京都市下京区若宮通新花屋町上る若宮町、若宮通と新花屋町通の交差点のやや北側に鎮座する神社で、五条坂にある若宮八幡宮(陶器神社)の旧鎮座地に新たに祀られた八幡宮。
「若宮八幡宮」は平安後期の1053年(天喜元年)(1058年(天喜5年)とも)、第70代・後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう 1023-68)の勅願により、八幡太郎の名で有名な源義家(みなもとのよしいえ 1039-1106)の父にあたる源頼義(みなもとのよりよし 988-1075)が六条醒ヶ井(さめがい)の邸内(現在の西本願寺の北東付近)に、八幡の若宮として石清水八幡を勧請し創建されたのがはじまり。
この点、平安時代は五条大路までが都の市街地で、その南側の六条の地は堀川館をはじめ頼義・義家の館、更にその東には後に源義経が居を構えるなど、長く源氏の邸宅があったことで知られていて、六波羅や西八条を本拠とした平家と覇を争っていました。
そして室町期1540年代の百科事典「拾芥抄(しゅうがいしょう)」には「八幡若宮義家宅」の書き入れがあるほか、「古事談」にも「六条若宮はかつて源頼義が邸宅の家向に構えた堂に始まる」とあるように、頼義・義家の崇敬厚く、広い境内と立派な社殿を持って栄えていたといい、このことから当初は「六條八幡(ろくじょう)」「左女井八幡(さめがい)」とも呼ばれていました。
1190年代の「吾妻鏡」によれば1187年(文治3年)正月15日に六条以南、西洞院以東の一町の左女牛御地、すなわち現在地を中心とした一区画を社地として寄進されたとあり、同年6月18日には「放生会」を施行すべき沙汰があり、同年8月15日に鎌倉八幡宮とともに放生会を行ったのが今日の祭事の始まりだといいます。
その後も鎌倉時代には源頼朝をはじめとする源氏一族や有力御家人など多くの武士から、また室町時代には御所八幡宮とともに足利歴代将軍の崇敬を集めるなど隆盛を極めたといいますが、「応仁の乱」により社殿は荒廃すると、1584年(天正12年)に秀吉による京都改造事業により御旅所のあった東山への移転を経て、江戸初期の1605年(慶長10年)に清水焼発祥の地である五条坂下の現在地に移されました。
更に1949年(昭和24年)に陶祖神・椎根津彦命(しいねつひこのみこと)が合祀されて以降は「陶器神社」の愛称で陶器関連業者や京都市民の間で親しまれるようになり、現在は毎年8月7から10日まで開催される「五条坂陶器まつり」が開催される神社としてよく知られています。
椎根津彦命の祭礼「若宮祭」が斎行されるとともの、陶器でできた「陶器神輿」の巡行も行われるほか、その協賛行事として陶磁器業者が中心となり盛大な「陶器市」が開かれ、夏の京都の風物詩の一つとなっています。
一方東山に移転される前の六条の旧地はその後しばらくは西本願寺の寺域とされていましたが、江戸時代に入ると町内の住人によって新たに若宮八幡宮が祀られることとなり、現在も住宅地に挟まれる形で小さな社殿が建立され地元住民の手で守り続けられているほか、「若宮町」や「若宮通」といった地名にも往時の名残りをとどめています。