学問の神様・菅原道真を祀る「北野の天神さん」
福岡太宰府天満宮とともに天神信仰の中心で学問の神様・菅原道真を祀る。
豊臣家と縁深く1587年の秀吉の北野大茶会で有名なほか国宝の本殿は子秀頼の造営。境内西に秀吉の御土居も残る。
京都屈指の梅の名所で2/25には梅花祭。毎月25日は縁日で賑わう。
境内の随所に神使とされる牛の像の姿も
北野天満宮のみどころ (Point in Check)
学問の神様として有名な平安時代の政治家・菅原道真を祀る神社といえば「天満宮」。北野天満宮は全国に約1万2千社存在するといわれるその天満宮・天神社の頂点に立つ神社で、道真を崇拝する天神信仰の発祥の地であるとともに、福岡県の大宰府天満宮とともに天神信仰の中心をなす神社。地元の人からも「北野の天神さん」「北野さん」と呼ばれて親しまれています。
無実の罪で配流された道真が配流先の大宰府の地で没すると、京の都で落雷などの災害が相次ぎ、道真の祟りを恐れた朝廷は道真の官位を回復、947年(天暦元年)にはその霊を鎮めるため託宣に基づき北野天満宮が創建されます。
以後は二十二社の一社として朝廷から厚い崇拝を受け、戦国時代の1587年には天下人・豊臣秀吉による「北野の大茶会」が盛大に開かれました。また八棟造(権現造)で知られる国宝の本殿は秀吉の子・豊臣秀頼により寄進されたものです。
その後江戸時代に入り各地に読み書き算盤を教える寺子屋が作られると、優秀な学者であった道真の「御神影」が精神的支柱として掲げられるようになり、御霊としての性格は薄れ「学問の神様」として広く知られるようになります。
現在も学生や受験生はもちろん、その家族も数多く参拝に訪れており、境内は合格祈願・学業成就を願って奉納された絵馬で溢れ返ります。
また道真は梅と牛に深い縁があり、天満宮の神の使いで撫でるとご利益がある「撫で牛」が人気なほか、京都屈指の梅の名所としても有名。さらに近年は秋にもみじ苑の公開があり、御土居の紅葉が楽しめるようになりました。
行事も多種多様で、毎月25日に開催され多くの人で賑わう「天神さん」は東寺の弘法さんと並んで京都を代表する縁日の一つ。また道真の命日である2/25に開催され、上七軒の芸妓・舞妓らによる野点も披露される「梅花祭」や、京都に秋を告げる代表的な秋祭で、五穀豊穣に感謝し穀物や野菜などで作られた神輿が巡行する「ずいき祭」などもよく知られています。
門前名物としては毎月25日に境内に茶屋を出店する長五郎餅や、一の鳥居門前の粟餅澤屋がよく知られているほか、豆腐料理のとようけ茶屋や一本うどんのたわらやなども有名です。
天神信仰発祥の社
北野天満宮は天神信仰発祥の地であり、全国中に12,000社もあるといわれる天満宮・天神社の総本社として知られています。
道真遷座以前の北野─天のエネルギーが働く聖地
平安遷都当初の御所は現在よりも西の千本丸太町付近にあり、北野の地は都の守護をつかさどる四方(北東・北西・南東・南西)の北西、「乾」の地として大変重要な場所とされ、天地すべての神々「天神地祇(雷神)」を祀る地主社が建てられていました。
そして北野の上空には北極星が輝いていたことから、日、月、星の3つの光の運行が国家・国民の平和と安寧を左右すると考える「三辰信仰」の聖地として時の天皇により深い祈りが捧げられてきたといいます。
無実の罪で大宰府に配流となった菅原道真の霊を鎮めるために創建
右大臣・菅原道真が無実の罪で左遷され、わずか2年後の903年(延喜3年)、配流先の大宰府で没すると、都では落雷などの災害が相次ぎます。
そしてこれが道真の祟りだとする噂が広まり、御霊信仰と結びついて恐れられ、朝廷は道真の没後20年目に左遷を撤回して官位を回復し、正二位を贈ったのでした。
942年(天慶5年)、右京七条の西ノ京に住む多治比文子(たじひのあやこ)という少女に道真から「わが魂を(現在の北野天満宮境内の)右近馬場に祀れ」との託宣(神のお告げ)があり、その5年後にも近江国比良宮(ひらのみや)の神主・神良種(みわのよしたね)にも7歳の幼児・太郎丸を通じて同様の託宣がありました。
この点文子は道真の霊を鎮めるため最初は自宅の庭に瑞垣を造り祀っていましたが、北野の朝日寺の僧・最鎮((最珍)さいちん)に相談の上、947年(天暦元年)6月9日に北野の現在地にて道真を祀るようにになりました。これが北野天満宮とはじまりとされています。
これにより北野の地の霊験はさらに増し、北野天満宮は天空を司る「天神」の社となって「天神信仰」発祥の地と呼ばれるようになりました
その後藤原師輔(道真を左遷に追い込んだ藤原時平の甥にあたるが、父・忠平は菅原氏と縁戚であった)による大規模な社殿の寄進があり、987年(永延元年)には一条天皇の命により初めて勅祭も行われ、さらに「天満宮(北野天満宮天神)」の神号を授かっています。
更に993年(正暦4年)には正一位・右大臣・太政大臣を追贈、1004年(寛弘元年)には一条天皇の行幸、と代々朝廷からの厚い崇敬を受け、二十二社の一社にも定められて、国家国民を守護する霊験あらたかな神として崇められました。
豊臣家による庇護
1444年(文安元年)、北野天満宮を本所としていた麹座の麹製造の独占権を巡るトラブルからに室町幕府軍の攻撃を受けた「文安の麹騒動」で一時衰退するも、戦国時代には豊臣家による庇護を受け、1587年(天正15年)10月1日には、境内にて秀吉による有名な「北野大茶湯」が催行されたほか、境内西側には「御土居」が築かれるとともに社領を安堵。
1607年(慶長12年)には秀吉の子・豊臣秀頼の寄進で八棟造(権現造)といわれる豪華絢爛な本殿が再建されています。
近代
明治期に入り1871年(明治4年)に一時期「北野神社」と改名した時期がありましたが、これは「宮」を名乗るためには祭神が基本的には皇族であり、かつ勅許が必要であったためだといいます。
その後戦後になり神道国家管理が終わると、旧称の「北野天満宮」の呼称が復活しました。
学問の神様
創建より天神信仰・皇城鎮護の社として崇められていましたが、江戸時代に入り各地に読み書き算盤を教える寺子屋が作られると、優秀な学者であった道真の「御神影」が精神的支柱として掲げられるようになり、御霊としての性格は薄れ「学問の神様」として広く知られるようになります。
合格祈願や学業成就を願って真剣に手を合わせて祈る地元の学生やその家族、全国各地から訪れる修学旅行生の姿は絶えることはありません。
秀吉による北野大茶会の開催
戦国時代の1587年に天下人・豊臣秀吉による「北野の大茶会」が盛大に開かれたことでも有名。
秀頼寄進の国宝・本殿
建物では本殿が1607年(慶長12年)豊臣秀頼の寄進、日光東照宮にも利用されている八棟造(権現造)といわれる豪華絢爛な桃山期を代表する建築物で、石の間、楽の間と拝殿と合わせて国宝。ほかに中門(三光門)、廻廊と透塀2棟、後門、東門が重文。
天満宮の神の使いで、撫でるとご利益のある「撫で牛」
また境内には天満宮における神の使いとされる牛の像がいたる所に安置されており、一部の牛像は撫でるとご利益がある「撫で牛」として人気を集めています。牛の自らの体の悪い部分と同じ部位を撫でると病気やケガが治るといわれています。
(ちなみにほぼすべてが臥牛ですが、一体だけ本殿に立ち上がろうとする謎の立ち牛が彫られています)
毎月25日は縁日「天神市(天神さん)」
菅原道真の誕生日が6月25日、命日が2月25日であることから、天神の縁日は25日となっています。この毎月25日には「天神市(天神さん)」と呼ばれる縁日が境内に立ち、一の鳥居から楼門までの参道を中心に古着市や屋台などが出て多くの人で賑わいます。また境内の神楽殿にて神楽舞を受け付けるほか、宝物殿の特別公開もあり、千年を超える歴史の中で奉納されてきた数多くの国宝・重文を鑑賞することができます。
ちなみに年始1月は「初天神」、12月は「終い天神」と呼ばれ、全国から毎年多くの人々が訪れ、日没後には境内がライトアップもあります。
京都屈指の梅の名所、「梅花祭」も開催
梅は道真がこよなく愛した花として知られ、大宰府への左遷が決まり京の都を去る際に自らの屋敷の庭に咲き誇る梅に向かって「東風吹けば 匂い起こせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ(春風が吹いたら梅の花よ香りを送っておくれ。主人がいないからといって、春を忘れないで)」と詠んだ歌はよく知られているほか、その梅が菅原道真を慕って一晩のうちに大宰府に飛来したという飛梅伝説が生まれたことから神社の神紋にもなっています。
これにちなみ境内には珍しい品種も含めて50種約2000本の梅が植えられており、毎年2月初から3月末まで「梅苑」が公開され多くの参拝客が訪れるほか、道真の命日である2/25には「梅花祭(ばいかさい)」が開催され、梅の香りが漂う中で五花街の一つである上七軒の芸妓・舞妓らによる野点(のだて)が行われ、境内は華やかな雰囲気に包まれます。
