかり、続く1985年(昭和60年)には庭石や池の汀線、1986年(昭和61年)には整地層や庭園の一部が発見されています。
1989年(平成元年)には東西方向の堀と、その北側で石が詰まった遺構が東西に並び、付近では景石・築山が発見され、、2018年(平成30年)には南北方向の堀が発見され、室町通に沿って堀が巡っていたことも分かっています。
そして同志社大学構内では「寒梅館」の建設に伴う調査で石敷き遺構が発見され、室町殿の北限を示す遺構として注目されており、石敷遺構の一部は寒梅館の北東隅にガラス屋根を設けて保存されていて、見学することができます。
その後も発掘調査はいくつか行われていて、2019年(平成31年)には花の御所の西端を示す濠跡が初めて確認され、2020年(令和2年)にはほかの庭園跡では例のない石の大きさだという庭園に使われたとみられる長径3m近い石や、池の一部が発見されています。
ちなみに足利将軍が居住した御所については、京都の市街「洛中」と郊外「洛外」の景観や風俗を描いた「洛中洛外図屏風」でもその姿が描かれています。
まず国立歴史民俗博物館蔵の「歴博甲本(町田家本)」は現存する洛中洛外図屏風の最古のもので、1525年(大永5年)から1536年(天文5年)の「天文法華の乱」による被災以前の京都の景観が描かれていて、その中に足利将軍の邸宅も描かれていますが、これは室町第(花の御所)ではなく、12代・足利義晴が造営した「柳原御所(柳の御所)」です。
また戦国時代に天才絵師・狩野永徳(かのうえいとく 1543-90)の筆により、1574年(天正2年)に織田信長(おだのぶなが 1534-82)が上杉謙信(うえすぎけんしん 1530-78)に贈ったとされるのいわゆる「上杉本(国宝)」の中には「花の御所」として描かれています。
この点「上杉本」は13代将軍・足利義輝が上杉謙信に上洛して管領に就任せよというメッセージを込めて描かせたものだといわれていますが、その後義輝が非業の死を遂げたため、完成した絵は永徳の所に留めおかれた後、信長の上洛後に差し出され、当時同盟を結ぶ必要のあった謙信に絵を贈ったと考えられています。