京都市上京区寺町通広小路上ル北之辺町、御所東の寺町通沿いにある寺院で、天台宗系の圓浄宗の大本山。
本尊は阿弥陀如来で、寺号は詳しくは「廬山天台講寺(ろざんてんだいこうじ)」といいます。
平安中期の938年(天慶元年)、延暦寺中興の祖で比叡山天台18世座主・慈恵大師良源(元三大師)(りょうげん(がんさんだいし))により京都の北、船岡山の南麓に創建された「與願金剛院」がはじまり。
その後、鎌倉初期の1245年(寛元3年)に法然に帰依した住心房覚瑜(じゅうしんぼうかくゆ)が出雲路に「廬山寺(ろざんじ)」を開き、更に室町初期に廬山、與願両寺を兼務した廬山寺3世・明導照源(みょうどうしょうげん)によって廬山寺が與願金剛院に統合され、円・浄土・戒・密の四宗兼学寺院となります。
室町時代には「応仁の乱」の兵火に遭い、1571年(元亀3年)の織田信長の比叡山焼き討ちの際には正親町天皇の女房奉書により難を免れた後、天正年間(1573~1592)に豊臣秀吉の都市改造計画による寺町建設に伴って現在地に移転されました。
明治維新までは二尊院・遣迎院・廬山寺とともに「黒戸四箇院」という宮中の仏事を司る4つの寺院、摂家門跡の一つに数えられ、その後4か寺は「廃仏毀釈」によって宮中から天台宗の延暦寺の所属となりますが、明治天皇の勅命により復興されています。
度々の火事に遭っており、現在の堂宇は1788年(天明8年)の「天明の大火」で失った後、皇室とのゆかりからその援助で1794年(寛政6年)に復興されたもので、「御仏殿(通称・本堂)」と「御黒戸(通称・尊牌殿)」は第119代・光格天皇の勅名により仙洞御所の一部を移築し造営されたものです。
「元三大師堂」は天明の大火後の1835年(天保6年)の再建で、本尊・元三大師像、毘沙門天像、薬師如来像、不動明王像などを安置するほか、現在は京都国立博物館に寄託されている木造如意輪観音半跏像の御前立があります。
このうち「木造如意輪観音半跏像」は用明天皇の586年に、聖徳太子によって大阪の四天王寺、三重県伊勢の天王寺、東京谷中の天王寺と共に全国4か所に建立された天王寺の一つで、数度の焼失と再建の後、1874年(明治7年)2月に官許によって廬山寺に合併された金山天王寺の本尊。
鎌倉時代の作で重要文化財に指定され、「洛陽三十三所観音霊場」の第32番の札所本尊にもなっています。
また毘沙門天像は「京都七福神」の第3番の毘沙門天となっており、ご利益を求めて多くの参拝者が訪れます。
1965年(昭和40年)には考古・歴史学者の角田文衛により廬山寺が「源氏物語」の作者として知られる紫式部の邸宅址であると発表され、それにちなんで同年には「源氏の庭」と呼ばれる苔庭が作られており、現在は6月中旬から9月頃にかけて桔梗の名所として有名となっています。
この他にも境内には天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が、外敵から来週に供える防塁として、また鴨川の氾濫から街を守る堤防として京都の都市改造計画に基づいて築いた土塁の遺構「御土居」の一部が残っていることでも知られています。
そして行事としては毎年2月3日の節分の日に催される「節分会 追儺式鬼法楽」は宮中で元三大師の修法を妨害する悪鬼を退散させた故事にちなんだもので、節分の日のニュースでよく採り上げられるなど、京都の中でも特によく知られた節分行事として有名です。