ちなみに梅は梅苑のほかに中門(三光門)と付近の白梅、拝殿前の紅梅、摂社の地主神社前なども見所です。
また境内の梅は初夏に収穫され、天日干しの後、年末には新年の縁起物「大福梅」として授与されています。
御土居の紅葉
境内の西側には紙屋川(天神川)が南北に流れ、そのすぐそばには1591年(天正19年)に豊臣秀吉が築いた御土居の一部が残っており、史跡に指定されています。この一帯にはイロハモミジなど約250本の自然林が広がっているのですが、2007年より秋に「もみじ苑」として公開されるようになり、新たな紅葉の名所となりました。
毎年11月初旬より12月初旬まで公開。公開に合わせてライトアップが行われるほか、宝物殿の公開など境内ではさまざまな催しが行われます。
京都に秋を告げる「瑞饋(ずいき)祭」
毎年10月のはじめに開催され、京都に秋を告げる祭りとして知られています。
「ずいき祭」は1年の五穀豊穣に感謝し、秋の収穫において神前に野菜や穀物をお供えしたのがはじまりで、10月4日には里芋の茎であるずいきで屋根を形づくり、各部を隙間なく穀物や野菜、湯葉や麩などの乾物類で覆った野菜でできた珍しい「ずいき御輿」が市内を巡行します。
北野天満宮の施設案内
今出川通沿い、御前通との交差点に一の鳥居があり、その北側に約2万坪といわれる境内が広がっています。
その一の鳥居から三の鳥居まで長い参道が南北に続き、楼門をくぐり、更に参道を経て豪華絢爛な彫刻の施された三光門をくぐると本殿にたどり着きます。ちなみに参道は天満宮の創建よりも前からこの地にあった地主社に配慮してまっすぐではなく、楼門をくぐるとやや左に曲がる形になっています(いわゆる「筋違いの本殿」)。
本殿を取り囲むようにして摂社・末社が多数。そして西側に紙屋川(天神川)と御土居、その南側に梅苑があり、本殿の西側と楼門の手前に入口があります。
境内の東側は花街・上七軒に隣接し、歌舞練場も近くにあってお茶屋も多く立ち並ぶ華やかで雰囲気のある場所になっています。
アクセスは今出川通沿いの門前に市バスのバス停があるほか、今出川通を西へ少し進んだ西大路今出川の交差点にある嵐電北野白梅町駅からも比較的近くです。
そして北門を出てすぐ西の西大路通沿いに桜の名所として有名な平野神社が隣接しているほか、更に西大路通を北へ進んだ先には世界遺産・金閣寺が、十分歩いて行ける距離にあります。
門前名物としては25日の天神さんの日に境内にも出店する長五郎餅や、今出川通沿いの粟餅澤屋がよく知られているほか、同じく今出川通沿いにある豆腐料理のとようけ茶屋や一本うどんのたわらやも有名です。
表参道
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大鳥居(一ノ鳥居)(おおとりい(いちのとりい))
今出川通の「北野天満宮前」の交差点に面する表参道の入口に立つ鳥居で1921年(大正10年)10月の建立。
高さ11.4mで、上部にある扁額も高さ2.7m・幅2.4mあるという。
扁額の「天満宮」の文字は閑院宮載仁親王筆で2014年(平成26年)に修復が行われた。
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狛犬(こまいぬ)
一ノ鳥居を左右を固め、全長約5mは京都府内最大といわれる。
画家・竹内栖鳳の考案で1934年(昭和9年)に建立。
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新門辰五郎の石燈籠(しんもんたつごろうのいしどうろう)
大鳥居(一の鳥居)をくぐってすぐの所にある石燈籠で、新門辰五郎の寄進による。
新門辰五郎は幕末に活躍した江戸町火消し十番組の頭取で、浅草寺の新しい門の防火を預かったことから「新門」と称した。
一橋(徳川)慶喜に重用され、上洛の際にはその身辺警護も務めたほか、慶喜が大坂城を退去する際に置き忘れた金扇馬印を決死で取りに戻り江戸まで持ち帰ったエピソードが残る。
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影向の松(ようごうのまつ)
一ノ鳥居をくぐってすぐ右側にある玉の石垣で囲まれた一本松。
創建当初から存在していると伝わる御神木で、毎年立冬から節分までの三冬の間に初雪が降ると祭神・菅原道真がこの松に降り雪を愛でながら歌を詠むという言い伝えが残る。
現在も毎年初雪の日には硯と筆と墨を供え松の前で初雪祭を開催している。
「影向」とは神仏が降臨するという意味。
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露の五郎兵衛顕彰碑(つゆのごろべえけんしょうひ)
一ノ鳥居そば、影向の松の北の駐車場付近にある石碑で、日本最初の落語家とも上方落語の祖と呼ばれる初代・露の五郎兵衛(1643-1703)を顕彰するため、2代目露の五郎兵衛(1932-2009)により1999年(平成11年)3月に建立。「人草や 来た野の 露乃 五郎兵衛」と刻まれている。
露の五郎兵衛は元々は日蓮宗の談義僧で、のちに還俗。延宝・天和の頃(1681-84)に北野天満宮や祇園真葛が原、四条河原、百万遍などの開帳場に場所を占めて自作の笑ばなしを口演し、都の名物男と呼ばれた。
1703年(元禄16年)に61歳で亡くなるまで数部の咄本を著し、遺した咄は3百数十話、直接、間接に、現行落語の原話になっているものも沢山あるという。
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茶席「松向軒」(しょうこうけん)
一ノ鳥居をくぐってすぐ左側に位置。
1587年(天正15年)10月に豊臣秀吉が開催した「北野大茶会」の際に建てられた茶室を復元したもの(実物は大徳寺高桐院に移築)で、そばには細川三斎(忠興)が茶の水を汲んだといわれている「三斎井戸」も残る。
毎月15日(8・12月を除く)には明治期に裏千家の会員により発足した松向軒保存会によるお茶会も開催されている。
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三斎井戸(さんさいいど)
茶席「松向軒」の中にある井戸。
1587年(天正15年)10月に豊臣秀吉が開催した「北野大茶会」の際に細川ガラシャの夫としても知られる戦国大名・細川忠興(三斎)がこの井戸で茶の水を汲んだといわれている。
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茶席「松向軒」の敷地内北側にある高さ約1mの石造角柱で、1822年(文政5年)に米市兵半により建立されたもの。
表面に「奇縁氷人石」と刻まれ、右側側面は「たづぬる方」、左側側面には「おしゆる方」と刻まれている。頭部は現存せず。
江戸時代に迷子を探す手立てとして石碑の片側に迷子の名前などを書いた紙を貼り、その反対側に情報提供者が情報を書いた紙を貼るという習俗が見られたが、京都で有名なのが誓願寺の「迷子しるべ石」と八坂神社の「月下氷人石」とのこの石だという。
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臥牛像(がぎゅうぞう)
天満宮における神の使いとされ、境内には多数の臥牛像が見られる。
写真は大鳥居(一の鳥居)をくぐって最初、茶席「松向軒」のそばにある臥牛像。1901年(明治33年)の作で石造。
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二ノ鳥居(にのとりい)
表参道の入口から2番目にある鳥居。長州藩寄進の「萩狛犬」が両脇を固めている。
西側には東向観音寺、東側には駐車場が広がっている。
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萩狛犬(はぎこまいぬ)
二ノ鳥居の脇を固める
幕末に天神信仰が広がったという長州藩が北野天満宮のほか大宰府天満宮と防府天満宮に奉納したという萩型の狛犬。
幕末の禁門の変の後に長州藩と戦った京都守護職の会津藩が萩狛犬を見つけて神社に撤去を要求し実力で倒そうとしたところ、雷鳴が響き渡り道真の祟りを恐れた会津藩士が逃げ帰ったという「萩狛犬伝説」が残る。
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806年(延暦25年)に桓武天皇の勅を奉じ藤原小黒麿らが皇城鎮護のために建立した朝日寺が前身。菅原道真が幼少期に勉学に励んだ場所で、本尊の十一面観音も道真の自作と伝わる。
鎌倉末期の1311年(応長元年)に無人如導宗師が中興、その後南北両朝の天皇や室町幕府初代将軍・足利尊氏らの帰依を受け北野天満宮の神宮寺として栄えた。
元々は東向と西向の2つの堂があったが応仁の乱などで焼失し西向は再建されなかった。現在の本堂は豊臣秀頼による再建。
