京都市中京区御池通高倉東入る亀甲屋町、御池通と高倉通の交差点の南東角にある神社。
元々は村上源氏の一門である中院氏が、源氏の氏神である石清水八幡宮の八幡神を邸内に勧請し祀ったものでした。
その後、鎌倉時代の1278年(弘安元年)10月に御所の二条内裏が焼失したことにより、第91代・後宇多天皇は1279年(弘安2年)11月に三條坊門万里小路にあった前内大臣・中院通成(なかのいんみちなり)の邸宅に行幸。
その後もしばしば行幸し仮内裏としたことから、邸内に祀られていた中院氏の鎮守社は「御所八幡宮」の名で呼ばれ、代々の中院氏によって厚く奉斎されたといいます。
また邸宅のあった場所は平安末期の1180年(治承4年)に平氏討伐の令旨を発した後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)(高倉宮)の邸宅「高倉殿」があった場所であることから「高倉八幡」とも呼ばれていました。
そして南北朝の動乱の頃には室町幕府初代将軍・足利尊氏の実弟・足利直義が同地に邸宅を構えていましたが、兄弟が争った「観応の擾乱」の後に直義が亡くなると、尊氏は自らの邸内に清和源氏の流れをくむ足利家の守護神として勧請し再興。尊氏の法名「等持院」にちなんで「等持院御所八幡宮」とも呼ばれていたといいます。
その後は皇室や足利家の保護を受け繁栄するも、「応仁の乱」の後は衰退し、更に昭和期に入ると太平洋戦争中に御池通の強制疎開により、元々は堺町御池の西南角の御所八幡町にあった社地は御池通高倉東入へと遷され現在に至っています。
応神天皇、神功皇后、比売(ひめ)神の三神、いわゆる八幡神を祭神とする八幡宮の一社で、現在は初音学区とその近在の守護神として、また御池通に面していることから「御池の八幡さん」と呼ばれ親しまれています。
また安産と幼児の守り神としても有名で、子供の夜泣き、疳の虫退治のご利益で知られる左京区上高野の三宅八幡宮と並んで「虫八幡」と呼ばれ、世間の信仰を集めています。
例祭は9月15日に近い日曜日に行われていて、勇壮な神輿の渡御や、可愛らしい稚児行列が氏子区域を練り歩くほか、毎週金曜日にはフリーマーケット「八幡さんのおもしろ市」も開かれて賑わいます。