京都市下京区、京都の玄関口である京都駅の北に伽藍を構える世界遺産・西本願寺の門前東側に広がる、西本願寺の門前町。
この点、西本願寺の境内付近は、平安時代には官営の「東市」が置かれていた場所で、朱雀大路を挟んで反対に設置され遷都後すぐに衰退した右京にあった西市とは違い、左京の繁栄とともに大いに賑わったといいます。
平安の終わり頃になると律令国家の衰退に伴って市は廃れ、代わって東市よりやや東に位置する七条大路(現在の七条通)と町尻小路(現在の新町通)を中心に「七条町」という商工業地帯が生まれ、鋳物師や細工師といった金属器の生産加工に関わる職人や、借上・土倉と呼ばれる金融業者が室町期まで活動をしていました。
一方、東市があった場所には平安末から鎌倉にかけて近衛基通の邸宅「猪熊殿(六条堀川殿)」が建てられ、その後日蓮宗寺院の「本国寺(本圀寺)」が室町初期に移転、六条坊門~七条、堀川~大宮という大伽藍を構え、戦国時代には織田信長の支援によって再上洛を果たした第15代将軍・足利義昭の仮居所「六条御所」とされ、義昭が三好三人衆により襲撃される「本圀寺の変」が発生したことでも知られています。
その後、本圀寺は豊臣秀吉の命によって西本願寺が創建される際に南側の地2町を割譲し、1969年(昭和44年)には山科の地に移転しており、境内地西側に塔頭寺院は今もいくつか残されてはいるものの、それ以外の跡地は西本願寺の聞法会館や駐車場などになっています。
「西本願寺門前町」は、1591年(天正19年)に豊臣秀吉の命によって大坂天満より京都の六条堀川の現在地にて本願寺(西本願寺)が再建された際、本願寺の伽藍の造営とともに坊官や商工業者が移住し、寺内町が形成されたのがはじまりで「西寺内」と呼ばれました。
その寺内町の範囲は、初期の頃は寺内町の様子が描いたと思われる六条境内図によれば、西本願寺門前の東から南にかけて町並みが展開しており、現在は堀川通を挟んで西本願寺の境内東側、北は六条通、南は下魚棚通(七条通の1筋南)、東は新町通、西は大宮通の範囲で、総面積は約16,930坪あるといいます。
この寺内町の中には京都の他の町とは違う独立した行政組織が置かれたといい、また俗に「古町」「由緒町」と称して、他町より一段高い格式をもつ町が13町ありました。
そしてその「古町」の13町とは表処置録によれば、艮町(うしとら)・辰巳町・平野町・若松町(現東若松町)・東松屋町・夷之町・夷之町西組・西松屋町・丹波街道町の9町と、油小路通の西若松町・仏具屋町・玉本町・米屋町の4町で、このうち油小路通の4町が特に「由緒町」と呼ばれ、古町も本山に対する年頭・中元の御礼は他町とは異なっていましたが、由緒町は更に特別の献上物を差し出したりして古町の中でも別扱いされていました。
また古町・由緒町の他にも「客屋十二丁」と呼ばれる一群があって、そこには全国の諸末寺からの本山参拝者などが利用した宿泊施設があったといい、由緒町でもある油小路通西若松町・仏具屋町・玉本町・米屋町の4町と、これに加えて元日町・北小路町・植松町・数珠屋町・住吉町・堺町・丸屋町・菱屋町がこれに該当するといいます。
全国に多くの信者を持つ本願寺の門前町という性格上、寺内町域には仏具商が多く見られ、中でも西本願寺の総門前の正面りの両側は仏具商のみが軒を連ねる特殊な町並みが広がっていますが、このように仏具の商売が盛んとなったのは、江戸時代に檀家制度が制定されてからといわれいて、寺院用の仏具の約8割および家庭用仏具の約6割がこの地で生産・販売されているといいます。
現在も京都の伝統産業の一つ「京仏具」を扱う店として仏具屋やお香などの老舗が軒を連ね、活発な商いが行われていて、更に仏具商を取り囲むようにして、その周辺には宿坊も兼ねた和風旅館が建ち並んでおり、京都らしい街並みの中にも門前町という一種独特の雰囲気を醸し出しています。