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臥牛像(がぎゅうぞう)
天満宮における神の使いとされ、境内には多数の臥牛像が見られる。
写真は三ノ鳥居前東側のもので、黒色で他のものに比べてやや小さめ。2009年(平成21年)のもの。
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臥牛像(がぎゅうぞう)
天満宮における神の使いとされ、境内には多数の臥牛像が見られる。
写真は三ノ鳥居前西側、伴氏社の横にあるもので石造。
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伴氏社(蓮の鳥居)(ともうじしゃ)
境内末社で、祭神・菅原道真の母を祀り、名前の由来は道真の母親が大伴氏の出身であることから。
温かい愛情と厳しい眼差しで道真を育てた母を祀ることから子供の成長と学業成就の神徳があり、我が子の健やかな成長と大成を願う母親たちの信仰が厚い。
また入口の石鳥居は蓮の台座の上に乗っており「蓮の鳥居」と呼ばれる珍しい形式で国の重要美術品に指定。
蚕ノ社(木嶋神社)の三柱の鳥居と京都御苑内にある厳島神社の唐破風鳥居と並ぶ京都三珍鳥居の一つとされる。例祭は1/14。
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三ノ鳥居(さんのとりい)
表参道の入口から3番目にある鳥居。
西側には梅苑、東側には駐車場が広がっている。
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本殿へ向かって三ノ鳥居をくぐりすぐ左側に立つ石碑。
1834年(天保5年)に小野英棟という名の商人が建立。
祭神の菅原道真は弘法大師空海や小野道風と並び「書道の三聖」と称される書家で習字の神としても信仰され、全国各地の天満宮で使い古した筆を埋めて供養する塚が建てられたといい、これもそのうちの一つ。
ちなみに天満宮では正月に書初め奉納も行われている。
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撫牛(なでうし)
天満宮における神の使いとされ、境内には多数の臥牛像が見られる。
写真は三ノ鳥居と楼門の間、西の梅苑側にあり、金属製で屋根付き。
自分の身体の具合の悪い部分を撫でてから牛の身体の同じ箇所を撫でると、悪い所が牛に移り病気やケガが治るといういわゆる「撫で牛」として人気。
特に学問の神様らしく牛の像の頭を撫でると頭が良くなると多くの受験生がご利益に預かろうと訪れる。
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撫牛(なでうし)
天満宮における神の使いとされ、境内には多数の臥牛像が見られる。
写真は三ノ鳥居と楼門の間、東の駐車場側にあり、金属製で屋根付き。他と異なり子牛が寄り添っているのが珍しい。
自分の身体の具合の悪い部分を撫でてから牛の身体の同じ箇所を撫でると、悪い所が牛に移り病気やケガが治るといういわゆる「撫で牛」として人気。
特に学問の神様らしく牛の像の頭を撫でると頭が良くなると多くの受験生がご利益に預かろうと訪れる。
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右近の馬場(うこんのばば)
大鳥居(一ノ鳥居)から東門へ向かって表参道と並行する形で境内の東側を南北に延びる参道で、現在周辺は主に駐車場となっている。
嵯峨天皇大同2年に開かれた馬場で、右近衛府の馬の調教や鍛錬の場として使われた。
右近衛大将であった菅原道真が好んだことから、右近衛府の馬場、俗に「右近の馬場」と呼ばれ、道真が冤罪で没するとその霊を鎮めるためにこの地に北野天満宮が創建されることとなる。
なお開かれた当時は桜狩りが行われた程の桜の名所で、謡曲「右近」はこの地を舞台に春の曲にふさわしい女神を主役として御代を寿ぐ曲。
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太閤井戸(たいこういど)
表参道の東側の右近馬場に位置。
天下人・豊臣秀吉が1587年(天正15年)にこの地で催した「北野大茶会」ゆかりの井戸。
毎年12/1には大茶会にちなんだ「献茶祭(けんちゃさい)」を開催。
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北野大茶会の碑(きたのおおちゃかいのひ)
表参道の東側の右近馬場に位置。1587年(天正15年)10月1日、九州平定と聚楽第造営を記念し天下にその権威を示すため豊臣秀吉が北野天満宮境内で開催した無礼講の茶会「北野大茶湯」。
千利休などの茶人たちをはじめ全国から身分を問わず庶民にも参加を呼びかけ、境内から北野松原にかけて1500軒の茶屋や数寄屋が建てられ盛大に開催された。
それを記念した「北野大茶会湯之址」の石碑で、1979年に京都市茶業組合が創立100年を記念して建立。
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さざれ石(さざれいし)
表参道の東側の右近馬場に位置。「細石」と書き、学名は石灰質質角礫岩。日本の国家・君が代にも詠まれていることで知られている石。
元々は小さな石の意味だが、石灰石が長い年月をかけて雨水によって溶かされ、他の小石を次々と接着して1つの大きな岩の塊となったものをいう。
京都では他に下鴨神社、護王神社、勧修寺、福知山の元伊勢内宮皇大神社などに見られる。
楼門~本殿
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楼門(ろうもん)
表参道の三ノ鳥居をくぐると現れる巨大な二階建ての門。
菅原道真を称える「文道大祖 風月本主(ぶんどうのたいそ ふうげつのほんしゅ)」の額を掲げ、両脇には平安時代に貴族の護衛を務めた官人「随身」の像が門を守護するように安置されている。
年末から年始にかけては次の年の干支が描かれた重さ120kgの「ジャンボ絵馬」が奉掲されるのが恒例となっている。
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梅香水(ばいこうすい)
楼門くぐってすぐ右手にある手水舎(ちょうずや・てみずや)。
参詣者が手や口をすすぎ清める場所。ここにも臥牛像の姿が見られる。
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臥牛像(がぎゅうぞう)
天満宮における神の使いとされ、境内には多数の臥牛像が見られる。
写真は楼門をくぐってすぐ右側、境内図のそばにあるもので石造。梅の時期には傍らにある白梅が見事に咲き誇り更に趣きを増す。
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池大雅灯籠
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福部社(ふくべしゃ)
境内摂社で、祭神・十川能福(そごうのうふく)は開運招福の神としての神徳がある。
十川能福は菅原道真に牛車を引く牛の世話役である舎人(とねり)として仕えた人物だが、その名前からかいつの頃からか金運と開運招福を司る「福の神」として崇敬を集めるようになったという。
毎年節分の日に茂山千五郎社中が奉納する追儺狂言「福の神」の主人公でもあり、天満宮の参拝者に悪事を働く鬼を退治する筋立てとなっている。例祭は3/12。
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白太夫社(しらだゆうしゃ)
境内摂社で、祭神・渡会春彦(わたらいはるひこ)は子授けの神としての神徳がある。
渡会春彦は道真の父・菅原是善が世継ぎの誕生を祈願した伊勢神宮の青年神官で、道真が誕生すると数十年に渡り守役として仕えた。
若い頃から髪が白かったため「白太夫」と呼ばれていたらしく、全国の天満宮でも必ず祀られているという。例祭は1/9。
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菅公詩碑(かんこうしひ)
祭神・菅原道真の詩を刻んだ碑石。
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老松社(おいまつしゃ)
境内摂社で、祭神の島田忠臣(しまだただおき)は菅原道真の家臣、一説には岳父(夫人の父)ともいわれている人物。
道真が大宰府に配流された時、無実を神々に訴えるため天拝山に登った際に笏を預かってお供をし、後に道真から松の種を天満宮の地に撒くように託された。
