京都市下京区堀川通七条上ル花園町、世界遺産・西本願寺の南隣、七条堀川の交差点北西にある親鸞(しんらん 1173-1262)を宗祖とする浄土真宗真宗興正派の本山。
山号は円頓山(えんとんざん)、本尊は阿弥陀如来。
鎌倉初期の1206年(建永元年)12月、浄土宗の開祖・法然(ほうねん 1133-1212)の弟子であった住蓮(じゅうれん ?-1207)と安楽(あんらく ?-1207)の説法に感銘を受けた第82代・後鳥羽上皇(ごとばじょうこう 1180-1239)の女官2名が上皇が紀州熊野に参拝の留守中に密かに出家し尼僧となったことを知った後鳥羽上皇が激怒し、翌1207年(建永2年)2月に住蓮および安楽を死罪にするとともに、法然が讃岐へ配流となった「建永の法難(承元の法難)(けんえいのほうなん)」の際、親鸞もまた越後(新潟県)へ配流となりましたが、1211年(建暦元年)に勅免を受けて翌1212年(建暦2年)に京都へと一時帰洛、その際に再出発のため高弟・源海が山科の地に結んだ草庵が起源とされています。
この点、創建当初は日本に仏教を広めた聖徳太子(しょうとくたいし 574-622)の事績にちなみ「正しき法を興し、さかえさす」、すなわち正法を興隆するとの願いを込めて第84代・順徳天皇(じゅんとくてんのう 1197-1242)により「興隆正法寺」と号したと伝えられています。
その後、鎌倉後期の1320年(元応2年)に第7世・了源(りょうげん 1295-1336)が寺基を山科から東山渋谷(現在の京都国立博物館付近)へと移して中興。
この点、親鸞在世の当時に真宗の教えは関東を中心に広がっていましたが、了源の代になると西日本一帯の布教活動に力を入れ、当時は同じ浄土真宗の本願寺を上回る程の隆盛を極めていたといいます。
そして1335年(建武2年)に本尊・阿弥陀如来像が盗難に遭うという事件が発生した際、時の天皇であった第96代・後醍醐天皇(ごだいごてんのう 1288-1339)の夢の中に盗難された阿弥陀如来像の瑞光が現れ、その光をたどってご本尊を取り戻すことができたといい、これにより後醍醐天皇から「阿弥陀佛光寺」の寺号を賜りました。
室町時代の文明年間(1469-87)、佛光寺第14世・経豪は本願寺8世・蓮如(れんにょ 1415-99)に帰依し、名を蓮教(れんきょう 1451-92)に改めるとともに、佛光寺を弟・教誉に譲った上で再び山科西野の地に一宇を建立し、旧称である「興正寺(興隆正法寺)」と号します。
この際に仏光寺門徒の大半を伴って本願寺に帰参したことから本願寺教団拡大の基を作ったともいわれていて、その後は本願寺と歩調を合わせることとなり、1532年(天文元年)8月に法華衆徒らに焼かれた際には大坂天満に移転するなど、本願寺の度重なる移転に際しても常に行動を同じくすることとなります。
そして1591年(天正19年)、第17世・顕尊(1564-99)の時代に、興正寺は本願寺とともに現在の京都堀川七条の地、本願寺の南隣へと寺基を移転し、以後は江戸時代を通じて東西分派した後の西本願寺の脇門跡でした。
もっとも興隆正法の実を挙げるべく本山として独立しようとする気運も根強かったといい、明治時代に入った1876年(明治9年)、第27世・本寂(ほんじゃく 1808-77)の時代に興正派本山として独立を果たし現在に至っています。
現在の伽藍は焼失を免れた1774年(安永3年)建立の「鐘楼」や1848年(嘉永元年)建立の「経蔵」を除き、1902年(明治35年)に発生した火災によって、日光東照宮本廟、知恩院三門とともに「日本三建築」ともいわれたいわゆる「ひとつ御堂」と称せられた本堂をはじめほとんどの堂舎を失った後に復興されたもので、1912年(明治45年)に「御影堂」、1915年(大正4年)に「阿弥陀堂」が再建されています。