「藪内流(やぶのうちりゅう)」は京都市下京区西洞院通正面下に本拠を置く茶道流派の一つで、古儀茶道藪内流とも呼ばれ、藪内剣仲紹智(やぶのうちけんちゅうじょうち 1536-1627)を初代流祖として現在まで14代続く茶道の家柄です。
剣仲は武野紹鴎(たけのじょうおう)の最晩年の弟子で、紹鴎を師として茶の湯を学び、名前に「紹」の一字を頂いています。
千利休は兄弟弟子にあたり、利休より相伝を受け、また1582年(天正9年)9月20日には利休の媒酌で古田織部の妹・せんを妻とし、織部から譲られたのが「燕庵」だといい、またその利休の勧めで大徳寺三玄院の開祖である春屋に参禅し、1596年(文禄4年)に春屋より「剣仲」の道号を授かっています。
豊臣秀吉に茶堂として重用された利休とは対照的に、洛北に隠棲して孤高の茶三昧であったとされ、利休の切腹の際にはすぐに聚楽第に召し出されて茶堂を務めた時期があったようですが、まもなく辞したといいます。
その後、2代家元・真翁(しんおう 1577-1655)(月心軒)の時代の1634年(寛永11年)に西本願寺の13世・良如(りょうにょ)上人より茶道師家として迎えられ、以後は西本願寺の手厚い庇護を受けました。
そして1640年(寛永17)2月には西本願寺より寺領の一部を与えられ、下長者町新町の付近から現在の西本願寺門前町の一角に茶室「燕庵」などを移し、その後は藪内家の基礎を固めるのに尽力したといいます。
5代家元・竹心(不住斎)(ちくしん 1678-1745)は藪内家を整備した中興の祖ともいわれ、富裕町人を大量に受け入れ華やかに変貌した元禄期の茶道界の現状を痛烈に批判して利休への回帰を説き、華美を戒めて古儀に徹し流派の確立に尽力しました。
幕末の動乱期には、1864年(元治元年)の「蛤御門の変」の兵火により村田珠光筆と伝わる扁額を残して家屋は全て焼失したものの、西本願寺の援助によって速やかに復旧を遂げています。
その後、1977年(昭和52年)には燕庵藪内家に伝わる茶道の精神を普及すると共に遺跡、遺品、建築物等茶道文化を保存し、もって我が国の文化の発展に寄与することを目的として「公益財団法人 藪内燕庵」として法人化され、2013年(平成25年)4月に公益財団法人に移行し現在に至っています。
下京区西洞院通正面下にあることから上京区にある三千家の「上流」に対して「下流」と呼び並び称されていて、茶風は武野紹鴎・千利休の侘び茶に古田織部の武家茶を取り入れ、浮薄を戒め千利休時代のものを留めているといわれています。
また代々の当主は「紹智(じょうち)」を襲名するのが慣例となっています。
「燕庵(えんなん)」はその藪内流宗家の茶席で、はじめは古田織部の京屋敷内にありましたが、1615年(元和元年)頃、織部が「大坂の陣」への出陣に際し、茶室を義弟にあたる初代剣仲に与えていったと伝えられています。
その没後に初代剣仲の邸内に移築された後、2代家元・真翁の時代に西本願寺門前町の現在地に移され、以後は藪内家の代表的な茶室として大切にされ、同流派を代表する茶室となっています。
現在の建物は1864年(元治元年)の「蛤御門の変」の兵火で類焼した後、1831年(天保2年)頃に摂津国有馬(現在の兵庫県神戸市)の武田儀右衛門(ぎえもん)が忠実に模写し建てていた茶室を、1867年(慶応3年)に移築したものです。
三畳台目(だいめ)に二枚襖を隔てて一畳の相伴席(しようばんせき)を付設しているのが燕庵の最大の特色で、織部の考案によるものだといいます。
藪内家では様々な行事が一年を通じて行われいて、一般的な京の年中行事・伝統行事のほか、藪内家独自の行事もあり、また献茶や茶会、講習会なども全国各地で定期的に行っており、その中には一般の人々でも参加できる茶会もあります。