天神降臨の際に多数の松が一夜にして生じたという伝説はこの事績に基づいており、植林・林業の神としての神徳がある。例祭は3/12。
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火之御子社(ひのみこしゃ)
境内摂社で祭神・火雷神は雷除け、五穀豊穣の神としての神徳がある。
947年(天暦元年)の北野天満宮鎮座以前よりこの地で「北野雷公(きたのらいこう)」として崇敬を集めていたといい、近年は雷除けに霊験あらたかとしてゴルファーや釣り人などから信仰を集めている。
また大晦日の「北野のおけら詣」における火縄授与はこの社の浄火を移したもの。例祭は6/1。
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撫牛(なでうし)
天満宮における神の使いとされ、境内には多数の臥牛像が見られる。
写真は楼門をくぐり三光門(中門)へと続く参道の途中左側(西側)にあり、金属製で屋根付き。
自分の身体の具合の悪い部分を撫でてから牛の身体の同じ箇所を撫でると、悪い所が牛に移り病気やケガが治るといういわゆる「撫で牛」として人気。
特に学問の神様らしく牛の像の頭を撫でると頭が良くなると多くの受験生がご利益に預かろうと訪れる。
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撫牛(なでうし)
天満宮における神の使いとされ、境内には多数の臥牛像が見られる。
写真は楼門をくぐり三光門(中門)へと続く参道の途中右側(東側)にあり、金属製で屋根付き。
自分の身体の具合の悪い部分を撫でてから牛の身体の同じ箇所を撫でると、悪い所が牛に移り病気やケガが治るといういわゆる「撫で牛」として人気。
特に学問の神様らしく牛の像の頭を撫でると頭が良くなると多くの受験生がご利益に預かろうと訪れる。
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三光門(中門)(さんこうもん(ちゅうもん))
国の重文、第111代・後西天皇御宸筆の「天満宮」の勅額を掲げる。
中門だが豊富な彫刻の中に日(太陽)・月・星があることから「三光門」の別名を持つ。
ただし実際には日と月と三日月はあるが星の彫刻はないとも言われており、「星欠けの三光門」として「天神さんの七不思議」に数えられている。
一説には平安京造営当初は千本丸太町にあった旧大極殿が天満宮の南方位に位置し、帝が天満宮を遥拝した際に三光門の真上に北極星が瞬いていたので星を刻まなかったのだとも。
門の付近は白梅が多く、梅の時期には梅と門を背景に記念撮影をしたりカメラを構える参拝客も多い。
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渡辺綱の石燈籠(わたなべつなのいしどうろう)
三光門(中門)をくぐってすぐ右手にあり、重要美術品にも指定。
平安中期の武将で、大江山の酒呑童子退治で有名な源頼光の四天王の一人・渡辺綱が一条戻り橋での鬼退治での神恩を感謝して寄進したという石灯籠。
一条戻り橋での鬼退治とはある夜、渡辺綱が一条戻り橋で若く美しい女性に家まで送って欲しいと頼まれるが、しばらくすると突如鬼の姿となり綱を捕えて愛宕山へ連れ去られかける。しかし天満宮上空に差しかかった所で太刀を抜き放ち掴んでいた鬼の片腕を切り落として難を逃れたという話。
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授与所(じゅよしょ)
三光門(中門)をくぐってすぐ右側、本殿の前にある。
お守りや絵馬・天神矢などの授与や入試・試験・学力向上の合格祈祷などの祈祷受付などを行っている。
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紅和魂梅(べにわこんばい)
拝殿の手前左にある紅梅の木で、「飛梅伝説」伝承の木との表記。
「飛梅伝説」とは、菅原道真が左大臣・藤原時平の讒言によって大宰府に左遷される際に幼い頃より親しんできた邸(紅梅殿)の梅に「東風(こち)吹かば 匂い起こせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」と詠んだ。
すると道真を慕った梅の木は、道真が大宰府に着くと一夜のうちに飛来しその地に根付いたという伝説で、福岡県の太宰府天満宮のものが有名。
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松
拝殿の手前右にある松の木。
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本殿(ほんでん)
現在の社殿は1607年(慶長12年)、豊臣秀吉の遺命を受けた豊臣秀頼が寄進し建立。祭神として菅原道真公、相殿に道真の子息・中将殿および北の方・吉祥女を祀る。
入母屋造の本殿と拝殿の間を石の間で接続(相の間でつなぐ八幡造と系統は同じ)。更に拝殿の左右に「楽の間」がそれぞれ接続しており、屋根の外観も変化に富み棟がいくつもあるように見えることから「八棟造(やつむねづくり)」と呼ばれ、桃山建築を代表する豪華絢爛さを誇る。後に建てられた日光東照宮の「権現造(ごんげんづくり)」も同じ形式。
石の間と拝殿、楽の間と合わせて1棟とし、神社建築の歴史を今に伝える貴重な遺構として国宝に指定されている。
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拝殿(はいでん)
本殿とともに1607年(慶長12年)に豊臣秀頼が寄進し建立。
通常はこの拝殿から参拝することになり、合格祈願・学業成就などを祈願する多くの参拝者が行列を作ることも多い。
「八棟造(やつむねづくり)」の一部を構成し、本殿と石の間、楽の間と合わせて1棟とし国宝に指定されている。
拝殿の欄間には珍しい立った姿の牛の姿が刻まれており、「天神さんの七不思議」の一つ。
ちなみに亡くなった道真の亡骸を運ぶ途中に車を引く牛が座り込んで動かなくなったため、付近の安楽寺(のちの大宰府天満宮)に埋葬したとの故事から、天満宮の牛は横たわった姿をした臥牛像が一般的。
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みくじ引所
拝殿の右手にある。初穂料200円。
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楽の間(がくのま)
本殿とともに1607年(慶長12年)に豊臣秀頼が寄進し建立。。拝殿の左右に接続する建物でこちらが西側のもの。
「八棟造(やつむねづくり)」の一部を構成し、本殿と石の間、拝殿と合わせて1棟とし国宝に指定されている。
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楽の間(がくのま)
本殿とともに1607年(慶長12年)に豊臣秀頼が寄進し建立。拝殿の左右に接続する建物でこちらが東側のもの。
「八棟造(やつむねづくり)」の一部を構成し、本殿と石の間、拝殿と合わせて1棟とし国宝に指定されている。
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石の間(いしのま)
本殿とともに1607年(慶長12年)に豊臣秀頼が寄進し建立。
本殿と拝殿の間を接続するように建てられ、2棟より一段低い位置に設けられているのを特徴とする。
「八棟造(やつむねづくり)」の一部を構成し、本殿と拝殿、楽の間と合わせて1棟とし国宝に指定されている。
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御后三柱(裏の社)(ごこうのみはしら(うらのやしろ))
本殿の祭神・菅原道真の神座の真後ろに背中合わせに北向きに建てられている社で、天穂日命(あめのほひのみこと)・菅原清公卿(すがわらのきよきみきょう)・菅原是善卿(すがわらのこれよしきょう)の三神を祀り、学徳成就の神徳がある。
天穂日命は道真の遠い祖先神で、菅原清公は道真の祖父、そして菅原是善は道真の父にあたる。
清公は遣唐使として空海・最澄・橘逸勢らと入唐し、菅原氏として初めて公卿に列せられた人物で、是善は11歳の時に嵯峨天皇の御前で書を読み詩を作った俊才で大学頭・勘解由長官を経て政治の最高機関・太政官の「参議」に列せられた人物。ともに学問を通じて人材を多数育成するなど教育者として大きな業績を残している。
通常の神社は正面から参拝するのみで、背面にも神座を持つのは珍しいが、古くはこの御后三柱も含めて礼拝するのが一般的だったという。「天神さんの七不思議」の一つ。
本殿東側
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校倉(あぜくら)
