京都市北区・中京区・上京区などに点在する、豊臣秀吉によって作られた土塁。
外側の堀とあわせて「御土居堀」と呼ばれる場合もあります。
1590年(天正18年)に天下統一を成し遂げ天下人となった豊臣秀吉が、長い戦乱で荒れ果てた京都の都市改造計画の一環として、聚楽第の建設や、寺町、天正の地割などとともに行った政策の一つで、1591年(天正19年)に多くの経費と労力を費やして京都を囲むようにして土塁が築かれました。
この点、御土居には主に2つの目的があり、一つは外敵の来襲に備えるための防塁としての役割で「軍事防衛」の意味、もう一つは鴨川の氾濫から市街を守る堤防としての役割で「洪水対策」の目的があったといわれています。
その延長は22.5kmにも及び、東は鴨川(寺町東)、北は鷹ヶ峯・上賀茂、西は紙屋川、そして南は九条に沿う形で築かれ、土塁の内側を「洛中」、外側を「洛外」と呼び、両者を明確に区別する役割もあったといいます。
そして京都から全国へと通じる主要な街道には「京の七口」と総称される出入口が作られ、関所が設けられて出入が管理されました。
もっとも七口といっても7つしかなかった訳ではなく鞍馬口(くらまぐち)・大原口(おおはらぐち)・荒神口(こうじんぐち)・粟田口(あわたぐち)・伏見口(ふしみぐち)・東寺口(とうじぐち)・丹波口(たんばぐち)・長坂口(ながさかぐち)など、全部で10か所ほどあったといいます。
しかし江戸時代に入り天下泰平の世が訪れるとともに外敵の脅威もなくなったため次第に無用の存在となり、慶長年間(1596~1615)には一部が壊され、東辺の河原町通・寺町通沿いは早い時期から市街地へと変貌を遂げ、またその後も市街地が洛外に広がるにつれて、堤防の役割を果たしていたものなどを除いて次々と取り壊されていきました。
このため現在では北辺を中心に西辺・東辺の一部に僅かに名残りを残すのみとなっていますが、近世に入り京都の街の歴史的沿革を知る上で、また広く日本における都市の発達の過程を知るための重要な遺構として再評価され、1930年(昭和5年)、市内に残る御土居のうち保存状態の良い8か所が、国の「史跡」に指定。更に1965年(昭和40年)にもう1か所、北野天満宮境内のものが追加され、現在9か所が国の「史跡」に指定されています。
[1]中京区西ノ京中合町
[2]上京区北野馬喰町 北野天満宮境内
[3]北区平野鳥居前町
[4]北区紫野西土居町
[5]北区鷹ヶ峯旧御土居町3
[6]北区鷹ヶ峯旧御土居町2
[7]北区大宮土居町
[8]北区紫竹上目町・上堀川町の賀茂川沿い
[9]上京区寺町広小路上ル 盧山寺山内
上記の御土居は公有地のものや民有地のもの、柵で囲まれて立ち入ることもできないものや、あるいは北野天満宮や盧山寺の境内にあるなど、形態は様々で、またこれらの指定地以外にも、北区の大宮交通公園内や中京区の北野中学校内などに部分的に御土居が残っている場所もあるといいます。
このうち北区大宮土居町の御土居は通称「玄啄下の御土居」といわれ、9ヶ所の中では最もスケールが大きく状態良く残されていて、堀も深いといい、また北区鷹峯旧土居町、仏教大学の北、京都朝鮮第三初級学校の東隣にある「御土居史跡公園」は、国史跡に指定されている「御土居」上に作られた公園で、一見すると普通の公園ですが、「御土居」の上にベンチが並んでおり、御土居を体感できる貴重な場所として知られています。