京都府京丹後市峰山町橋木、峰山駅から北へ4kmの橋木地区にある高野山真言宗の寺院で、別名「橋木の観音さん」。
山号は発信貴山(はしきさん)で、本尊は千手千眼観自在菩薩。
奈良時代の717年(養老元年)、インドの高僧・善無畏三蔵(ぜんむいさんぞう 637-735)が来朝した際、この地から紫雲が立ち昇るの見て霊地と悟り、梵天帝釈の二童子から授かった千手観音像を安置したのがはじまり。
その後、771年(宝亀2年)に第49代・光仁天皇(こうにんてんのう 709-782)の勅願寺となり、堂宇が造営されるとともに「千手院」と号し、更に平安遷都後の795年(延暦14年)には第50代・桓武天皇(かんむてんのう 737-806)より「縁城寺」の寺号勅額を賜わっています。
また弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい 774-835)は若い頃、当寺に三蔵の「天衣記」があると聞いて来錫し、「発信貴山(はしきさん)」の山号額を自ら書き残したといい、桓武天皇より縁城寺の寺号、空海より発信貴山の山号を頂き、平安期には隆盛を極めました。
その後一時衰退するも、988年(永延2年)に第66代・一条天皇(いちじょうてんのう 980-1011)の勅願寺になると再興されて寺運が隆盛、以来丹後地方の庶民の信仰の中心として最盛期には広大な境内に七堂伽藍が建ち並び、仁王門から金堂までの300m余りに7院25坊を擁する奥丹後随一の名刹として名を馳せたといいます。
その後も3度の大火に遭いながらもその都度再興されてきましたが、1871年(明治4年)の廃藩置県に伴う寺領荘園の召し上げと廃仏毀釈の風潮などにより衰退を余儀なくされ、1927年(昭和2年)の「丹後地震」では勅使門・仁王門・庫裡などが全壊、1963年(昭和38年)の豪雪では多宝塔上層部が倒壊するなどの災難を乗り越え現在に至っています。
「本堂」「多宝塔」に加え重文の「石造宝筺印塔」や秘仏の「木造千手観音立像」など多くの寺宝を所蔵するほか、緑豊かで静かな境内には巨木も多く、中でもシイ林は「京都の自然200選」に選定されています。
行事としては4月に無病息災・家内安全などを祈願して開催される「火渡り柴燈護摩大祈祷」のほか、弘法大師空海の秘法により病気平癒を祈願する7月土用の丑頃の「黄瓜祈祷(きうり加持諸病封じ)」などが知られているほか、毎年10月18日には多くの寺宝が公開される「宝物虫干し展示」が開催されています。
また定例行事以外にも寺子屋修行や自然教室、終活塾などの地域社会との交流を図るイベントを積極的に企画するなど、地域とともに歩み、人の心に寄り添う寺を目指しているといいます。