1607年(慶長12年)に豊臣秀頼が本殿を再建したのと同時期に建てられたものの一つ(他に中門、東門、絵馬堂、神楽殿など)。
「校倉」とは柱を用いずに三角形や四角形、あるいは台形の断面をした木材を井桁(いげた)状(倉の四隅で交差する構造)に組んで外壁とした建物で、奈良県の・大寺の正倉院や唐招提寺の宝蔵などが知られている。
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宝物殿(ほうもつでん)
1927年(昭和2年)に萬燈祭の記念事業として建築された和洋折衷の建物で、神社に伝わる数多くの宝物を収める。
祭神・菅原道真の生涯や天満宮創建の由来などが描かれ神社の根本縁起とされる国宝「北野天神縁起絵巻」を筆頭に「北野大茶湯図」や道真愛用と伝わる松風硯など数多くの重文やジャンボ絵馬などを展示。
毎月25日の縁日や梅と紅葉シーズンなどに特別公開される。
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神楽殿(かぐらでん)
1607年(慶長12年)に豊臣秀頼が本殿を再建したのと同時期に建てられたものの一つ(他に中門、東門、絵馬堂、校倉など)。
狂言や上七軒の舞妓による日本舞踊のほか、毎月25日の天神の日には神楽舞も奉納される。
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社務所(しゃむしょ)
境内の東側に位置する、神職等の神社職員の控え所。
御朱印なども受付している。
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時計塔(とけいとう)
社務所の前にある時計塔。
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祓所(はらいしょ)
三光門(中門)の右手前にある。
神事でお祓いをする場所。
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織部形石燈籠(おりべがたいしどうろう)
三光門(中門)の右手前にある石灯籠。
茶人好みの石灯籠形式の一つらしく、1615年(元和元年)に亡くなった古田織部(ふるたおりべ)の墓にあるものの形に因んで名付けらたという。
古田織部は戦国武将として信長・秀吉に仕える一方、千利休に弟子入りし茶人としても大成し「織部焼」で「織部好み」と呼ばれる流行を生み出し近年は人気コミック「へうげもの」の主人公としても有名。
灯籠の一番下の脚の部分にマリア像の彫刻があることから俗に「マリア灯籠」「キリシタン灯籠」などとも呼ばれているが、神社にこの織部型灯籠があるのが珍しいとのこと。
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世継の梅(よつぎのうめ)
三光門(中門)を東に進み、回廊の南東角にある紅梅の木で、明治天皇の皇后だった昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)の献進によるもの。
明治天皇の女御に治定された際、1867年(慶応3年)9月に幼少の頃より崇敬厚かった北野天満宮に参詣した上で実家である一条家邸内の梅を献進。
その後寿命が尽きたため、京都御所より拝受したものが現在の木で2代目。
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大黒天の燈籠(だいこくてんのとうろう)
三光門(中門)の右手前(東南)にある石灯籠で、台座に大黒天像が刻まれているのが大きな特徴。
1855年(安政2年)10月に河原町正面にあった大黒屋を中心とする質商組合が奉納。
大黒天の口(頬hともいわれている)の中に小石を落ちないように乗せることができたら縁起が良く、その小石を財布に入れておくとお金が貯まるという。「天神さんの七不思議」の一つ。
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臥牛像(がぎゅうぞう)
天満宮における神の使いとされ、境内には多数の臥牛像が見られる。
写真は境内の本殿東側、社務所をやや北に進んだ所にあるもの。
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室町時代に作られた「菅家遺誡」の中の和魂漢才に関する二章を記したもので、菅原道真の精神を周知せしめるために1848年(嘉永元年)に座田維貞が菅原家の後裔である東坊城聰長に揮毫を要請して建碑したもの。
「和魂漢才」の和魂は日本固有の精神(大和魂)、漢才は中国伝来の学問の才を意味し、日本古来の精神を失わずに中国の学問を吸収し活用すべきであるということを意味。平安中期頃に成立し、幕末から明治にかけて国学者の間で流行しスローガンにもなったという。
梅苑内の紙屋川の畔にも同様の石碑があるほか、福岡の大宰府天満宮や大阪天満宮にもある。
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北野商店街に本店を置く長五郎餅本舗の北野天満宮境内茶店で、毎月25日の天神さんの日のみ営業(その他天満宮で行事がある日に営業する場合も)。
北野の地で河内屋長五郎が考案した餡をくるんだ羽二重餅で、1587年(天正15年)の北野大茶会の際に折茶菓として用いられると豊臣秀吉にいたく気に入られ「長五郎餅」の名を賜った。
その後明治維新に至るまで皇室の御用達となり、現在も伝統の味を継承し続けている。
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東門(ひがしもん)
御前通に面し町家も多く残る西陣の花街・上七軒に通じる境内の東側にある門で、国の重文。
1607年(慶長12年)に豊臣秀頼が本殿を再建したのと同時期に建てられたものの一つ(他に中門、絵馬堂、神楽殿、校倉など)。
幅5.2m、高さ8.7m、切妻造で銅葺の四脚門。
東門のそば、高い塀に沿う高台地にはニレ科の椋(ムクノキ)が植えられている。
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石鳥居
東門の前、御前通に面する位置にある石の鳥居。
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手水舎(ちょうずや・てみずや)
東門をくぐってすぐにある。
参詣者が手や口をすすぎ清める場所。ここにも臥牛像の姿が見られる。
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明月舎
境内北西にある茶室。
1587年(天正15年)10月1日に豊臣秀吉が開催した「北野大茶湯」を記念し、12/1には「献茶祭(けんちゃさい)」を開催するほか、北野天満宮献茶祭保存会により毎月1日と15日に「献茶会」も開催する(1/1、8/15、12/15を除く)。
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竈社(かまどしゃ)
東門くぐってすぐの所にある境内末社で、庭津彦神(にわつひこのかみ)・庭津姫神(にわつひめのかみ)・火産霊神(ほむすびのかみ)を祀る。
「庭」とは家庭を意味し庭津彦神・庭津姫神の二神は家庭を守護、火産霊神は火を司り、三神でかまど・台所の守り神としての神徳がある。
元々は神へのお供えを調理する御供所(ごくしょ)のかまどに祀られていたといい、社の内部に昔から使用されてきた大釜も納められている。例祭は6/17。
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明智の鳥居(あけちのとりい)
境内末社・竈社(かまどしゃ)の一の鳥居。
本能寺の変を起こした戦国武将・明智光秀の寄進によるもので、裏側には明智の銘も。
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車祓所
東門をくぐってすぐにある、車のお祓いを行う交通安全祈祷所。
車を祓所に停めて本殿前受付所に申し込む。
本殿北側
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北門(きたもん)
境内本殿の北にある門。
門に面する東西の通りを西に進むと桜の名所として名高い平野神社へと通じている。
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西陣名技碑(にしじんめいぎのひ)
1895年(明治28年)11月25日に西陣織物製造業組合により建立された「伊達彌助氏顕彰碑(だてやすけしけんしょうひ)」。
明治以降に父とともに西陣織の近代化と技術革新に尽力した五世・伊達彌助(1839-1892)を称えるとともに、西陣の新時代へ向けた努力を後世に伝えようと建てられた。