そしてこの寺内町は、仏具屋などの西本願寺と関係の深い生業だけでなく、米屋や造り酒屋など、種々の職業が営まれる商工業の町でもあり、商業では仏具屋を筆頭に・酒屋・米屋・魚屋・麹屋・青物屋・茶屋・油屋・たばこ屋など、工業では鍛冶屋・ぬし屋・絵屋・大工・紺屋など、各種の職人が居住し、それらの業種のいくつかでは各種の仲間も組織されていたといいます。
現在もその様子が残っている町もあるほか、それらの生業が町名として残されている所もあり、仏壇・仏具・法衣を扱う店が軒を連ねる「仏具屋町」をはじめ、珠数屋が多数軒を並べていたという「珠数屋町」、徳川氏の扶持する刀剣の鍛治工が多く集まっていたという「鍛冶屋町」、元鍛冶と号する巨商が住んでいたという「鍵屋町」、鮮魚店が軒を連ねた「下魚棚町」、そして竹材を販売する人々が住んでいたという「竹屋町」などがこれに該当します。
ちなみに江戸初期の1602年(慶長7年)には、烏丸六条から七条の間に徳川家康から寺地を寄進される形で「東本願寺」が創建されており、こちらにも境内に隣接する形で門前町(寺内町)が形成されていますが、これらの東西の本願寺の寺内町は400年余にわたり都市生活が営まれてきた歴史的市街地であり、仏壇や数珠などの仏具、法衣などの宗教関連用品を扱う見世造りの商店やしもた屋などに見られる加敷天井・腕木びさし・木格子などの特徴ある町家建築物、そして寺内町寺院の表構えや大寺院の瓦葺きの屋根などにより形成される歴史的な町並みの景観が今も残されています。
2001年(平成13年)には環境省が選定する人々に愛されるかおりある風景を全国から選んだ「かおり風景100選」に、花街の芸舞妓の華やかなおしろいとびん付け油の香りが漂う祇園の花見小路、宇治茶の香り漂う宇治平等院表参道、そして酒の匂いが漂う伏見の酒蔵とともに、お香の香りが漂う東西両本願寺の仏具店界隈が選定されています。
またその他にもこれらの特色ある景観を保全・整備し後世に伝えるため、一帯は2005年(平成17年)9月に世界遺産・東寺の界隈と合わせる形で「本願寺・東寺界わい景観整備地区」として界わい景観整備地区にも指定されています。
そしてこれら景観整備地区のうち、西本願寺界隈では概ね南北は花屋町通から七条通、東西は堀川通から高倉通までの間の面積約23.8haがその指定範囲となっていて、現在でも古い家屋が多く立ち並び、昔ながらの町並みの雰囲気を感じることができるだけでなく、西本願寺の洋風建築でレンガ造りの外観が歴史ある近代建築の仲間入りを果たしている「伝道院」や、西本願寺との深い関係を持つ茶道家元・藪内家の「燕庵」などがあり、特徴的な景観を形成されています。
このように西本願寺の門前町として現在も歴史のある店舗が数多く立ち並ぶ歴史情緒溢れる町である一方で、近年は地域人口の減少に伴って西本願寺門前町への来訪者も少なくなっているといい、このため町を活性化し昔のような賑わいを取り戻すため町衆が集まって「植柳まちづくりプロジェクトチーム」というチームが立ち上げられ、西本願寺や地元の事業者、京都市や学生などとも連携する形での様々な地域活性化のための取り組みが行われています。
具体的には仏具の「リン」をモチーフにしたゆるキャラマスコット「おりんちゃん」が各地域でのイベントへなどへ参加してイメージアップに努めるほか、親鸞聖人の月命日である毎月16日に手づくり市「門前町いちろく市」を開催、その他にも西本願寺の盆踊り大会や年末恒例行事「すす払い」に参加するなど地域住民に門前町に関心を持ってもらう活動や、各種イベントへの出展や体験ツアーの開催などで、今後も更なる発展につながる企画が計画されているといいます。