京都市上京区烏丸今出川上ル御所八幡町、烏丸今出川の北、同志社大学今出川キャンパスに隣接する烏丸通沿いにある臨済宗単立の尼門跡寺院。
山号は岳松山(がくしょうざん)、本尊は釈迦如来で、天皇家ゆかりの尼門跡で「御寺御所(おてらのごしょ)」とも称されています。
南北朝時代の1382年(永徳2年)の創建で、室町幕府第3代将軍・足利義満が無相定円尼(日野宣子)を開山とし、玉巌悟心尼を開基に任じて創建。
開山・無相定円尼(日野宣子)(1326-82)は、北朝初代・光厳天皇(こうごんてんのう 1313-64)の妃で足利義満の正室・日野業子(ひのなりこ 1351-1405)の叔母にあたる人物。
大納言・日野資名(ひのすけな)の娘で、禁裏後宮の実力者であった宣子の介添えで日野業子が足利義満の妻となると、以来持明院統と関係の深かった日野氏から代々将軍の妻室が出るようになり、朝幕両政界で大きな権勢を振るうようになったといわれています。
1368年(貞治7年)に光厳天皇の法事が天龍寺で行われた際、春屋妙葩を導師として落飾・出家すると、足利義満は将軍の邸宅である「花の御所」内の「岡松殿」に無相定円を住まわせて安禅所とし、一緒に得度した姪にあたる玉巌悟心尼(?-1407)とともに金潭素城の下で熱心に臨済禅を学びました。
そして1382年(永徳2年)に無相定円尼が57歳で没すると、その遺言で岡松殿を尼寺に改め「大聖寺」と命名したのが当寺のはじまりであり、玉巌尼を開基に任じ、寺号は無相定円の法名「大聖寺殿無相定円禅定尼」、山号の岳松山は岡松殿に由来するものといいます。
その後、長谷(ながたに)(現在の左京区岩倉長谷町)、1479年(文明11年)には毘沙門町(現在の上京区上立売通寺町西入る)と「応仁の乱」の後に移転を重ねた後、江戸中期の1697年(元禄10年)に再び現在地に戻っています。
ちなみに現在地に戻る直前に同地にあったのは聖護院門跡で、聖護院が1675年(延宝3年)の「延宝の大火」で焼失し、現在の左京区聖護院中町に移転した跡地に大聖寺が再興されています。
京都の尼五山の中でも最高位にあった無外如大尼(むげにょだい)の創建の「景愛寺」の末寺としてその法灯を継いでおり、文中年間(1372-75)に北朝5代・後円融天皇(ごえんゆうてんのう 1359-93)の皇女が入寺して以来、江戸末期の光格天皇の皇女・普明浄院まで24代450年にわたって代々の門跡を内親王が勤めたという格式の高さを誇ります。
とりわけ後柏原天皇の皇女で大聖寺6世住持・覚鎮女王の時代には、第106代・正親町天皇(おおぎまちてんのう 1517-93)の皇女の入寺するにあたり「尼寺第一位」の綸旨を賜っており、その後も尼門跡筆頭の地位を保ち続け、明治維新以後は内親王に代わって公家華族の息女が門跡を継ぎ現在に至っているといいます(ちなみに2位は宝鏡寺、第3位は曇華院)。
また江戸初期に第108代・後水尾天皇(ごみずのおてんのう 1596-1680)の皇女が続けて住持を勤めた際には、後水尾帝がしばしば大聖寺を訪れて、俳諧や和漢連句などを楽しんだといい、更に詩歌の詠み手としてとしても知られる第114代・中御門天皇(なかみかどてんのう 1702-37)の第7皇女・天巌永皎尼(永皎女王)(えいこうじょおう 1732-1808)の時代の1769年(明和6年)には「御寺の御所(おてらのごしょ)」の御所号を許されています。
境内伽藍はは本堂をはじめ宮御殿(書院)、玄関、表門などからなり、尼門跡寺院の伽藍を伝える寺院建築として重要であることから、2011年(平成23年)に本堂、玄関、宮御殿(書院)、残月亭、渡り廊下、表門、高塀、東面築地、南面築地が国・登録有形文化財に指定されています。
また本堂の西、宮御殿の明実にある枯山水の庭園は当寺所蔵の日記によると、現在地に再移転した1697年(元禄10年)に明正天皇(めいしょうてんのう)の形見として河原の御殿から材料を移し作庭されたものといい、東西方向に長く伸びた枯流れを中心に展開される庭景は、御所風の優美さを感じさせ、江戸中期の記録の残る、優れた意匠の庭園として貴重なものであることから、1985年(昭和60年)6月1日に「大聖寺庭園」として京都市指定名勝とされています。
その他にも宸翰(しんかん)調度品、御所人形、衣裳などの宝物が伝えられるほか、境内地は足利義満が建立した邸宅「花の御所」の跡地の一部を占めることから、境内の一角に「花乃御所」と刻まれた石碑が建てられています。
現在は非公開の寺院ですが、2013年(平成25年)に「京の冬の旅」の特別公開で27年ぶりに公開された他、2020年(令和2年)の京の冬の旅でも7年ぶりに特別公開が行われています。