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継往開来碑(けいおうかいらいひ)
1911年(明治44年)に有志により建立された京都養蚕の発展に功績のあった松永伍作(1853-1908)の業績を顕彰する「松永君紀功碑(まつながくんきこうのひ)」。
福井県今立郡上村に生まれ、22歳の時に東京新宿農事試験場にて蚕業に学んだ後、専門家として関西の養蚕業の振興に尽力。1899年(明治32年)には京都蚕業講習所の初代所長に就任。1907年(明治40年)12月1日には勲五等瑞宝章を授与されている。
ちなみに「継往開来」とは、先人の事業を受け継ぎ(継往)、発展させながら更に未来を切り開いていく(開来)ことを意味。
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文子天満宮(あやこてんまんぐう)
北門のそばにある境内末社で、祭神として菅原大神(菅原道真)を祀り、入試・学徳成就の神徳がある。
菅原道真が大宰府で没してから40年経った942年(天慶5年)に右京七条二坊(現在の千本七条付近)に住む巫女・多治比文子(たじひのあやこ)に道真の神霊より我が魂を現境内地の右近の馬場に祀れとのお告げがあり、とりあえず文子の自宅に道真の御霊を祀ったのが北野天満宮の発祥といわれている。
その後他の霊能者にも同じ神託が相次いだため947年(天暦元年)に現在地に移されたが、文子の住居跡は神殿に作り替えられ文子天満宮となり、西の京を経て1873年(明治6年)にこの地に遷座された。
例祭として4月の第2木曜日に神幸祭、第3日曜日に還幸祭を開催。
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地主神社(じぬしじんじゃ)
境内摂社で、道真生誕の9年前、836年(承和3年)2月1日に遣唐使のために北野に祀られたとの記録があり、天満宮の創建以前からの地主の神で、境内でもっとも古い社。
ちなみに楼門をくぐると正面に地主神社があり、天満宮の本殿がやや西に位置しているのは、この神社の正面を避けて建てられたためで、「筋違いの本殿」として「天神さんの七不思議」の一つ。
祭神は天神地祇(てんじんちぎ)で、相殿に敦実親王(あつみしんのう)・斎世親王(ときよしんのう)・源英明朝臣(みなもとひであきらあそん)の三神を祀り、招福・交通安全・諸願成就の神徳がある。
天神地祇は日本国内60余国に祀られたすべての神々のことで、相殿の三神はともに道真の血縁などゆかりの深い人物だという。
現在の社殿は豊臣秀頼の建造。例祭は4/16。
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老松社(おいまつしゃ)
三光門(中門)前に祀られているのと同じ。
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雲龍梅(うんりゅうばい)
本殿北側の摂社・末社が並ぶ中央付近にある八重の白梅。
2002年(平成14年)1月22日に菅原道真の没後1100年を記念した「菅原道真公千百年大祭」の始祭で、全国天満宮梅風会により記念植樹された。
正式には「香篆梅(こうてんばい)」といい、中国の「篆書体(てんしょうたい)」のように枝がねじれ、まるで龍が天に舞い踊るように見えることから雲龍梅の別名で呼ばれることも。
江戸時代より家内安泰の梅として盆梅・庭木として親しまれているという。
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十二社(じゅうにしゃ)
東から西へ以下の12の社が祀られている。
「寛算社(かんざんしゃ)」
祭神は寛算入寺(かんざんにゅうじ)(歯痛平癒)
「大門社(だいもんしゃ)」
祭神は大門内供奉(だいもんないぐぶ)(災難除け・難問解決)
「橘逸勢社(たちばなのはやなりしゃ)」
祭神は橘逸勢(たちばなのはやなり)(病気平癒)
「藤太夫社(とうだゆうしゃ)」
祭神は藤太夫吉子(とうだゆうきっし)(大願成就)
「文太夫社(ぶんたゆうしゃ)」
祭神は文屋宮田麿(ぶんやのみやたまろ)(延命長寿)
「淳仁天皇社(じゅんにんてんのうしゃ)」
祭神は淳仁天皇(じゅんにんてんのう)(心願成就)
「太宰少貳社(だざいのしょうにしゃ)」
祭神は藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)(武道上達・恵雨)
「老松社(おいまつしゃ)」
祭神は島田忠興翁(しまだただおきおきな)(植林・林業)
「白太夫社(しらだゆうしゃ)」
祭神は度会晴彦翁(わたらいはるひこおきな)(子授け・安産)
「櫻葉社(さくらばしゃ)」
祭神は伊予親王(いよしんのう)(喉の病気平癒・音楽・声楽・謡曲上達)
「吉備大臣社(きびのおおかみしゃ)」
祭神は吉備真備公(きびのまきび)(家内安全)
「崇道天皇社(すどうてんのうしゃ)」
祭神は崇道天皇(すどうてんのう)(五穀豊穣)
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天狗山(本殿展望所)(てんぐやま)
境内の北西にある小高い山で、室町時代の「北野天満宮社頭古絵図」に烏天狗が描かれており、昔は付近に天狗が出没したといわれている。
御土居に入場し北の方へ進むと途中に本殿展望所があり、そこから本殿を見下ろすことができる(頂上まで進むことはできないとのこと)。
本殿西側
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牛舎(うししゃ)
境内本殿の北西(乾)に位置し、覆屋内に天満宮の神使である石造の臥牛像(撫で牛)が鎮座することから「乾のお牛さん」の名で親しまれている。
臥牛像は撫でると一つだけ願いが叶うことから「一願成就のお牛さん」とも。
一時期絵馬掛所とともに境内の南西にあったが2014年(平成26年)に40年ぶりに元の位置に戻った。
入口にはやや小さめの朱色の鳥居が連続して立っており、社のそばの絵馬掛所には学業成就・入試合格祈願の絵馬も多数。
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絵馬掛所(えまかけるところ)
牛舎を取り囲むようにして境内本殿の北西に位置する絵馬を掛ける場所。
学業成就・入試合格祈願を中心として毎年10万もの願い事が書かれた絵馬が奉納されるという。
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八社(はっしゃ)
北から南へ以下の8つの社が祀られている。
「福部社(ふくべしゃ)」
祭神は十川能福(そごうのうふく)(開運招福)
「高千穂社(たかちほしゃ)」
祭神は瓊瓊杵命(ににぎのみこと)・天児屋根命(あめのこやねのみこと)(五穀豊穣)
「安麻神社(あまじんじゃ)」
祭神は菅原道真公のご息女(悩み事・憂い事の救済)
「御霊社(みたましゃ)」
祭神は菅公の眷属神(けんぞくしん)の御霊(開運招福)
「早取社(はやとりしゃ)」
祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)(災難厄除け)
「今雄社(いまおしゃ)」
祭神は小槻宿祢今雄(こづきのすくねいまお)(仕事の守り神)
「貴布禰社(きぶねしゃ)」
祭神は高龗神(たかおかみのかみ)(水の守り神・運気発祥)
「荒神社(こうじんしゃ)」
祭神は火産神(ほむすびのかみ)・興津彦神(おきつひこのかみ)・興津媛神(おきつひめのかみ)(火と台所の守り神)
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御神用水(ごしんようすい)
本殿西側にある井戸で、天満宮の神事に用いられる水を汲むためのもの。
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手向山の楓樹(たむけやまのふうじゅ)
江戸中期の1716年(正徳6年)の春2月に奈良県奈良市の手向山八幡宮より楓(かえで)の苗木が奉納されたと伝わる。
これは菅原道真が898年(昌泰元年)に宇多上皇の巡幸に供奉した際に手向山八幡宮に参拝された史実に基づいたもの。他方八幡宮には「菅公腰掛の石」が現存するという。
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四社(よんしゃ)
北から南へ以下の4つの末社が祀られている。
「夷社(えびすしゃ)」
祭神は事代主命(ことしろぬしのみこと)(漁業・商売繁盛)
「松童社(まつどうしゃ)」
祭神は神太郎丸(みわのたろうまる)(厄除け)
「八幡社(はちまんしゃ)」
祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと=応神天皇)(厄除け)
「若松社(わかまつしゃ)」
祭神は若松章基(わかまつあきもと)
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七社(しちしゃ・ななしゃ)
北から南へ以下の7つの摂社・末社が祀られている。
「那伊鎌社(ないかましゃ)」
祭神は建御名方命(たけみなかたのみこと)(農業の守護神)
「一拳社(ひとこぶししゃ)」
祭神は一言主神(ひとことぬしのかみ)(一願成就)
「周枳社(すきしゃ)」
祭神は天稲倉宇気持命(あめのいなくらうけもちのみこと)・豊宇気能媛(とようけのひめのみこと)(縁結び・夫婦円満)
「宰相殿社(さいしょうでんしゃ)」
祭神は菅原輔正卿(すがわらのすけまさきょう)(学業成就)
「和泉殿社(いずみでんしゃ)」
祭神は菅原定義卿(すがわらのさだよしきょう)(学業成就)
「三位殿社(さんみでんしゃ)」
祭神は菅原在良卿(すがわらのありよしきょう)(学業成就)
「大判事社(だいはんじしゃ)」
祭神は秋篠安人卿(あきしののやすんどきょう)(立身出世)
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厭蝋梅
本殿の西側に出てすぐ左手(南側)にある蝋梅(ロウバイ)の木。
木の根元に「厭蝋梅」という石碑が建っている。
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神明社(しんめいしゃ)
本殿の西側に出てすぐの左手(南側)にある2つの社のうち、手前の朱塗りの方の社。
祭神は伊勢神宮と同じ天照大御神(あまてらすおおみかみ)および豊受大御神(とようけのおおみかみ)で、家内安全・家業発展の神徳がある。
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文子社(あやこしゃ)
本殿の西側に出てすぐの左手(南側)にある2つの社のうち、奥の方の社。
祭神として多治比文子(たじひのあやこ)を祀り、相殿に神良種(みわのよしたね)、太郎丸(たろうまる)、最鎮(さいちん)を祀る。
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三光門前広場(さんこうもんまえひろば)
三光門(中門)のすぐ西側にある広場で、2/25の梅花祭で上七軒の芸舞妓も参加する野点はここで行われる。周囲は梅の花がきれいな場所。
2027年の道真没後1125年の「半萬燈祭」に向け大規模改修が進められる中で今後小川を流し「紅梅殿別離の庭」として「曲水の宴」などの行事も行われる場所に整備される予定。
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紅梅殿(こうばいでん)
1916年(大正5年)に調理所として建築。元々「紅梅殿」は神社の由来を記した国宝「北野天神縁起絵巻」で大宰府に左遷されることとなった菅原道真が京との別れを惜しんで「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」と詠んだ邸宅の名前。
以前は本殿のすぐ西側に建てられていたが、2027年の道真没後1125年の「半萬燈祭」に向けた整備事業の一環として2014年(平成26年)の夏に以前よりやや南へ100m、紅梅も望める三光門前広場に移築された。
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連歌所の井戸(れんがしょのいど)
室町から江戸時代にかけて井戸の付近には連歌会所があり、毎月18日の月次会をはじめ2/25の御忌日、6/9の宮渡祭日、8/4の例祭日などにも連歌会が催されていたという。
明治維新の際に廃止されたが、現在も「京都連歌の会」が連歌会を開催している。
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豊国神社・一夜松社・野見宿祢神社
「豊国神社(とよくにじんじゃ)」
境内末社で、祭神は戦国時代に天下統一を果たした豊臣秀吉公で、開運・立身出世に神徳がある。天満宮への崇敬が篤かったことで知られ、1587年(天正15年)の北野大茶湯の開催し、現本殿の造営を遺命した。
「一夜松社(いちやまつしゃ)」
境内末社で、祭神は一夜千松の霊で、延命長寿の神徳がある。天満宮創建に先立ち「私の霊を祀るべき地には一夜にして千本の松を生じさせる」とのお告げにより一帯に生えた松に宿る神霊。
「野見宿祢神社(のみのすくねじんじゃ)」
境内末社で、祭神は野見宿祢で武芸・スポーツ上達に神徳がある。菅原道真の19代前の先祖で後に朝廷に仕え土部(はじ)の姓を賜る。文武両道に優れた勇士で垂仁天皇の御前試合で勝利し相撲の祖と仰がれた。
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一之保神社・奇御魂神社
「一之保神社(いちのほじんじゃ)」
境内末社で、祭神は菅原大神(菅原道真)で、学徳成就に神徳がある。
道真が大宰府に残した手作りの木像を持ち帰り西の京(中京区南西部)北町に建てた社に納め「安楽寺天満宮」と称し祀っていたものを明治期に移築。
安楽寺とは道真の墓所もある福岡県の大宰府天満宮のことで、明治期の廃仏毀釈前の呼称。
「奇御魂神社(くしみたまじんじゃ)」
境内末社で、祭神は道真公の奇御魂で、文芸・歌道上達の神徳がある。
奇御魂とは様々な不思議や奇跡を呼び起こす特別な力を持った神霊のこと。
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稲荷神社(いなりじんじゃ)
境内末社で、稲荷神社の祭神である稲荷大神(倉稲魂神(うがのみたまのかみ)・猿田彦命(さるたひこのみこと)・大宮女命(おおみやめのみこと))を祀り、五穀豊穣・商売繁盛、更に火難除けの神徳がある。
火難除けのご利益があるのは、昔この付近に大火があった際にこの神社の手前で火の手がピタリと止まったと伝えに基づくもので、「火除け稲荷(ひよけいなり)」とも呼ばれ信仰を集めているという。例祭は2月の初午の日。
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猿田彦社(さるたひこしゃ)
境内末社で、祭神の猿田彦神(さるたひこのかみ)は交通安全、相殿の大宮売神(おおみやめのかみ)は芸能・舞踊上達に神徳がある。ちなみに二神は夫婦神で一緒に祀られることも多い。
猿田彦神は天照大神の孫にあたる瓊瓊杵命(ににぎのみこと)が天照大神より日本国を治めるように命を受け天上から地上に降り立ったいわゆる「天孫降臨」の際に道案内役を務めたことで知られ、また2mを超す巨体と長い鼻を持ち天狗のモデルともいわれている神。
大宮売神は天鈿女命(あめのうずめのみこと)の別名で、弟神・素戔嗚命(すさのおのみこと)の乱暴な振る舞いを悲しみ天岩屋戸に隠れた天照大神を軽妙な踊りで慰めたことで知られ、また愛敬のある顔立ちが「おかめ」顔のモデルといわれている神。
本殿南側
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臥牛像(がぎゅうぞう)
天満宮における神の使いとされ、境内には多数の臥牛像が見られる。
写真は境内の楼門をくぐってすぐ左側、絵馬所との間にあるもの。
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絵馬所(休憩所)(えましょ)
楼門をくぐってすぐ左側に位置し、有名な絵師による絵馬が多数奉納されているほか、屋根の軒下に歌仙絵がずらりと並ぶ。
1699年(元禄12年)から翌年にかけて行われた大修理の際に建てられたもので、京都に現存する絵馬堂の中で最も古く規模も大きいことから、江戸中期の絵馬堂の貴重な遺構として1983年6月1日に京都市指定有形文化財にも指定されている。
当時は今よりやや北に南北に建てられていたという。現在は自販機やベンチなども置かれており参拝客の休憩所も兼ねている。
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宗像社(むなかたしゃ)
境内末社で、古くから海上交通の要所であった福岡県玄界灘に鎮座する水の女神「宗像三女神」を祀り、交通安全・海上運輸安全の神徳がある。
宗像三女神は市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)・田心媛神(たごりひめのかみ)・湍津媛神(たぎつひめのかみ)のことで、天満宮では昔社殿の西に池があり、その水底に鎮座していたご神体をこの場所に遷したものと伝わる。
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大杉社(おおすぎしゃ)
天満宮随一の御神木で、室町期の「社頭古絵図(しゃとうこえず)」に樹齢数百年と思われる二又の巨木が描かれていることから一千年は経ているものと推定されるという。
後に落雷により二又の幹はくじけて根幹を残すのみとなるが、多くの崇敬者により現在まで守り継がれている。
神仏習合の室町期には「聖歓喜天(じょうかんぎてん)」の宿る諸願成就の神木として信仰を集めた。
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古札納所(ふるいおふだおさめしょ)
楼門をくぐって境内の南側、大杉社のすぐ隣に位置。
古札を納めるいわゆる「納札所(のうさつしょ)」。
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文庫
梅苑・御土居(もみじ苑)
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梅苑入口(ばいえんいりぐち)
楼門の手前左側にある梅苑の入口で、秋にはもみじ苑への入口にもなる。
梅苑と御土居は中でつながっているので、御土居入口とどちらからでも出入りできる。
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梅苑(ばいえん)
祭神・菅原道真はことのほか梅を愛したといわれていて、「東風(こち)吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春な忘れそ」の句は有名。その縁もあり境内には梅の花が多い。
梅苑は表参道の西側に広がり、約2万坪の境内に50種類約1500本の梅の木があるという。
例年2月初旬から公開され、紅梅から白梅、一重、八重の順に咲き始める。見頃は2月下旬~3月中旬までが最も美しい。
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梅苑茶屋(もみじ茶屋)
梅苑の中にある茶屋。
梅の時期には「梅苑茶屋」として梅苑の梅を使った梅こぶ茶「香煎茶」と麩焼せんべい「菅公梅」が楽しめる。
秋の紅葉の時期には「もみじ茶屋」として「利休百会記」に登場する「麩の焼(ふのやき)」をイメージし再現したという和菓子の名店・老松のお菓子「北野大茶湯」を楽しめる。皮はもっちり、中には白味噌あん、山椒の風味がピリリと効いているのが特徴。
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御土居石碑
本殿西側に位置、御土居口の受付のすぐ右側に立つ。
「史跡 御土居の紅葉」と刻まれている。
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御土居口(おどいぐち)
本殿西側にある御土居(もみじ苑)への入口。
梅苑と御土居は中でつながっているので、梅苑入口とどちらからでも出入りできる。
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舞台(ぶたい)
御土居口から入ってすぐの御土居の上にあり、眼下を流れる紙屋川と川に架かる鶯橋を望むことができる。
紅葉の時期にはここから紙屋川を見下ろす紅葉がとても見事。
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梅交軒(ばいこうけん)
御土居口からすぐ、舞台の隣にある茶室。
「利休百会記」に登場する「麩の焼(ふのやき)」をイメージし再現したという和菓子の名店・老松のお菓子「北野大茶湯」を楽しめる。
皮はもっちり、中には白味噌あん、山椒の風味がピリリと効いているのが特徴。
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東風(こち)
樹齢600年の大欅(けやき)
1591年(天正19年)に豊臣秀吉が御土居を造成した当時から立つという。
名前は道真が京の都を去る時に詠んだ「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」の短歌にちなむものと思われる。
2~3月の梅苑公開期間と11~12月初旬のもみじ苑の公開期間のみ鑑賞が可能。
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御土居(おどい)
境内西側、「御土居」は1591年(天正19年)に天下人・豊臣秀吉が洛中洛外の境界および水防のために築いた土塁で、そのほとんどは取り壊されてしまったが、北野天満宮の境内にはその一部が残っており史跡に指定されている。
御土居にはかつて紙漉き場であった紙屋川が流れ、以前からの自然林も多く残っていて、四季折々の美しい景色を堪能できるが、特に紅葉の時期は見事で「もみじ苑」として特別公開される。
奥の展望所からは国宝本殿を望むことができる。
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もみじ苑(もみじえん)
2007年より秋に一般公開される
御土居一帯には約250本、樹齢350~400年に及ぶ紅葉の木が残されており、苑内は赤と黄色の世界に包まれるほか、公開に合わせてライトアップや様々な催しも開催される。
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御土居下梅苑
昔より御土居下は市内唯一の梅園で、白梅、紅梅の下で人々は床几を並べ毛氈を敷き、早い春を愉しんだ。
その一方で下を流れる紙屋川には喜々として沢蟹と遊ぶ子供たちの姿が見られたという。
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鶯橋(うぐいすばし)
御土居の中を流れる紙屋川(天神川)に架かる橋。名前は季節に周辺でうぐいすが囀ることに由来する。
1933年(昭和8年)に現在より少し上流に架けられたが1935年(昭和10年)の豪雨で流失。2007年(平成19年)11月の史跡御土居の紅葉苑開苑に際し、朱塗りの木製太鼓橋として再建。秋には一帯が赤と黄の紅葉に包まれ、川面に映る紅葉を橋の上から眺めることもできる。
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三叉の紅葉(みつまたのもみじ)
神苑内でも一際大きく、1591年(天正19年)の豊臣秀吉による御土居の建造が始まるよりも前から紙屋川に自生しており、樹齢400年を超えるという。
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竹林(ちくりん)
御土居を南の方へ進み、橋を渡った南西側。
秋には竹林と紅葉の絶景が味わえる。
関連
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北野神社御旅所(きたのじんじゃおたびしょ)
西大路妙心寺を妙心寺通沿いに少し西へ進んだ所にある、北野天満宮の御旅所。御旅所とは、祭礼(神幸祭)の際にご神体を乗せた神輿(みこし)が休憩または宿泊する場所のことをいう。
北野天満宮では毎年「ずいき祭」期間中の10/1~10/3まで、当所に三基の鳳輦(ほうれん)とずいき神輿が駐輦。八乙女田舞や献茶祭などの祭典・行事で賑わう。
「ずいき祭」は1607年(慶長12年)、天満宮本社造営の際に西ノ京氏子たちがこれを祝って新鮮な農作物で神輿を作り神前に奉納したのがはじまり。
境内には入口の石鳥居のほか御輿岡神社、南西には京都市指定保存樹のクロガネモチの木がある。
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御輿岡神社(みこしがおかじんじゃ)
北野神社御旅所の境内にある、北野天満宮の境外末社。
祭神は大巳貴命(おおなむちのみこと)(土地の守り神)・少彦名命(すくなひこなのみこと)(医薬・病気平癒の神)・および菅原大神(菅原道真)(学徳成就の神)を祀る。
太古この近辺は神楽岡と称する大きな森林で、その頃より大巳貴命・少彦名命の二神は鎮守の神として祀られてきた。
947年(天暦元年)に北野天満宮が創建されて、初めて神輿がこの場所に渡御したことにより御旅所と定められ、地名も御輿岡に改称。更に菅原大神を合祀して天満宮の境外末社となった。
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北野天満宮瑞饋祭駐輦所(きたのてんまんぐうずいきまつりちゅうれんしょ)
三条通沿いの三条天神道、両洋学園の向かいにある。
10/1から5日間開催される「ずいき祭」の開催中に神輿が駐輦(行幸中に一時的に滞在)する場所。
道中での神輿の駐輦は代々篤志家の屋敷や私有地に委ねられてきたが、2004年(平成16年)9月に三条通沿いに新たに駐輦所が設けられた。